『エヴァ』テレビ版感想:最終話 旧劇場版と同じくらい実直

長かったエヴァ感想も今回で最後。……にしようと思っていたのだが、やはり次のエントリで旧劇場版についても少し書くことにした。テレビシリーズに関しては書きたいことが前回まででわりと消化されてしまって、おかげで少しきりが悪くなってしまったので。
 
26話、「世界の中心でアイを叫んだけもの」
 
自己啓発セミナーとしての側面
物語の着地点にどこを選ぶのか。通常であれば主人公は世界を救ったりするが、スケジュール的な問題などもあり、庵野監督は話をシンジの心の救済に絞ることにした。

テレビ版の最終二話はシンジ(とその周囲の人々)の心の描写に終始する。限られた映像素材で心の世界+α(シンジに自分の価値に気づかせること)を描くのは相当困難だったはずだが、それをああいったキャッチーな形で作れたのは凄い編集センスだと思う。
僕は最後の「おめでとう」「ありがとう」を見ると空々しさと晴れやかな気分が半々になるのだが、あれは一部からは「自己啓発セミナー」的と非難されもした。

「エヴァは、やっぱり、自己啓発セミナーである」 - 大塚英志のおたく社会時評
 
エヴァ」最終回のプロットは自己啓発セミナーのプログラムそのものである、というぼくの指摘に対し、庵野は『クイックジャパン』のインタビューでセミナーに参加したことはない、と否定している。だが、別にぼくは庵野セミナー参加云々を問題にしたのではない。「エヴァ」の最終回に於ける問題解決の方法が「セミナー」と同一であるというのは事実以外の何者でもない。
(中略)
 ここで誤解のないように言っておくが「エヴァ」がセミナーと同一構造だからダメだ、といっているのではなく、セミナーも「エヴァ」も問題解決の手段として間違っている、といっているのである。

 
これについて、インタビュー本『パラノエヴァンゲリオン』では、周囲のスタッフから衝撃の証言がされている。

貞本 うん。最終話で、結局、どうしたらいいって(庵野さんが)聞いてくるから、「逃げたらダメだ」っていう人が「逃げてもいいよ」って言われたら、たいていの人は楽になって、気持ちいいよって答えたんですよ。そしたら。
(中略)
貞本 いや、当時流行ってた、そのへんのセラピー物の小説とかっていうのを、僕が読んだ限りでは、たいてい最後のテーマは……。
竹熊 自己を受け入れるってやつ。今のままの自分を肯定するという。
貞本 そうそう。結局、逃げたければ逃げなさいとかですね。まあ、深く考えるなみたいな。ちょっとラテンに行きなさいとか……そんなテーマが多かったんですよ(笑)。たいていあの種の本は、いや、逃げていいですよって。そういったものになってんだよという話をしたんですね。庵野さんに。そうしたら……。
竹熊 素直に出しちゃった?
貞本 だと思いますよ。
佐藤 自分自身が、そこで癒された部分もあったんかな。
貞本 ウワーッと思いまいたけどね。脚本見たら、言ったことストレートに入れてるわと(笑)。
竹熊健太郎・編 (1997) 『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン太田出版 p.153

あれ貞本さんの入れ知恵だったのかよww

今となっては自己啓発セミナーのようなものに薄気味悪さや滑稽さを感じる。そうしたものが精神的にプラスになる人がいれば、それはその人の勝手と割り切ることもできる。しかし個人的に大問題なのは、僕が『エヴァ』の最終回をはじめて観たときに*1わりと無批判に作品からカタルシスを感じてしまっていたことだ。いわゆる黒歴史というやつである。自己啓発セミナー云々の背景を知らなかったというのもあるが、それは大した言い訳にならない。あの最終回は頭を空っぽにして見ると、確かに気持ちの良かったのだ。
少なくとも庵野監督は作っている瞬間、「これしかない」という思いで、本気で作っていたに違いない。あの勢いはその迫力の成せる技だと思う。人が何かを本気で作り、とんでもない駄作になることはよくあることだが、『エヴァ』の場合は決してそうはなっていない。制作にあたっての熱意は、確かに作品に焼き付いている。

 
自己啓発の失敗
テレビ版の最終回自体、あれはあれでとても完成度の高いものだ。しかし本当のオチがつくのは、実のところ庵野監督の心がちっとも補完されていなかったことが露呈する旧劇場版だろう。シンジが「ここにいてもいいんだ!」と一瞬思ってみたところで、結局現実はメンヘラヒロインが待ち構えるコミュ障には辛い世界なのだ。
エヴァ』という話を本当に「成長もの」として完結させたければ、やはり最終話の舞台は現実であるべきだった。最終話でシンジは自分に「学園エヴァ」の可能性を垣間見る。しかし、垣間見るだけでは足りないのだ。成長ものとして描くのであれば、シンジは現実に「学園エヴァ」のような立ち位置を勝ち取る必要があった。
成長ものをきちんと描けなかった事自体が庵野監督の正直さの現れであり、当時の監督の精神状態の反映なのだろう。そんな当時の庵野さんのメンヘラっぷりを追体験するための媒体として、テレビ版の最終回は旧劇場版と双璧をなす、至高の作品と言える。
 
というわけでもう一つの終局、旧劇場版感想へとつづく!
・次回感想→『エヴァ』旧劇場版感想 悪趣味な快感
・全話感想もくじ→『エヴァ』テレビ版〜旧劇場版/『新劇場版:Q』全感想目次

*1:厳密には初見時はポカーンとしてただけなので、何度か観返して自分なりに納得ができた後

『エヴァ』テレビ版感想:24話 僕に優しくしてよ!

カヲル君登場回。あらためて観るとシンジのデレ方が殆ど二次創作のレベル。
 
第24話、「最後のシ者」
 
■カヲル関連
・家を失ったトウジ達は第3新東京市を出ていってしまった。シンジは綾波にもアスカにも会う気になれない。エヴァパイロットを続けるにあたってのモチベーションを見失う。手のソワソワした動きがそんな心情を表している。そこに某幾原邦彦がモデルのキャラが登場…。

・カヲルに優しくされてコロっとデレるシンジ。

この優しくしてくれるなら誰でも良い感じがリアル。前回ミサトがシンジの手を握ろうとしたり、ペンペンに声をかけたりしてたのや、以前アスカが加持にかまってもらえずシンジで欲求不満を発散しようとしていたのに近い。このように一部のメインキャラが根底にかまってちゃん気質を共有しているのはコアに庵野さんがいるから。
そういえばこうしたかまってちゃんキャラに対して、綾波はシンジとゲンドウに一途だよな。庵野さんも常々「綾波というキャラがよく分からない」と言っていたな。
・シンジのウジウジした寂しがりやな性格を「ガラスのように繊細だね、得に君の心は。好意にあたいするよ」「好きってことさ」と全肯定してくれるカヲルきゅん。シンジきゅんを瞬殺しにきている。
庵野さんが幾原さんと温泉旅行に行ったという話、何かのイベントで関係者が話していたのは聞いたけど、そういえば文献などで詳しく確認したことがない。この場面でのシンジとカヲルと近い会話が交わされたという噂だが果たして…(笑)。聞いた話では以前発売された「カヲル本」の幾原インタビューで触れられているらしい。買う買う言いつつまだに買えてない。明日ちょっと本屋行ってくるか。

