『エヴァ』テレビ版感想:23話 ミサトはなぜ手を握ろうとしたのか

綾波が爆死。傷心のシンジに、ミサトが手を伸ばす…。
 
第23話、「涙」
 
■なぜ手を握ろうとしたのか
問題のシーン。


シンジミサトさん、出ないんだ。涙。悲しいと思ってるのに出ないんだよ。涙が。」
ミサト「シンジ君。今の私にできるのはこのくらいしかないわ。」
シンジ「やめてよ!やめてよミサトさん……。」
ミサト「ごめんなさい……。」

ミサト「(寂しいはずなのに。女が怖いのかしら。いえ、人との触れ合いが怖いのね。)」
ミサト「ペンペン。おいでー。」
ペンペン「(プィッ)」
ミサト「(そっか、誰でも良いんだ。寂しかったのは私のほうね。)」

 
僕は中学生の時にこのシーンを観て、ミサトは純粋にシンジを慰めてくれようと、手を握ってくれようとしたのだと思った。確かに場面からある種の生々しさは漂っている。シンジの寂しさとは別に、ミサトの寂しさがあるのは分かる。ミサト自身、シンジの部屋から出た直後に、寂しさを紛らわせたかったのが自分のほうだったことに気づいている。しかしミサトに寂しさがあったからといって、あそこで手を握る行為がシンジのためになり得なかったとは思わない。また、手を握ったからといって、それが直接シンジとの肉体関係に発展したかと言われると、それも違うと思うのだ。
この場面について庵野さんが語ってるのを見たことないのだが、何か知ってるひとがいたら教えてくれませんか(笑)。
僕が唯一知ってるのは、『スキゾ・エヴァンゲリオン』のスタッフインタビューでちらりと触れられていること…。

鶴巻 ミサトをやっぱりちゃんと描かなければならなかった。本当は初期設定というか、このポジションにいる女だっていうところを、ちゃんと決めて描いていくことが、作品としてやるべきことだった。ところが、肩入れし過ぎていく過程で、ミサトはシンジとはなんの関係もない女になっていくという。あれはやっぱりね。
貞本 生々しす過ぎるんだけど、その生々しさが……。
鶴巻 いいんですけどね。それはいいんですけど。
貞本 作品の中にはまってない。
鶴巻 そう。作品を高める役にはなってないっていう感じですか。ミサトのキャラクターだけが立って、あれで泣いた女もいるっていう話を聞きますけど。作品の中には、別にはまってないと……。
貞本 『エヴァンゲリオン』としてははまってないんだけど、庵野劇場としては、はまってるっていう。
竹熊 でも、ミサトさんが後半の方で、シンジ君にちょっかい出そうとするじゃないですか。それでシンジ君に拒絶されて。
佐藤 ああ、皆、そう見るとか言って、庵野さんはすぐ怒るんですけど。
竹熊 うん、でもあれ、知り合いの主婦が、えらい感動したよね。寂しかったのはシンジじゃなくて自分だってことだよね。あれはすげえリアルだって。
摩砂雪 あの時は、本当にそう思ってたのかもしれないね(笑)。
大泉実成・編 (1997) 『庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン太田出版 p.167

 
これも解釈が難しい。座談会形式なため、話が微妙に散漫なのだ。「ああ、皆、そう見るとか言って、庵野さんはすぐ怒るんですけど。」という部分で、庵野さんがどういった見方に対して怒っているのか、いまいち判然としない。
問題となるのは竹熊さんが発言するあたりから。話の流れからすると、竹熊さんは「作品にはまっていないミサト」という点について、「主婦も泣いたというし、やはりはまってたのではないか」と主張しているように思える。これに対し、佐藤(裕紀)さんの「ああ、皆、そう見るとか言って、庵野さんはすぐ怒るんですけど。」という発言は、「ミサトが作品にはまっていたかどうか」についてではなく、「(ミサトさんが)シンジ君にちょっかい出そうとする」という竹熊さんの作品解釈に対し、茶々を入れているように思うのだが。
竹熊さん自身はこの茶々を受け流し、あくまで「ミサトが作品にはまっていた」という主張を続ける。この後、摩砂雪さんが少し遅れて、ミサトがあの場では「本当にそう思ってた(=シンジにちょっかい出そうとした)のかもしれないね(笑)」と、竹熊さんの話をフォローしている。つまりメインスタッフの間でも、あの行動について解釈に幅があるのではないか、ということだ。
 
少なくとも僕は、ミサトのあの行動にはそれだけ解釈の余地があると思っている。例えば次の第24話「最後のシ者」において、カヲルがシンジの手を握る場面があるが、そこも確かに何やらいかがわしい雰囲気が漂っているが、直接肉体関係に発展するものではない。

 
さて、覚えている方がいるか分からないが、ここでまたエヴァの「フィルムブック」の話をしたい。フィルムブックに対する不満は既に一度、6話の綾波の笑顔に関連して表明している。

