『エヴァ』テレビ版感想:19話 『エヴァ』を貫くテーゼ

今回は

・ 鶴巻監督が暴露するテレビ版シンジの隠された構造
・ テレビ版と新劇場版におけるシンジの違い

の話に絞った感想。
 
第19話、「男の戦い」
 
■みんな摩砂雪に騙されていた?
19話「男の戦い」におけるシンジの思考は独得だが、そこで大きな参考となるのが、『破』のパンフレットや『全記録全集』に収録されている鶴巻監督のインタビューだ。以下にその内容を要約する。

・「エヴァTVシリーズはストーリー構造が非常に強固である」というのは先入観による部分がある。第拾九話は誰もが大好きなエピソードで、しかもよくできていると言われる。しかし分析すると、実はあそこですごいマジックが起こっていることが分かる。言い方は悪いが、要するにみんな騙されている。
 
・元々鶴巻は、シンジの「もうEVAに乗らない」という発言は、半分父親に対する嫌がらせであり、子どもが「だったら勉強しない!」というのと同じものとして解釈していた。シンジは「乗らないぞ」と言ってるが、乗らなきゃいけないことも分かっている、という程度には大人であるキャラだと思っていた。
「乗らない」と言いつつ身体は戦闘の中心、ジオフロントに向かっていく。ジオフロントまで来ても、まだ「乗らない」と言っていて、そこに弐号機の頭が落ちてきたり零号機がやられたりして、外に出たら加持がいて有名な会話をする。ようやくあきらめて、「やっぱり乗らなきゃダメか……。分かってはいたけど、やっぱりそうなんだ」と決意して乗る。

こうした鶴巻の解釈に対して…。
庵野「何言ってんのマッキー、全然違うよ」
鶴巻「ガーン!」

 
庵野の発言をよくよく考えていくと、庵野のシンジはそうじゃなくて、乗りたくないと思ったら絶対に乗らないキャラなのだと分かった。世間一般の印象である気が弱く、優柔不断なシンジとは真逆な「かたくなで、他人を気にしない」シンジである。
・鶴巻は「EVAに乗らないと人類が滅びるとか、ミサトがすごく困っているとか、綾波レイが特効しなきゃいけなくなることが分かっていても、それでも乗らないのか?」と重ねて訪ねてみたところ、「あそこのシンジはものすごく怒っているから、心が閉じていてそうしたことに気がつかないんだ」と返された。
・そう言われたときに、庵野にときどき見られる理不尽な行動に合点が行った。庵野は「嫌だ」と言い始めたらテコでも動かない人である。そういうときの庵野は、鶴巻からは異常と感じられるほどのかたくなである。
 
だが第拾九話のときのシンジは、果たして庵野の言うとおりに描かれているのか。演出を担当した摩砂雪に確認してみると、はっきりとは答えてくれなかった。あれは摩砂雪庵野の目を盗んでシンジのキャラをかなり書き変えているのではないか。
庵野の脚本ではシンジがジオフロントにいる理由は、避難民の声やアナウンスに誘導されているためとされる。それは、「シンジって本心は乗らなきゃいけないと思っているから足が勝手に向かったんだ」というのとは違う。これを摩砂雪が巧妙に処理して、庵野の意図とは別の意味にも取れる曖昧な表現となっている。
 
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 全記録全集』pp.328-330より要約

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 全記録全集

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 全記録全集

これらはテレビ版のシンジの性格を把握するのに極めて重要な証言だと思う。長くなったのでさらに無理矢理まとめる。
 

庵野シンジは「嫌」と言ったらテコでも動かないキャラである。庵野シンジは、加持に諭される瞬間まで本気で一切エヴァに乗るつもりは無かった。
・19話が人気を博したのは必ずしも庵野シンジが支持を得たからではなく、摩砂雪演出のオブラートが存在したため。19話には「庵野シンジ」ではない、「観客各自が望むシンジ」像を垣間見る余地が残されていた。

 
これはマッキーが内部の人間だからこそ気づけたことだろう。あるいはマッキーが元々摩砂雪ファンだったおかげで、摩砂雪のそうしたトリックに気がついたのかもしれない。
ただ、マッキー自身は優柔不断なシンジ像を当てはめて観ていたようだが、庵野監督が意図したシンジ像も、一部に熱烈な支持を受けていたのは揺るがないように思う。アニメ夜話での滝本竜彦の発言が思い出される。