ALL ABOUT 渚カヲル  A CHILD OF THE EVANGELION

ALL ABOUT 渚カヲル A CHILD OF THE EVANGELION

・カヲルは風呂場で
「他人を知らなければ裏切られることも、互いに傷つくこともない。でも寂しさを忘れることもないよ。人間は寂しさを永久に無くすことはできない。人は一人だからね。ただ忘れることができるから、人は生きて行けるのさ。」
と、シンジの手をにぎる。この後「好きってことさ」という台詞や、「僕は君に会うために生まれてきたのかもしれない」といった台詞なんかも飛び出る。カヲルも本質的には根暗野郎で、本気でシンジに共感、一目惚れしていたのだと思う。ただ1話で出てきて1話で死んで行くキャラクターなので、感情移入するのはなかなか難しい。貞エヴァはそこを補完する面もあったが、『Q』ではどういった描き方になるのだろう。
 
■その他気づいた点
・シンジとアスカが家出してるので、家で手持ち無沙汰なミサト。
「シンジ君もいまだ戻らず…。保護者失格ね、私。」
え、まだ保護者のつもりでいたんですか!?
・爆発に巻き込まれる恐れがあるので、翌日から洞木さん(委員長)家におせわになるのよと、ペンペンに語りかけるミサト。

ペンペンが委員長の家に預けられるという話はすっかり忘れていた。トウジの一件以降、シンジとクラスメイト達の関係がぷっつり切れてしまうのが僕としてはわりと不満なのだが、彼らは一応コンタクトが取れる範囲にいるのだな。
一応19話「男の戦い」ではシンジが第3新東京市を出ていくと聞いたケンスケが電話をかけてくる場面はある。しかしケンスケはそこで「なぜいまさら逃げるのか」「俺はお前が羨ましかった」等、4話までの気配りが見る影もない無神経な問いかけに終始する。「トウジすらエヴァに乗れるのに」とも言っていることから、トウジのケガの件を知らなかったのだろうか。でも委員長はお見舞いに行ってたし…。ケンスケは18話でもシンジに余計な情報を教えて、シンジのミサトさんへの不信感を煽っていたし、案外序盤に比べて性格描写がブレてるキャラな気がする。「根は良いやつ」という範囲でブレさせたということなんだろうけど。
・カヲルを殺してしまい、落ち込むシンジ。

シンジ「始めて人から好きだって言われたんだ。僕に似てたんだ。綾波にも。好きだったんだ。生き残るならカヲル君のほうだったんだ。僕なんかよりずっと彼のほうが良い人だったのに。カヲル君が生き残るべきだったんだ。」
ミサト「違うわ。生き残るのは、生きる意思を持ったものだけよ。彼は死を望んだ。生きる意思を放棄して、見せかけの希望にすがったのよ。シンジ君は悪くないわ。」
シンジ「つめたいね、ミサトさん。」

ねー、つめたいねーwここでミサトの人間哲学をシンジに言い放ったところで何にもならないのに。まず共感から入ってくれるカヲル君とは大違いです。
 
次回予告。「最後の使徒は消えた。だがシンジは苦悩する。そして、ミサト、アスカも心を吐露する。人々に救いを求めながら。これも終局のひとつの形であることを、認めながら。次回、「終わる世界」。」
DVDには劇場版25話「Air」の予告も直後に収録されている。「最後のシ者は倒した。だが、現実に対処できないシンジは固く心を閉ざしてしまう。そして、約束のときが来る。迫り来るネルフ全滅の危機。死の淵へ追い詰められるアスカ。レイと共に発動へと導かれる人類補完計画。己の現実に抗い、夢を受容する人々の頭上に、エヴァシリーズが舞い降りる。暴かれる欺瞞をあざ笑うかのように。次回、「Air」。」
確かにここに来て突然「終わる世界」を見せられたら、当時のファンが怒るのも無理はない気がするw 「終わる世界」と「世界の中心でアイを叫んだけもの」はわりと「まごころを、君に」のまんまなんだけど、間に「Air」に相当する「つなぎ」の部分が抜け落ちてしまってるんだよね。
そんなわけでつづく。
・次回感想→『エヴァ』テレビ版感想:25話 シンジ≒ミサト≒アスカ≒アンノ
・全話感想もくじ→『エヴァ』テレビ版〜旧劇場版/『新劇場版:Q』全感想目次

『エヴァ』テレビ版感想:23話 ミサトはなぜ手を握ろうとしたのか

綾波が爆死。傷心のシンジに、ミサトが手を伸ばす…。
 
第23話、「涙」
 
■なぜ手を握ろうとしたのか
問題のシーン。


シンジミサトさん、出ないんだ。涙。悲しいと思ってるのに出ないんだよ。涙が。」
ミサト「シンジ君。今の私にできるのはこのくらいしかないわ。」
シンジ「やめてよ!やめてよミサトさん……。」
ミサト「ごめんなさい……。」

ミサト「(寂しいはずなのに。女が怖いのかしら。いえ、人との触れ合いが怖いのね。)」
ミサト「ペンペン。おいでー。」
ペンペン「(プィッ)」
ミサト「(そっか、誰でも良いんだ。寂しかったのは私のほうね。)」

 
僕は中学生の時にこのシーンを観て、ミサトは純粋にシンジを慰めてくれようと、手を握ってくれようとしたのだと思った。確かに場面からある種の生々しさは漂っている。シンジの寂しさとは別に、ミサトの寂しさがあるのは分かる。ミサト自身、シンジの部屋から出た直後に、寂しさを紛らわせたかったのが自分のほうだったことに気づいている。しかしミサトに寂しさがあったからといって、あそこで手を握る行為がシンジのためになり得なかったとは思わない。また、手を握ったからといって、それが直接シンジとの肉体関係に発展したかと言われると、それも違うと思うのだ。
この場面について庵野さんが語ってるのを見たことないのだが、何か知ってるひとがいたら教えてくれませんか(笑)。
僕が唯一知ってるのは、『スキゾ・エヴァンゲリオン』のスタッフインタビューでちらりと触れられていること…。

