悲しみ、黙祷、優しさ 『シン・仮面ライダー』感想

最速上映で観てきました。ど初っ端の映倫マークからやられましたね。

最速上映直前の新宿バルト9の様子

特にアクションは意表をつく仕掛け、編集のスピード感など大満足。しかし、初見は映像面のケレンは楽しんだものの、公開前日に楽しみすぎてほぼ寝ていなかったため、シナリオが綺麗に頭を素通りする状態でした。なので、2度目の鑑賞の方が断然楽しめました。

“ヒーローモノ”としては、一般市民を助ける描写がなかったのが個人的に物足りなかったのですが、そのあたりは本作のショッカーの設定の特殊性からの逆算だったのかなというのも、2度観て腑に落ちました。そのあたりの感想をまとめておきます。

ネタバレしているので、これから鑑賞予定の方はご注意を。

 

遺言としての“仮面”

初見では“とにかく奇妙な映画”だな、という感覚で見ていました。ヒーローモノでは悪者が一般市民を困らせ、それをヒーローがやっつけてどうにかする、というのが定石です。しかしそんなシーンは影も形もありませんでした(一応補足すると、原作漫画やドラマ版にはそうしたシーンが存在します)。

そもそも本作のショッカーは“悪”を標榜していません。悪役が正義の側を自称/自認するのはありがちですが、本作ではショッカーによって迷惑を被る一般市民の描写すら見えづらくなっているのが独特です。ショッカー戦闘員が一般人の洗脳された姿である悲劇性は掘り下げられず、ハチオーグに操られた一般群衆も催眠から解けたときに“首を傾げる”程度のリアクションしかしません。

ショッカーの理念が「最大多数の最大幸福」ではなく「最も深い絶望を抱えた人間の救済」である、といったことが序盤でルリ子により明かされます。その最たるものとして終盤に登場するのが、イチローによる計画。全人類のプラーナ(魂のようなもの)をハビタット世界に転送し理想郷を作るという、平たく言えば人類補完計画です。「エヴァンゲリオン」シリーズでは、ゲンドウが目指す人類補完計画はシンジにも共感できる部分があるものの、最終的には否定されるものとして描かれました。

シンジ「でも、僕はもう一度会いたいと思った。そのときの気持ちは、本当だと思うから」

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』より

 

『シン・仮面ライダー』で庵野監督のパーソナルな部分が最も盛り込まれていたのは、こうしたイチロー(たち)が抱える他者への不信感や、それでも他者と生きていきたい、分かり合いたいというせめぎあいだったと思います。

そしてドラマ上、ショッカー(≒イチロー)側の理念を感情移入可能なものにするため、ショッカーにより苦しむ民間人が描きづらかった……というのが、ヒーローに助けられる一般人を描かなかった理由なのかなと思いました。ショッカー幹部はそれぞれ独自に動いているため、市民救助エピソードを盛り込む余地もあったと思いますが、作品上どこに注力するかの取捨選択などもあったのでしょう。

 

そんなイチローの鏡像として配置されていたのが、本作の主人公・本郷猛です。これが個人的に最も意外な点でした。オリジナルの多くをリスペクト・踏襲しながらも、主人公の本郷は碇シンジを思わせるほどに繊細で、完全に庵野印なキャラクターになっていた。(3/19 追記:主人公の人格を自らに寄せ大胆に変えるという意味では『シン・ウルトラマン』の神永/リピアでも似たことをやっていましたね)

本郷はイチローと同じく、他者の理不尽により肉親を失った過去があり、一歩間違えばイチローの側に立っていたかもしれない人物です。しかし彼はその悲しみを受け止め、戦い続けている。悲しみ、慈しむ心があるからこそ、敵戦闘員を葬るたびに必ず黙祷する。これは悲しみを幸福で上書きしようとするショッカーとは真逆の振る舞いです。

だから彼はショッカーの側ではなく、ヒーローとして歩むことを選ぶ。それは緑川博士が彼に力を与え、ルリ子が背中を押したからでもあります。本郷は最初からヒーローだったのではなく、作中で他者とのふれあいを通じ「ヒーローになっていく」のです。

実はそれと同様のことを、本郷は一文字に対して行っています。一文字はバックグラウンドがほぼ描かれず、終始飄々とした言動なので見過ごしそうになりますが、実は彼もまた本郷やイチローのように、他者を遠ざけようとするタイプの人間です。そして普段は一匹狼のように振る舞いつつも、ダブルライダーとして活躍する瞬間はまんざらでもない様子だったりする、どちらにも転び得る存在でもあります。象徴的なのが、イチローを倒し再び孤独になったところで、一度スカーフを手放しそうになるシーンです。

一文字は洗脳を解いてもらった恩があるとはいえ、ルリ子とそれほど親しかったわけではありません。託されたスカーフに一生縛られるいわれもありません。本郷亡き後はスカーフを手放し、腕っ節の強い一匹狼のジャーナリストとして生きる道だってあったはずです。ところがスカーフを手放そうとした瞬間、“仮面”を持った髭男2人組が現れます。セリフでも説明がある通り、一文字に仮面を渡すよう言い遺したのが、他ならぬ本郷です。どちらにも転び得る存在だった一文字に対し、仮面を通し仮面ライダーの道を歩むよう、本郷が背中を押したのです。

メタに見れば、これは本作を介した庵野監督と観客の関係性にも重なります。本郷が「自分がいなくなった後も仮面ライダーをよろしく」と言って泡になったのと同じように、庵野監督が『シン・仮面ライダー』を受け取った観客に対し「これからも仮面ライダーをよろしく」と言っているように見えました。

『シン・仮面ライダー』は続編がいくらでも作れそうな終わり方です。その点では、企画段階で続編が念頭にあったという『シン・ウルトラマン』に近いともいえます。ですが、本作の質感が上述のように非常に遺言めいて感じられたため、たとえ続編が実現してもそれは庵野監督作品ではないのではないかと思えてしまい、ラストシーンで走り去るライダーの後ろ姿が美しくも切なく感じました。

 

『シン・エヴァ』からの連続性を感じさせながらも予想不可能な内容で、本作も翻弄されながら楽しませてもらいました。正式発表済みの庵野監督作品は、本作で一旦は全て公開されたことになります。当面は『シン・仮面ライダー』のリピートを幸福としつつ、常在戦場、用意周到な庵野監督の次回作も心待ちにしています。