滝本 シンジくんの状況に立たされた場合、100人中100人が「よし、人類のためにかっこいいロボットに乗って、すぐ隣には美少女がたくさんいて、かっこよく戦うぞ」と思うと思うんですが、シンジくんは全く戦わず、逃げようとするんですけど、この場合、逃げたりする方がはるかに辛い。辛いと言うか大変だと思うんですよ。それなのに、逃げるというのは偉いなぁ。つまり、「地球の運命とか、正義のためにとか言うより、中学生の僕の心の、個人的な悩みの方が重要なんだ。だから俺は逃げるんだ」という風にして逃げて、結局、劇場版の最後まで、彼は全く戦わず、逃げ続けるわけですが、それがとてもかっこいいなぁと思って、尊敬しました。

http://johakyu.net/lib/2009/01/2009-01-08-000877.php

 
■4話「雨、逃げ出した後」の家出とは違う
マッキーが言うようにシンジの行動を「すねているから」と捉えた場合、19話でシンジが「エヴァに乗らない」と言い出す姿は、4話「雨、逃げ出した後」の姿とダブって見えるかもしれない。しかし4話と19話では、問題とされている部分が根本的に違う。
4話のシンジはどちらかといえば「乗りたくないけど、乗らないほうがもっと嫌」という考えを持っている。だが、あの回の感想でも書いたが、あの時シンジにとって最も重要だったのは実はエヴァに乗るかどうか」ではなく、「ミサトと上手くコミュニケーションが取れたかどうか」であった。過去の反省からミサトともっとコミュニケーションを取ろうと決意し、シンジは駅のホームに残るのだ。
対して19話のシンジは、エヴァを降りる決意を固めた上で、ミサトにしっかりと意思を表示している。ミサトがシンジを無理に引きとめようとしなかったのは、シンジの決意を尊重したためだろう。
 
■シンジの消去法的選択
社会というのは役割分担で成り立っている。自分が望むか否かに関わらず、様々な理由により、人は何らかの役割を担う。それにより人は、やれることや、やるべきことが制限されることもある。*1シンジにとっては、「パイロットとしての資質」が制限の大きな理由となる。「パイロットとしての資質」があるばかりに、社会から「戦うこと」を期待されてしまう。
シンジは本当は「男の戦い」など「嫌」で、やりたくない。しかしそれでも、「皆が死ぬのはもっと嫌」だから、エヴァに乗ることを決意する。シンジは積極的に「男の戦い」に身を投じたのではなく、「消去法的選択」に則って決意(=納得)しているのだ。*2これは明らかに、「戦いは男の仕事!」という、12話での態度とは異なる。
 
「納得をした上で行動を取る」ということは、シンジにとって非常に重要なことだ。シンジは納得できていない内にダミーシステムを使われたことに激怒する。24話「最後のシ者」においてカヲルを絞め殺してしまった際も、納得の行かぬ行動だったと、後から猛烈に後悔している。
 
元々シンジは自分が誰にも必要とされていないと感じており、パイロットを辞めれば、自分は無価値であると考えている。*3しかしパイロットをやりたいわけでもない。これにより、

パイロットを辞める→周囲の期待からの逃げ
パイロットを続ける→辛い現実からの逃げ

という袋小路的な思考にはまってしまうことがある。そこでシンジは、より「嫌でない」方を選択する。

パイロットはやりたくないが、やらなければ世界が滅亡してしまう。

世界が滅亡するのはパイロットをやることよりも「嫌」なことである

仕方ないので世界の危機が去るまではパイロットをやろう。

といった思考の流れである。前述した「男の戦い」における決断もこの延長線上にある。

 
■シンジの「EOE化」と「シンジさん化」
「より嫌でない方」を選択できている内は良いのだ。しかし問題なのが、「選ぶことができないほど嫌」な選択肢に直面したときである。18話や23話で「命の選択」を迫られるのがその典型だ。