鶴巻 ミサトをやっぱりちゃんと描かなければならなかった。本当は初期設定というか、このポジションにいる女だっていうところを、ちゃんと決めて描いていくことが、作品としてやるべきことだった。ところが、肩入れし過ぎていく過程で、ミサトはシンジとはなんの関係もない女になっていくという。あれはやっぱりね。
貞本 生々しす過ぎるんだけど、その生々しさが……。
鶴巻 いいんですけどね。それはいいんですけど。
貞本 作品の中にはまってない。
鶴巻 そう。作品を高める役にはなってないっていう感じですか。ミサトのキャラクターだけが立って、あれで泣いた女もいるっていう話を聞きますけど。作品の中には、別にはまってないと……。
貞本 『エヴァンゲリオン』としてははまってないんだけど、庵野劇場としては、はまってるっていう。
竹熊 でも、ミサトさんが後半の方で、シンジ君にちょっかい出そうとするじゃないですか。それでシンジ君に拒絶されて。
佐藤 ああ、皆、そう見るとか言って、庵野さんはすぐ怒るんですけど。
竹熊 うん、でもあれ、知り合いの主婦が、えらい感動したよね。寂しかったのはシンジじゃなくて自分だってことだよね。あれはすげえリアルだって。
摩砂雪 あの時は、本当にそう思ってたのかもしれないね(笑)。
大泉実成・編 (1997) 『庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン太田出版 p.167

 
これも解釈が難しい。座談会形式なため、話が微妙に散漫なのだ。「ああ、皆、そう見るとか言って、庵野さんはすぐ怒るんですけど。」という部分で、庵野さんがどういった見方に対して怒っているのか、いまいち判然としない。
問題となるのは竹熊さんが発言するあたりから。話の流れからすると、竹熊さんは「作品にはまっていないミサト」という点について、「主婦も泣いたというし、やはりはまってたのではないか」と主張しているように思える。これに対し、佐藤(裕紀)さんの「ああ、皆、そう見るとか言って、庵野さんはすぐ怒るんですけど。」という発言は、「ミサトが作品にはまっていたかどうか」についてではなく、「(ミサトさんが)シンジ君にちょっかい出そうとする」という竹熊さんの作品解釈に対し、茶々を入れているように思うのだが。
竹熊さん自身はこの茶々を受け流し、あくまで「ミサトが作品にはまっていた」という主張を続ける。この後、摩砂雪さんが少し遅れて、ミサトがあの場では「本当にそう思ってた(=シンジにちょっかい出そうとした)のかもしれないね(笑)」と、竹熊さんの話をフォローしている。つまりメインスタッフの間でも、あの行動について解釈に幅があるのではないか、ということだ。
 
少なくとも僕は、ミサトのあの行動にはそれだけ解釈の余地があると思っている。例えば次の第24話「最後のシ者」において、カヲルがシンジの手を握る場面があるが、そこも確かに何やらいかがわしい雰囲気が漂っているが、直接肉体関係に発展するものではない。

 
さて、覚えている方がいるか分からないが、ここでまたエヴァの「フィルムブック」の話をしたい。フィルムブックに対する不満は既に一度、6話の綾波の笑顔に関連して表明している。

そんな重要文献であるフィルムブックだが、ページ下部に添えられている「一言解説」のようなコーナーでは時折ライター(たぶん岸川靖氏)の主観が垣間見え、内容を押し付けがましく感じることがあった。今回の場合などはその典型だ。綾波が何を想って微笑んだかは、視聴者に想像の余地が残されるべき部分であり、公式の文献に断定口調のコメントが添えられるのは望ましくなかったのではないか。同様のことは23話「涙」において、ミサトが綾波の死に落ち込むシンジの手を握ろうとする場面の解説文にも言えると思う…が、そちらに関しては23話の感想で再度触れるとしよう。

『エヴァ』テレビ版感想:6話 笑顔が持つ含み - さめたパスタとぬるいコーラ

6話のときにも予告したので、ここで改めてフィルムブックに対する不満を述べさせて頂く。
問題の部分にはこうある。

CHECK POINT:シンジに手を伸ばすミサト。彼女はこのとき、シンジをなぐさめるために自らの肉体を差し出すつもりだったのかもしれない。しかし、それは自分自身の寂しさをまぎらわすための代償行為でしかなかった。
CHECK POINT:ミサトの手を拒絶するシンジ。シンジは子供なので、ミサトの影の感情にまでは気づかなかった。単純にかまってほしくなかっただけだろう。そのあとで、ミサトが自分のなかの真実に気づくあたりの表現はみごと。
ニュータイプフィルムブック 新世紀エヴァンゲリオンフィルムブック 9』(1996) 角川書店 p.25,p.26

大筋の論調には同意できる。しかし「彼女はこのとき、シンジをなぐさめるために自らの肉体を差し出すつもりだったのかもしれない。」という表現については、前述のような理由で、より慎重になる必要があったように思う。一応「かもしれない」と、ぼかしてあるので、6話の綾波の笑顔についての解説よりは好ましい表現であるように思うが…。
 
■その他感想
・委員長の家にあがり込み、学校にも行かず、家にも帰らず、ひたすらセガサターンに明け暮れるアスカ。就寝時に委員長に愚痴り、慰められ、泣き出す。惨めすぎて見ていられない。それにここでの委員長のドライな慰めもアスカのプラスになってるようには思えないんだよな。

 
綾波のダミーを大量破壊するリツコ。
シンジ綾波、レイ…。」
ミサト「まさかエヴァのダミープラグは…!?」
リツコ「そう、ダミーシステムのコアとなる部分よ。その生産工場。」
ミサト「これが…。」
リツコ「ここにあるのはダミー。そしてレイのためのただのパーツに過ぎないわ。人は神様を拾ったので喜んで手に入れようとした。だから罰が当たった。それが十五年前。せっかく拾った神様も消えてしまったわ。でも今度は神様を自分たちで復活させようとしたの。それがアダム。そしてアダムから神様に似せて人間を作った。それがエヴァ。」
リツコが一定以上の字数を喋ると太鼓の音が聞こえてくる病気がここでも発動……。
・悲劇のヒロイン状態のリツコ、それを「(あらー…、まあ人のこと言えないけど…)」と見つめるミサト。そして完全なるとばっちりで場違い感漂いまくりのシンジ。

これだけ嫌な空気が漂う場面なのに、後のシンジにさほど影響してこないのが凄い。キャラクターが各自勝手に狂ったテンションになっている感じ。
こうした狂ったテンション、他のアニメだとなかなかお目にかかれない。最近だと『あの花』の最終回あたりが記憶に新しいが。あれは幼馴染達が号泣しながら各自のトラウマ告白大会を行なっている最中に主人公が遅れてやってきて、「(やべーところに来ちまった…)」感を漂わせていて素晴らしかった。
 
・次回予告。「少年が守っていた街は消え、少年が心を寄せていた友人たちは去り、少年が心惹かれていた少女らは恐れへと変わった。心の依り代を失ったシンジに、夕暮れの中、新たな少年が微笑む。彼の全ての罪を包み込むような笑顔に溶け込むシンジ。だが、彼らには、過酷な運命が仕組まれていた。次回、「最後のシ者」。」
物語のテンションとスケジュールのヤバさのシンクロ率がストップ高なのが一目でわかる予告映像。