そんな重要文献であるフィルムブックだが、ページ下部に添えられている「一言解説」のようなコーナーでは時折ライター(たぶん岸川靖氏)の主観が垣間見え、内容を押し付けがましく感じることがあった。今回の場合などはその典型だ。綾波が何を想って微笑んだかは、視聴者に想像の余地が残されるべき部分であり、公式の文献に断定口調のコメントが添えられるのは望ましくなかったのではないか。同様のことは23話「涙」において、ミサトが綾波の死に落ち込むシンジの手を握ろうとする場面の解説文にも言えると思う…が、そちらに関しては23話の感想で再度触れるとしよう。

『エヴァ』テレビ版感想:6話 笑顔が持つ含み - さめたパスタとぬるいコーラ

6話のときにも予告したので、ここで改めてフィルムブックに対する不満を述べさせて頂く。
問題の部分にはこうある。

CHECK POINT:シンジに手を伸ばすミサト。彼女はこのとき、シンジをなぐさめるために自らの肉体を差し出すつもりだったのかもしれない。しかし、それは自分自身の寂しさをまぎらわすための代償行為でしかなかった。
CHECK POINT:ミサトの手を拒絶するシンジ。シンジは子供なので、ミサトの影の感情にまでは気づかなかった。単純にかまってほしくなかっただけだろう。そのあとで、ミサトが自分のなかの真実に気づくあたりの表現はみごと。
ニュータイプフィルムブック 新世紀エヴァンゲリオンフィルムブック 9』(1996) 角川書店 p.25,p.26

大筋の論調には同意できる。しかし「彼女はこのとき、シンジをなぐさめるために自らの肉体を差し出すつもりだったのかもしれない。」という表現については、前述のような理由で、より慎重になる必要があったように思う。一応「かもしれない」と、ぼかしてあるので、6話の綾波の笑顔についての解説よりは好ましい表現であるように思うが…。
 
■その他感想
・委員長の家にあがり込み、学校にも行かず、家にも帰らず、ひたすらセガサターンに明け暮れるアスカ。就寝時に委員長に愚痴り、慰められ、泣き出す。惨めすぎて見ていられない。それにここでの委員長のドライな慰めもアスカのプラスになってるようには思えないんだよな。

 
綾波のダミーを大量破壊するリツコ。
シンジ綾波、レイ…。」
ミサト「まさかエヴァのダミープラグは…!?」
リツコ「そう、ダミーシステムのコアとなる部分よ。その生産工場。」
ミサト「これが…。」
リツコ「ここにあるのはダミー。そしてレイのためのただのパーツに過ぎないわ。人は神様を拾ったので喜んで手に入れようとした。だから罰が当たった。それが十五年前。せっかく拾った神様も消えてしまったわ。でも今度は神様を自分たちで復活させようとしたの。それがアダム。そしてアダムから神様に似せて人間を作った。それがエヴァ。」
リツコが一定以上の字数を喋ると太鼓の音が聞こえてくる病気がここでも発動……。
・悲劇のヒロイン状態のリツコ、それを「(あらー…、まあ人のこと言えないけど…)」と見つめるミサト。そして完全なるとばっちりで場違い感漂いまくりのシンジ。

これだけ嫌な空気が漂う場面なのに、後のシンジにさほど影響してこないのが凄い。キャラクターが各自勝手に狂ったテンションになっている感じ。
こうした狂ったテンション、他のアニメだとなかなかお目にかかれない。最近だと『あの花』の最終回あたりが記憶に新しいが。あれは幼馴染達が号泣しながら各自のトラウマ告白大会を行なっている最中に主人公が遅れてやってきて、「(やべーところに来ちまった…)」感を漂わせていて素晴らしかった。
 
・次回予告。「少年が守っていた街は消え、少年が心を寄せていた友人たちは去り、少年が心惹かれていた少女らは恐れへと変わった。心の依り代を失ったシンジに、夕暮れの中、新たな少年が微笑む。彼の全ての罪を包み込むような笑顔に溶け込むシンジ。だが、彼らには、過酷な運命が仕組まれていた。次回、「最後のシ者」。」
物語のテンションとスケジュールのヤバさのシンクロ率がストップ高なのが一目でわかる予告映像。

カヲルに手を握られ、赤面するシンジ。今回のミサトに対する反応とは好対照。新劇場版ではミサトや綾波と手を繋いできているシンジだが、『Q』ではまたカヲルの寝とりイベントが発生するのだろうか。するのだろうなーw
そんなわけでカヲル君が待つ24話へ続く!
・次回感想→『エヴァ』テレビ版感想:24話 僕に優しくしてよ!
・全話感想もくじ→『エヴァ』テレビ版〜旧劇場版/『新劇場版:Q』全感想目次