ここでシンジが取るべき行動には二種類ある。ひとつが「EOE化」(=『旧劇場版』の何も選ばないシンジ)で、もう一つが「シンジさん化」(=『破』の「世界を滅ぼしてでも綾波を救う」シンジ)だ。どちらがより正しいということではない。これは生き方の問題だ。
「嫌だから選ばない」=「EOE化」という態度は消極的で格好悪く見えることもあるが、信念を持って貫かれたのであれば、尊重されるべき選択だ。『EOE』でのシンジのヘタレっぷりはよく批判の対象とされてきたが、一方で熱烈な支持を受けてきたのは、先に引用した滝本氏の発言からも明らかだ。
「嫌でも選ぶ」=「シンジさん化」という行為は、自己犠牲的で格好良く、場合によってはヒーローになれる。19話「男の戦い」でのシンジなどはまさにヒーロー的であると言って良いだろう。しかしこうした行為には、行為者が倫理を逸脱し「ヒーローでない何者か」となって業を背負わされるリスクも伴う。
ノーランの『ダークナイト』などはこうした問題に正面から取り組んだ映画と言えるだろう。

参考:選ばないという正義 - 未来私考
 
 これは損得の問題ではないんですよね。相手の命を踏みにじって、勝手に相手の価値を推し量って、自分が選んだ選択についての責任から逃れようとする態度それこそが悪に屈するということなんだという強烈なメッセージなんです。家族を人質に取られ罪なき人を殺す人間を誰が責められると言うのか。誰も責められはしない。だけどもそれは選んではいけない選択肢なんです。念を押すけれども、どっちが正しいという問題じゃない。自ら背負いきれない責任を突きつけられた時は、その選択そのものを放棄することこそが勇気であり正義なんだ、ということなんです。
 もちろんその責任を背負い、選択をしなければならない立場の人間というのもいる。選ばないで両方救うと決意したとしても結果としてどちらかしか…あるいはどちらも助けられないということもある。人間である以上、感情に流され選んではいけない選択肢を選んでしまうこともある。だけど選んでしまった以上はけして正義は名乗ってはならない。バットマンが、正義のヒーローではなく、闇に住むダークナイトとなったのは、自らが正義ではないことをこれ以上なく自覚したからなんです。
 選んでしまった時点で正義は失われる。そのギリギリ最後の一瞬まで第3の道を模索し続けるのが、選択する権利を与えられてしまった人に課せられた義務なんです。我々の住む世界は、時にそんな危ういバランスの上に成り立っているということを、この映画は再確認させてくれる。

 
■『エヴァ』を貫くテーゼ 嫌だから選ばない自覚/嫌でも選ぶ自覚
こうした「嫌だから選ばない/嫌でも選ぶ」といった行為を自覚的に行うことが、『エヴァ』においてとても重要なこととして位置づけられているように感じる。
新劇場版『破』がこうしたテーマに対し、「食」というモチーフが巧みに組み込まれた作品だったというのは過去にも書いたと思う。二年前のエントリーで文体がもっちゃりしており、読み返すと恥ずかしさで死にそうになるが一応引用しておく。

ゲンドウ「自分の願望はあらゆる犠牲を払い、自分の力で実現させるものだ。他人から与えられるものではない。シンジ、大人になれ」
シンジ「僕には、何が大人か分かりません」
ゲンドウがここで言う「大人」とは、自分の目的のために「誰かor何か」を犠牲に、踏み台にしてでも、次の段階に進むための決断が下せる人間のことである思うのですが、どう考えてもスケールやシチュエーションが14歳の少年には重すぎる・・・。シンジ君、TV版ではこのような「究極の決断」を「カヲルを殺すか否か」という形で再度迫られていました。そちらの方では自分の中で答えが明確に見つけ出せていない中途半端な状態でカヲルを殺してしまったことで、シンジは益々鬱々としていってましたね。
で、何が言いたいかというと、『破』ではゲンドウの「大人的」な行動、決断の象徴として、アスカの乗ったエヴァが食われているシーンがあるのではないかと思うわけです。つまり「大人になること」、「何かを犠牲にしてでも目的を達成すること」、「“食べる”こと」が関連付けられて描かれているのではないか、ということなんです。