カヲルに手を握られ、赤面するシンジ。今回のミサトに対する反応とは好対照。新劇場版ではミサトや綾波と手を繋いできているシンジだが、『Q』ではまたカヲルの寝とりイベントが発生するのだろうか。するのだろうなーw
そんなわけでカヲル君が待つ24話へ続く!
・次回感想→『エヴァ』テレビ版感想:24話 僕に優しくしてよ!
・全話感想もくじ→『エヴァ』テレビ版〜旧劇場版/『新劇場版:Q』全感想目次

『エヴァ』テレビ版感想:22話 人形になりたかったアスカ

アスカはこれまでシンジや綾波に対し、しばしば嫌悪感をあらわにしてきていた。この回では、それが実は同族嫌悪的なものだったことが判明する。
今回はテレビシリーズ屈指のギスギスした空気の回で、もしかしたら一番好きなエピソードかもしれない。テレビ放送版のほうが展開は粗いが、アスカのテンパッて行く感じが印象に残る。対してビデオフォーマット版には大量の修正・追加シーンがあり、見え方が随分違う。
今回は時間の都合上ビデオフォーマット版しか見返していない。ビデオフォーマットにしか無いシーンがどこなのかは具体的には思い出せないのだが、結果的に今回の感想では追加シーンに関する言及が多くなっている気がする。いずれテレビ放送版を見返すことがあったらその辺少し追記するかもしれない(※脚注に追記済み/2021年1月16日)
 
第22話、「せめて、人間らしく」
 
■演じられた自分への違和感
・加持に迫るアスカ。回想と深層心理が混在したような描写。ここはビデオフォーマット版の追加シーン。

加持「アスカはまだ子供だからな。そういうことはもう少し大人になってからだ。」
アスカ「えーつまんなーい。私はもう十分に大人よ!もう大人よ!大人よ大人よ!だから私を見て!」

周囲に認められたいがために大人ぶろうとするアスカ。
  
・継母からの電話に一見楽しそうに応対するアスカ。

電話を切ったときの嫌そうな顔が良い。「演じている自分」に嫌気がさしてきているように見える。すぐ後の風呂場でのシーンでもそれが悪い方に爆発している*1


「気持ち悪い。ミサトやバカシンジが浸かったお湯なんかに、誰が入るもんか。ミサトやバカシンジの下着を洗った洗濯機なんか、誰が使うもんか。ミサトやバカシンジの使ったトイレなんかに、誰が座るもんか。ミサトやバカシンジと同じ空気なんか、誰が吸うもんか。ミサトも嫌、シンジも嫌、ファーストはもっと嫌!パパも嫌、ママも嫌!でも、自分が一番嫌!もう嫌!我慢出来ない!なんで私が、私が!」

自分や他人に対する嫌悪感に生理痛という身体的な感覚が加わり、とても生々しいシーンとなっている。
 

ミサトをはじめ、こうしたときに心の支えになってあげられない周囲の人間のカスっぷりは目に余る。アスカがセガサターンに逃避してしまうのもやむなしである。
  
・エレベーターで綾波と乗り合わせるアスカ。

「あんたって人形みたいで、むかしっから大嫌いなのよ!みんな、みんな、大嫌っい!」
この台詞も、後にブーメランとなってアスカに返ってくる…。
 
・新たな使徒の登場。アスカは綾波のバックアップに就くよう命じられるが、プライドが許さず強行出撃。しかし出撃するなり使徒の精神汚染に遭う。
アスカの絶叫が響く中、プラグを強制射出するなりして助けてあげれば良いものを、あたふたするだけで何もしてくれないネルフの連中が実に使えない。

 
使徒の精神攻撃により、アスカの内面の矛盾が暴かれて行く*2

アスカの実母「だからお願いよアスカちゃん。一緒に死んでちょうだい。」
アスカ「うん一緒に死ぬわママ。だからママをやめないで!」
アスカの実母「ママ?知らないわ。あなた、誰?」

惣流・アスカ・ラングレーです。よろしく。あんたバカァ?チャーンス。だから私を見て!」
「違う!こんなの私じゃない!」


幼いアスカ「寂しいの?」
アスカ「違う!側に来ないで!私は一人で生きるの!」「誰にも頼らない!一人で生きていけるの!」
幼いアスカ「嘘ばっかり…。」
アスカ「(絶叫)」

幼いアスカが最後に人形の姿になっているシーンでゾクリと来た。アスカには承認欲求の強い、他律的な部分がある。それは、誰かの人形となりたい無意識の願望と言い換えることもできる。
アスカは表向き「私を殺さないで」と言いつつも、母親に「一緒に死んでちょうだい」と言われた際、「一人で生きる」ことよりも、母親の人形として共に死ぬことを望んだことがあったのである。*3ここのところアスカが苛立っていたのは、これまで意識してこなかった(封印していた)そうした部分に、段々意識的になってきていたからではないか。それを使徒に無理矢理掘り起こされ、精神をズタズタにされたというわけだ。
 
実はアスカのこうした苛立ちは、ミサトのそれに非常に近い。
以前12話の感想で、ミサトがシンジに自分の嫌な面(=他人に合わせて愛想良く振る舞うこと)を垣間見たことで苛立っていたと指摘した。その際、アスカがシンジに苛立った理由については、次のように書いていた。

ミサトは、アスカがシンジに怒ったのはシンジが「他人の顔色ばかり伺っているから(=嬉しくないにも関わらず愛想笑いしていた)からであるというのだが、僕はアスカが怒った主な原因はシンジに対する嫉妬としか思えない。嫌味を言われてもヘラヘラしているシンジに全く苛立たなかったとは言い切れないが、アスカが怒った主要因はそこではなかったはずだ。
狂ってるなと思うのが、直後に開かれるミサトの昇進祝いパーティーで、ミサトもちゃっかり愛想笑いしている点だ。つまり、あれが同族嫌悪による完全な八つ当たりにしか見えないのである。

ここは訂正しなければならない。僕はこのとき、「アスカが怒った主要因はそこではなかったはずだ」と、ミサトとは怒った原因が異なることを強調した。しかし22話を観ると、ミサトの言っていた通り、アスカがシンジのそうした(嬉しくないにも関わらず愛想笑いをする)態度に苛立っていた部分も大いにあるように思えてくる。それも、ただ苛立っていたというのではなく、実はミサトと同じように同族嫌悪により苛立っていたことが想像できる。*4
ミサトやアスカが抱えているのは、言ってみれば他者に求められたいがために、本来の自分とは違う自分を演じようとすることに対する違和感だ。シンジもこれにとても近い悩みを抱えている。キャラクターの性質がこのような形で共通してくるのは、キャラクターの根底に庵野監督の人格が潜り込んでいるからだと考えられる。
 
なお、『EOE』においてアスカは「死ぬのは嫌」という台詞を連呼する。これは母親の「一緒に死んでちょうだい」という言葉に対し、文字通り自分は死にたくないという意味もあるだろう。しかしそれに加えて、文字通りの肉体の死ではなく、他人の心の中から消されたくない(=「だから私を見て」)という意味も含まれているのではないか。他人に求めて貰いたいという気持ちに素直になれたとき、再び2号機とシンクロできるようになったのもうなずける。
 
■その他気づいた点
使徒の精神攻撃を受けている最中*5

「アスカはまだ子供だからな」という加持の台詞と共に、加持の傍らに佇むシンジを見るシーンが意味深。
「なんであんたがそこにいんのよ!何にもしない。あたしを助けてくれない!抱きしめてもくれないくせに!」
自分がいたい場所(=加持の側)を取られたというイメージは、シンジがシンクロテストでアスカに勝ち、アスカの欲していたものを奪っていったというイメージを重ねあわせたものだろうか。
また、シンジに対し「何にもしない。あたしを助けてくれない!抱きしめてもくれないくせに!」という台詞と共に、「ジェリコの壁よ!」や「キスしようか」のシーンを別の視点から回想しているのが熱い。

これは実質、ミサトが23話でシンジやペンペンといちゃつこうとして拒絶され、しょげていたのと同じことではないか。アスカ寂しがりやさん可愛い。
ミサトの場合、寂しさを紛らわすためなら誰でも良かった感が強いが、アスカも誰でも良かったのだろうか。この点については24話のカヲルの登場回で再度軽く触れたい。
 
・元の鞘に収まったシンジを見て嫉妬混じりに怒るアスカ可愛い*6


 
・空気が悪くなるシーンは大好物。

ミサト「もう限界かしらね、三人で暮らすのも」
リツコ「臨界点突破?楽しかった家族ごっこもここまで?」
ミサト「猫で寂しさ紛らわせてた人に言われたかないわね、そんな台詞。……ごめん、余裕無いのね私。」

この辺でミサトの株はストップ安。保護者失格というか、人間失格っぷりが板についてくる。
 
・次回予告。使徒に取り憑かれ、侵されていくエヴァ零号機とそのパイロット。だが彼女は心を、身体を侵食されながらも、自我を失うことはなかった。しかし、使徒からシンジを守るため、レイは自らの死を希望する。第3新東京市と共に、光と熱となり、彼女は消えた。記憶だけを人々の魂に残して。次回、「涙」。」
次回綾波爆死回。
 
今までなんとなく感じていたエヴァキャラの根暗な共通点が、これまでになく把握できるようになってきた気がする。
ただこのままだと個人的に大きな問題が…。僕がメンヘラアスカが好きであるということは、実質同一の性質を持つ他のキャラクターに対しても好きな部分があるということになる。しかし同質となるキャラクターのコアの部分には、必ず庵野監督が待ち受けている…。この関係性を念頭に置くと、アスカを好くということが、庵野監督のネカマ人格的なものを好きになることと同質な気がしてくるのである。そして、この後控えているカヲルのシンジに対するガチホモ的アプローチも笑って済ますことができなくなるのではないかとか…。
深く考え過ぎると超えてはいけない一線を超えそうになるので、この辺で次回にホイホイつづく。
・次回感想→『エヴァ』テレビ版感想:23話 ミサトはなぜ手を握ろうとしたのか
・全話感想もくじ→『エヴァ』テレビ版〜旧劇場版/『新劇場版:Q』全感想目次

*1:※風呂場~アスカの絶叫を聞くミサトまではビデオフォーマット版で追加されたシーン(2021年1月16日追記)

*2:※この一連のアスカの内面描写もビデオフォーマット版で追加されたもの(2021年1月16日追記)

*3:このときアスカは人形にすらなりそびれている。

*4:ただアスカの場合、「同族嫌悪」的意味合いはミサトに比べ、より無意識なものであったと考えられる。

*5:※以下の一連もビデオフォーマット版の追加シーン(2021年1月16日追記)

*6:※ここもビデオフォーマット版の追加シーン(2021年1月16日追記)

『エヴァ』テレビ版感想:21話 迸るおっさん達のリビドー

冬月による回想回。おっさんのおっさんによるおっさんのための宴が幕を開ける。
 
第21話、「ネルフ、誕生」
 
・前回の次回予告で「碇と冬月の歴史」とあったことから、今回は冬月とゲンドウの過去の話が描かれるのだろうという先入観がある。冬月が大学教授をしていた頃を回想する際、「碇という学生のレポートが刺激的だった」という前フリがある。こちらとしては汚いオッサンが出てくるものとばかり思っている所に、まさかのユイさん登場。オッサンからの落差で、べっぴんさんぶりが二割増しに見える。流石ユイさん計算高い

 
・次に回想されるのが、冬月とゲンドウが警察署前で初対面を迎えるシーン。今度こそ汚いオッサンが出てきて一安心。

冬月のユイさんとゲンドウに会ったときのテンション差が面白い。「彼の第一印象は“嫌な男”だった」

直後、ユイとゲンドウが付き合ってると知り、人生に達観する冬月先生\(^o^)/
 
セカンドインパクト後、南極での調査に何者かから推薦される冬月。ぶらり行ってみれば、待ってましたと汚いオッサン。
冬月先生「ユイ君はどうしてる?このツアーには参加しないのかね。」
ゲンドウ「ユイも来たがっていましたが、今は子供がいるのでねww」
冬月先生「(#^ω^)ビキビキ」
 
・回想に出てくる女子高生時代のリツコさんが可愛すぎて辛い。こんな可憐な美少女をあそこまでヤサグレさせてしまうとは、ネルフという職場の糞っぷりが伺える。

 
・もの凄いイケメン顔でユイさんを視姦する冬月先生。そろそろ「人妻属性も悪くないかもしれない」と悟りの境地に入ってきてる。


 
そういえば新劇場版『破』でもミサトさんのお尻をチラ見する加持さんが印象的だった。

 
・ゼーレに拉致されていた冬月が解放されるまでの間、とばっちりで拘束されていたミサト。事件が解決されると、独房(?)から解放される。ミサトが解放されるシーンの直後に加持が射殺されるシーンがあるため、加持を殺したのはミサトだとする説が根強かったらしい。しかし冷静に考えるとミサトには加持を殺す動機が無い。個人的には普通にゼーレの名もない諜報員による殺害だと思う。

 
・次回予告。「シンジに負けた現実が、精神の落とし穴にアスカを追い込む。焦りという名の空回りは、ただ疲労と苛立ちしか産まなかった。さらに、使徒の放つ精神攻撃が、彼女の心にとどめを刺す。立ち直る術を失うアスカ。過酷な現実が、人々の心をバラバラにしていく。シンジは彼女に、慰めの言葉を持ちえなかった。次回、「せめて、人間らしく」。」
待ってましたアスカ回。シンジが16話「死に至る病、そして」で使徒に取り込まれたときは、戻ってきたときにまだ優しく受け入れてくれる周囲の人達がいた。しかし20話「心のかたち 人のかたち」で帰ってきてからはどうだったのか。少なくともミサトは喜んでくれただろうが、葛城邸宅ではアスカのおかげでギスギス感満点だったはず。その上今回加持が死に、ミサトさんも精神的に参ってしまう。今回アスカは出て来なかったが、その辺の底なし沼感は次回でより鮮明になるか。
 