正義の味方の放棄、あるいはダークナイトになること(碇シンジの場合) - さめたパスタとぬるいコーラ

 
個人的な想像だが、庵野監督が「選ぶ/選ばない」ということにもっとも自覚的となる瞬間が、食事の際なのではないかと思う。庵野監督は肉を食さないが、サッポロポテトは食う。これは「動物は殺さないが、植物は殺す」という選択ともとれる。こうした独得の倫理観を隠さない作風は、宮崎駿の弟子という感じがして良い。
「食」というモチーフは庵野監督の生理的な感覚に端を発しているが、監督はどのような経緯を経て、『破』でそこにスポットを当てようと考えたのだろうか。庵野監督は一応『全記録全集』のインタビューで、「食」について簡単なコメントを残している。

庵野 これについては作劇の都合というよりは、先のとおり、僕自身の変化だろうなと思います。僕が「食べる」ということにようやく興味を持とうとした、その現れのようなものだと思います。僕にとって食べるっていうのはどういうことなんだろうと。自分自身に好き嫌いが多く、子供のころから「食べる」ことにそんなに執着がなかったので、その辺を改めて考えてみたかったんですね。なので、今回は物語の流れとして描写をつなげていく中で、食べるという行為を意図して軸にしています。
(中略)
ご飯食べるとか、鎌倉に嫁さんいるとか、社会的に結婚してるとか、あとは新しい自分の制作スタジオでやってるとか。そういった部分の反映です。十二年前になかった自分の一部を意図して注ぎ込まない限り、やっぱり変わらない気がしていましたから。
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 全記録全集』pp.360-361

 
「食」というモチーフは『ナディア』と『エヴァ』でそれぞれ登場するが、今後の作品ではどう扱われていくのだろうか。
 
 
■その他気づいた点
・今回は図らずも前回までに比べてかしこまった内容となってしまった。
本当は終盤で返り血を浴びたゲンドウが次のカットでは綺麗サッパリしている点について考察する予定だったのに。


いつの間にシャワー浴びたんでしょうね。
 
・シンジがスイカ畑で加持に諭されるシーンでいつもの「手」のモチーフが。

・「なぜここにいる?」「僕は、僕は、エヴァンゲリオン初号機パイロット、碇シンジです!」の直前のカットでも「手」が。まさに決意が固まった瞬間。やりたい事とやるべき事が一致している感がやばい。燃える。


・そういえば17話でも、トウジがエヴァパイロットを引き受けるかどうかを悩むシーンで「手」のモチーフが印象的だった。直前にトウジがシンジを殴ったシーン*4の回想があり、場面により含みがもたらされていた。


 
・次回予告。エヴァーの覚醒により、人々は救われた。だが、そのパイロットはエヴァーに取り込まれ、物理的融合してしまう。他の存在と同一化したシンジは、そこに何を見るのか、何を知るのか、何を失うのか。一方、取り残された周囲の大人たちは、彼の救出を画策する。だが、失敗するサルベージ。号泣するミサトが見たものは…。次回、「人のかたち 心のかたち」。


次回予告のサブタイトルがビデオフォーマット版だけ間違って読み上げられている。
予告内で使われる本編映像はラブホのワンカットのみ。異様なテンションにこちらまで熱くなってくるが、同時に当時の大月Pのことを思うととても気の毒になってくる。
 
あと7話も残ってるとか、本当に『Q』公開までに見終えることができるのだろうか。
そんなわけで次回に続く。
・次回感想→『エヴァ』テレビ版感想:20話 鬱陶しい母性
・全話感想もくじ→『エヴァ』テレビ版〜旧劇場版/『新劇場版:Q』全感想目次

*1:シリーズを通して頻出する「性差」というモチーフがあるが、これもそうした理由のひとつとなる。

*2:マッキーの証言を加味すると、渋々決意しているのとも違う。それは消去法であれ、決意(=納得)されたからには「嫌なこと」というよりは、「どちらかというやりたいこと」となる。

*3:5話の体育の授業中に「碇くーん!」と女子達に呼ばれていることや、ナチュラルに綾波やアスカとフラグを立てまくっていることからも、これはシンジの思い込みに過ぎないように思える。

*4:グーパンなのでそこでも「手」が連想される。