実はこの時点で既にシンジにとって最後の砦的存在は綾波なんだなぁ。しかしそれも23話「涙」で死んでしまうし…。
つづく!
・次回感想→『エヴァ』テレビ版感想:22話 人形になりたかったアスカ
・全話感想もくじ→『エヴァ』テレビ版〜旧劇場版/『新劇場版:Q』全感想目次

『エヴァ』テレビ版感想:20話 鬱陶しい母性

明日は時間が無いので、感想書く時間が実質今日と明後日しか無いんだにゃあ♪(精神不安定)
 
第20話、「心のかたち 人のかたち」
 
リツコ「拘束具が今自らの力で解かれていく。私達にはもう、エヴァを止めることはできないわ。」

リツコが説明口調の台詞を始めると即座に太鼓を叩いているように見えてしまう病気。あのコラは本当に罪深い。


・シンジが初号機に取り込まれ、ミサトがリツコにフラストレーションぶつける。このときのギスギス感がたまらない。おもいきりリツコを引っ叩きつつ、「なんとかなさいよ!あんたがつくったんでしょ!?最後まで責任取りなさいよ!!」。かなり冷静さを欠いた言動。周囲のオペレーターの「うわぁ…」という雰囲気も良い。このいたたまれなさは23話「涙」でリツコ泣き崩れながら綾波のダミーを壊しまくる場面でのシンジの浮きっぷりに通ずるものがある。


……見ようによってはマヤは「よくも私の先輩の顔を引っ叩きやがって…」と怒りに燃えているようにも…w
 
・初号機に取り込まれたシンジの心象風景。
「心も体もひとつになりたい?」
初号機に乗っていれば皆が褒めてくれる。その事実に喜びを見出そうとすると、いつものように「初号機に乗らねば必要とされない」ことで悩みだす。
しかし今回は場合、初号機(=ユイ)がシンジと融合したままイチャイチャしていたいがために、わざと「初号機に乗らなければ必要とされない」という思考に誘導して、「私とひとつになりたい?それはとてもとても気持ちの良いことなのよ」と迫っている感がある。

追記(11月15日):「私とひとつになりたい?」という呼びかけがユイによるものだというのは庵野監督自身言っていたことだと後から思い出した。『パラノ・エヴァンゲリオン』pp.148-149において、貞本さんと摩砂雪さんからそうした証言が出ている。ちなみに元々貞本さんはここでの表現を誤解していたようで、リツコが組んだプログラムがシンジにああした幻覚を見せているのだと解釈していたようだ。庵野監督から元の意図を聞いてショックを受けたらしい。

最終的にシンジが幼少期の母親との記憶を思い出したところで解放してくれる。*1

 
次回予告。「ゼーレにより拉致される冬月副司令。その脳裏を横切る過去の記憶。邂逅。別離。再開。死別。1999年の京都から全てが始まった。他人と歩む現在の積み重ねが、碇と冬月の歴史を作っていく。彼らが全てを費やす組織と共に。ネルフは果たして人類の砦足りうるのか?次回、「ネルフ、誕生」。」
次回回想回。
 
雪だるま式に空気が重苦しくなってきていて楽しい。しかしトウジの一件以来ある程度積み重ねられてきていたシンジの話は、今回で一旦おしまい。シンジに焦点が向くのはカヲルが登場する24話「最後のシ者」から。
次回につづく。
・次回感想→『エヴァ』テレビ版感想:21話 迸るおっさん達のリビドー
・全話感想もくじ→『エヴァ』テレビ版〜旧劇場版/『新劇場版:Q』全感想目次

*1:そのきっかけとなったのが、初号機の傍らでシンジのことを想っていたミサトらしいことが、後にリツコによって示唆される。…しかし基本的に保護者としての仕事を放棄しているミサトに母性がどうとかと言われるともの凄い違和感がある。

『エヴァ』テレビ版感想:19話 『エヴァ』を貫くテーゼ

今回は

・ 鶴巻監督が暴露するテレビ版シンジの隠された構造
・ テレビ版と新劇場版におけるシンジの違い

の話に絞った感想。
 
第19話、「男の戦い」
 
■みんな摩砂雪に騙されていた?
19話「男の戦い」におけるシンジの思考は独得だが、そこで大きな参考となるのが、『破』のパンフレットや『全記録全集』に収録されている鶴巻監督のインタビューだ。以下にその内容を要約する。

・「エヴァTVシリーズはストーリー構造が非常に強固である」というのは先入観による部分がある。第拾九話は誰もが大好きなエピソードで、しかもよくできていると言われる。しかし分析すると、実はあそこですごいマジックが起こっていることが分かる。言い方は悪いが、要するにみんな騙されている。
 
・元々鶴巻は、シンジの「もうEVAに乗らない」という発言は、半分父親に対する嫌がらせであり、子どもが「だったら勉強しない!」というのと同じものとして解釈していた。シンジは「乗らないぞ」と言ってるが、乗らなきゃいけないことも分かっている、という程度には大人であるキャラだと思っていた。
「乗らない」と言いつつ身体は戦闘の中心、ジオフロントに向かっていく。ジオフロントまで来ても、まだ「乗らない」と言っていて、そこに弐号機の頭が落ちてきたり零号機がやられたりして、外に出たら加持がいて有名な会話をする。ようやくあきらめて、「やっぱり乗らなきゃダメか……。分かってはいたけど、やっぱりそうなんだ」と決意して乗る。

こうした鶴巻の解釈に対して…。
庵野「何言ってんのマッキー、全然違うよ」
鶴巻「ガーン!」

 
庵野の発言をよくよく考えていくと、庵野のシンジはそうじゃなくて、乗りたくないと思ったら絶対に乗らないキャラなのだと分かった。世間一般の印象である気が弱く、優柔不断なシンジとは真逆な「かたくなで、他人を気にしない」シンジである。
・鶴巻は「EVAに乗らないと人類が滅びるとか、ミサトがすごく困っているとか、綾波レイが特効しなきゃいけなくなることが分かっていても、それでも乗らないのか?」と重ねて訪ねてみたところ、「あそこのシンジはものすごく怒っているから、心が閉じていてそうしたことに気がつかないんだ」と返された。
・そう言われたときに、庵野にときどき見られる理不尽な行動に合点が行った。庵野は「嫌だ」と言い始めたらテコでも動かない人である。そういうときの庵野は、鶴巻からは異常と感じられるほどのかたくなである。
 
だが第拾九話のときのシンジは、果たして庵野の言うとおりに描かれているのか。演出を担当した摩砂雪に確認してみると、はっきりとは答えてくれなかった。あれは摩砂雪庵野の目を盗んでシンジのキャラをかなり書き変えているのではないか。
庵野の脚本ではシンジがジオフロントにいる理由は、避難民の声やアナウンスに誘導されているためとされる。それは、「シンジって本心は乗らなきゃいけないと思っているから足が勝手に向かったんだ」というのとは違う。これを摩砂雪が巧妙に処理して、庵野の意図とは別の意味にも取れる曖昧な表現となっている。
 
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 全記録全集』pp.328-330より要約

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 全記録全集

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 全記録全集

これらはテレビ版のシンジの性格を把握するのに極めて重要な証言だと思う。長くなったのでさらに無理矢理まとめる。
 

庵野シンジは「嫌」と言ったらテコでも動かないキャラである。庵野シンジは、加持に諭される瞬間まで本気で一切エヴァに乗るつもりは無かった。
・19話が人気を博したのは必ずしも庵野シンジが支持を得たからではなく、摩砂雪演出のオブラートが存在したため。19話には「庵野シンジ」ではない、「観客各自が望むシンジ」像を垣間見る余地が残されていた。

 
これはマッキーが内部の人間だからこそ気づけたことだろう。あるいはマッキーが元々摩砂雪ファンだったおかげで、摩砂雪のそうしたトリックに気がついたのかもしれない。
ただ、マッキー自身は優柔不断なシンジ像を当てはめて観ていたようだが、庵野監督が意図したシンジ像も、一部に熱烈な支持を受けていたのは揺るがないように思う。アニメ夜話での滝本竜彦の発言が思い出される。

滝本 シンジくんの状況に立たされた場合、100人中100人が「よし、人類のためにかっこいいロボットに乗って、すぐ隣には美少女がたくさんいて、かっこよく戦うぞ」と思うと思うんですが、シンジくんは全く戦わず、逃げようとするんですけど、この場合、逃げたりする方がはるかに辛い。辛いと言うか大変だと思うんですよ。それなのに、逃げるというのは偉いなぁ。つまり、「地球の運命とか、正義のためにとか言うより、中学生の僕の心の、個人的な悩みの方が重要なんだ。だから俺は逃げるんだ」という風にして逃げて、結局、劇場版の最後まで、彼は全く戦わず、逃げ続けるわけですが、それがとてもかっこいいなぁと思って、尊敬しました。

http://johakyu.net/lib/2009/01/2009-01-08-000877.php

 
■4話「雨、逃げ出した後」の家出とは違う
マッキーが言うようにシンジの行動を「すねているから」と捉えた場合、19話でシンジが「エヴァに乗らない」と言い出す姿は、4話「雨、逃げ出した後」の姿とダブって見えるかもしれない。しかし4話と19話では、問題とされている部分が根本的に違う。
4話のシンジはどちらかといえば「乗りたくないけど、乗らないほうがもっと嫌」という考えを持っている。だが、あの回の感想でも書いたが、あの時シンジにとって最も重要だったのは実はエヴァに乗るかどうか」ではなく、「ミサトと上手くコミュニケーションが取れたかどうか」であった。過去の反省からミサトともっとコミュニケーションを取ろうと決意し、シンジは駅のホームに残るのだ。
対して19話のシンジは、エヴァを降りる決意を固めた上で、ミサトにしっかりと意思を表示している。ミサトがシンジを無理に引きとめようとしなかったのは、シンジの決意を尊重したためだろう。
 
■シンジの消去法的選択
社会というのは役割分担で成り立っている。自分が望むか否かに関わらず、様々な理由により、人は何らかの役割を担う。それにより人は、やれることや、やるべきことが制限されることもある。*1シンジにとっては、「パイロットとしての資質」が制限の大きな理由となる。「パイロットとしての資質」があるばかりに、社会から「戦うこと」を期待されてしまう。
シンジは本当は「男の戦い」など「嫌」で、やりたくない。しかしそれでも、「皆が死ぬのはもっと嫌」だから、エヴァに乗ることを決意する。シンジは積極的に「男の戦い」に身を投じたのではなく、「消去法的選択」に則って決意(=納得)しているのだ。*2これは明らかに、「戦いは男の仕事!」という、12話での態度とは異なる。
 
「納得をした上で行動を取る」ということは、シンジにとって非常に重要なことだ。シンジは納得できていない内にダミーシステムを使われたことに激怒する。24話「最後のシ者」においてカヲルを絞め殺してしまった際も、納得の行かぬ行動だったと、後から猛烈に後悔している。
 
元々シンジは自分が誰にも必要とされていないと感じており、パイロットを辞めれば、自分は無価値であると考えている。*3しかしパイロットをやりたいわけでもない。これにより、

パイロットを辞める→周囲の期待からの逃げ
パイロットを続ける→辛い現実からの逃げ

という袋小路的な思考にはまってしまうことがある。そこでシンジは、より「嫌でない」方を選択する。

パイロットはやりたくないが、やらなければ世界が滅亡してしまう。

世界が滅亡するのはパイロットをやることよりも「嫌」なことである

仕方ないので世界の危機が去るまではパイロットをやろう。

といった思考の流れである。前述した「男の戦い」における決断もこの延長線上にある。

 
■シンジの「EOE化」と「シンジさん化」
「より嫌でない方」を選択できている内は良いのだ。しかし問題なのが、「選ぶことができないほど嫌」な選択肢に直面したときである。18話や23話で「命の選択」を迫られるのがその典型だ。

ここでシンジが取るべき行動には二種類ある。ひとつが「EOE化」(=『旧劇場版』の何も選ばないシンジ)で、もう一つが「シンジさん化」(=『破』の「世界を滅ぼしてでも綾波を救う」シンジ)だ。どちらがより正しいということではない。これは生き方の問題だ。
「嫌だから選ばない」=「EOE化」という態度は消極的で格好悪く見えることもあるが、信念を持って貫かれたのであれば、尊重されるべき選択だ。『EOE』でのシンジのヘタレっぷりはよく批判の対象とされてきたが、一方で熱烈な支持を受けてきたのは、先に引用した滝本氏の発言からも明らかだ。
「嫌でも選ぶ」=「シンジさん化」という行為は、自己犠牲的で格好良く、場合によってはヒーローになれる。19話「男の戦い」でのシンジなどはまさにヒーロー的であると言って良いだろう。しかしこうした行為には、行為者が倫理を逸脱し「ヒーローでない何者か」となって業を背負わされるリスクも伴う。
ノーランの『ダークナイト』などはこうした問題に正面から取り組んだ映画と言えるだろう。

参考:選ばないという正義 - 未来私考
 
 これは損得の問題ではないんですよね。相手の命を踏みにじって、勝手に相手の価値を推し量って、自分が選んだ選択についての責任から逃れようとする態度それこそが悪に屈するということなんだという強烈なメッセージなんです。家族を人質に取られ罪なき人を殺す人間を誰が責められると言うのか。誰も責められはしない。だけどもそれは選んではいけない選択肢なんです。念を押すけれども、どっちが正しいという問題じゃない。自ら背負いきれない責任を突きつけられた時は、その選択そのものを放棄することこそが勇気であり正義なんだ、ということなんです。
 もちろんその責任を背負い、選択をしなければならない立場の人間というのもいる。選ばないで両方救うと決意したとしても結果としてどちらかしか…あるいはどちらも助けられないということもある。人間である以上、感情に流され選んではいけない選択肢を選んでしまうこともある。だけど選んでしまった以上はけして正義は名乗ってはならない。バットマンが、正義のヒーローではなく、闇に住むダークナイトとなったのは、自らが正義ではないことをこれ以上なく自覚したからなんです。
 選んでしまった時点で正義は失われる。そのギリギリ最後の一瞬まで第3の道を模索し続けるのが、選択する権利を与えられてしまった人に課せられた義務なんです。我々の住む世界は、時にそんな危ういバランスの上に成り立っているということを、この映画は再確認させてくれる。

 
■『エヴァ』を貫くテーゼ 嫌だから選ばない自覚/嫌でも選ぶ自覚
こうした「嫌だから選ばない/嫌でも選ぶ」といった行為を自覚的に行うことが、『エヴァ』においてとても重要なこととして位置づけられているように感じる。
新劇場版『破』がこうしたテーマに対し、「食」というモチーフが巧みに組み込まれた作品だったというのは過去にも書いたと思う。二年前のエントリーで文体がもっちゃりしており、読み返すと恥ずかしさで死にそうになるが一応引用しておく。

ゲンドウ「自分の願望はあらゆる犠牲を払い、自分の力で実現させるものだ。他人から与えられるものではない。シンジ、大人になれ」
シンジ「僕には、何が大人か分かりません」
ゲンドウがここで言う「大人」とは、自分の目的のために「誰かor何か」を犠牲に、踏み台にしてでも、次の段階に進むための決断が下せる人間のことである思うのですが、どう考えてもスケールやシチュエーションが14歳の少年には重すぎる・・・。シンジ君、TV版ではこのような「究極の決断」を「カヲルを殺すか否か」という形で再度迫られていました。そちらの方では自分の中で答えが明確に見つけ出せていない中途半端な状態でカヲルを殺してしまったことで、シンジは益々鬱々としていってましたね。
で、何が言いたいかというと、『破』ではゲンドウの「大人的」な行動、決断の象徴として、アスカの乗ったエヴァが食われているシーンがあるのではないかと思うわけです。つまり「大人になること」、「何かを犠牲にしてでも目的を達成すること」、「“食べる”こと」が関連付けられて描かれているのではないか、ということなんです。

正義の味方の放棄、あるいはダークナイトになること(碇シンジの場合) - さめたパスタとぬるいコーラ

 
個人的な想像だが、庵野監督が「選ぶ/選ばない」ということにもっとも自覚的となる瞬間が、食事の際なのではないかと思う。庵野監督は肉を食さないが、サッポロポテトは食う。これは「動物は殺さないが、植物は殺す」という選択ともとれる。こうした独得の倫理観を隠さない作風は、宮崎駿の弟子という感じがして良い。
「食」というモチーフは庵野監督の生理的な感覚に端を発しているが、監督はどのような経緯を経て、『破』でそこにスポットを当てようと考えたのだろうか。庵野監督は一応『全記録全集』のインタビューで、「食」について簡単なコメントを残している。

庵野 これについては作劇の都合というよりは、先のとおり、僕自身の変化だろうなと思います。僕が「食べる」ということにようやく興味を持とうとした、その現れのようなものだと思います。僕にとって食べるっていうのはどういうことなんだろうと。自分自身に好き嫌いが多く、子供のころから「食べる」ことにそんなに執着がなかったので、その辺を改めて考えてみたかったんですね。なので、今回は物語の流れとして描写をつなげていく中で、食べるという行為を意図して軸にしています。
(中略)
ご飯食べるとか、鎌倉に嫁さんいるとか、社会的に結婚してるとか、あとは新しい自分の制作スタジオでやってるとか。そういった部分の反映です。十二年前になかった自分の一部を意図して注ぎ込まない限り、やっぱり変わらない気がしていましたから。
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 全記録全集』pp.360-361

 
「食」というモチーフは『ナディア』と『エヴァ』でそれぞれ登場するが、今後の作品ではどう扱われていくのだろうか。
 
 
■その他気づいた点
・今回は図らずも前回までに比べてかしこまった内容となってしまった。
本当は終盤で返り血を浴びたゲンドウが次のカットでは綺麗サッパリしている点について考察する予定だったのに。


いつの間にシャワー浴びたんでしょうね。
 
・シンジがスイカ畑で加持に諭されるシーンでいつもの「手」のモチーフが。

・「なぜここにいる?」「僕は、僕は、エヴァンゲリオン初号機パイロット、碇シンジです!」の直前のカットでも「手」が。まさに決意が固まった瞬間。やりたい事とやるべき事が一致している感がやばい。燃える。


・そういえば17話でも、トウジがエヴァパイロットを引き受けるかどうかを悩むシーンで「手」のモチーフが印象的だった。直前にトウジがシンジを殴ったシーン*4の回想があり、場面により含みがもたらされていた。


 
・次回予告。エヴァーの覚醒により、人々は救われた。だが、そのパイロットはエヴァーに取り込まれ、物理的融合してしまう。他の存在と同一化したシンジは、そこに何を見るのか、何を知るのか、何を失うのか。一方、取り残された周囲の大人たちは、彼の救出を画策する。だが、失敗するサルベージ。号泣するミサトが見たものは…。次回、「人のかたち 心のかたち」。


次回予告のサブタイトルがビデオフォーマット版だけ間違って読み上げられている。
予告内で使われる本編映像はラブホのワンカットのみ。異様なテンションにこちらまで熱くなってくるが、同時に当時の大月Pのことを思うととても気の毒になってくる。
 
あと7話も残ってるとか、本当に『Q』公開までに見終えることができるのだろうか。
そんなわけで次回に続く。
・次回感想→『エヴァ』テレビ版感想:20話 鬱陶しい母性
・全話感想もくじ→『エヴァ』テレビ版〜旧劇場版/『新劇場版:Q』全感想目次

*1:シリーズを通して頻出する「性差」というモチーフがあるが、これもそうした理由のひとつとなる。

*2:マッキーの証言を加味すると、渋々決意しているのとも違う。それは消去法であれ、決意(=納得)されたからには「嫌なこと」というよりは、「どちらかというやりたいこと」となる。

*3:5話の体育の授業中に「碇くーん!」と女子達に呼ばれていることや、ナチュラルに綾波やアスカとフラグを立てまくっていることからも、これはシンジの思い込みに過ぎないように思える。

*4:グーパンなのでそこでも「手」が連想される。