監督の個人史としての『マトリックス レザレクションズ』 でもアクションがしょぼいのは悲しい

 『マトリックス レザレクションズ』を最速上映で見て怒り心頭になり、翌日再見してやや気持ちが整理できてきたので感想を。旧3部作の直接的続編なので、未見の人は予習推奨です。以下ネタバレ。


 初見時の感想は「蛇足!!!」というもの。求めていた「マトリックス」像とかけ離れていたため、特に中盤以降のアクションの凡庸さに非常に落胆しました。しかし鑑賞後反芻しているうちにだんだんとテーマとしては悪くなかった気がしてきました。再見しても初見でのガッカリは覆りませんでしたが、作り手のテーマは明確で、映画としてはそれほど嫌いではないという「なんとも評価に困る作品」というところに落ち着きました。

 まず良かった点としては、前半のネオが夢と現実のはざまで苦悩するシーンは「何が現実なのか?」の揺さぶりが目まぐるしく、とにかく面白かった。『レボリューションズ』のエンディングを覚えていれば、設定上ネオに何が起きているかはある程度先読みできるのですが、ドラッギーな演出と劇中歌「ホワイト・ラビット」に乗せられ、まんまと混乱するネオの気持ちになりながら楽しめました。

「ホワイト・ラビット」が流れる予告編

 また、前半はトリニティとのカフェでのやり取りがラナ監督の胸中をさらけ出しているようで、2度目の鑑賞では特に胸打たれました。本作はトリニティをもうひとりの主人公だと意識しながら見るとその辺の感触が結構変わると思います。
 自我や記憶を封じ込められた状態の“ティフ(=トリニティ)”は、旧トリロジーを体験した際「トリニティに自己投影していた」ものの、それを夫に笑われたと明かします。旧作の製作時にトランスジェンダーであることを未公表だったラナには、これと同様の実体験があったのではないかと想像してしまいます。
 本作のエンディングでは、旧作当時は愛想笑いを返すことしかできなかった彼女が、「“セカンドチャンス”をありがたく使わせてもらう」と言って、無理解なアナリストを蹴り飛ばす。そこに被さるのが女性ボーカル版「Wake Up」というのがなんとも直球ですがすがしい。

マトリックス』第1作のエンディングで流れた「Wake Up」のカバー曲

 ラナ監督にとって、ラストシーンのトリニティがようやく獲得した女性としての「現在の自分」だとすると、その傍らにいるネオは、男性の身体をアバターにせざるを得なかった「過去の自分」とも解釈できます。その両方を否定せず(ラストシーン、ネオはトリニティの助けを借りずに空を飛んでいる)、軽やかに終わるエンディングからは実に前向きなメッセージを受け取りました。

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てっきりCG合成かと思いきやビルの間にワイヤーを通し主演2人を本当に飛ばして吊るし撮影していたシーン。通常版パンフに撮影の裏話があり面白かったです

 ちなみに、本作には不参加だったリリー監督は、旧トリロジートランスジェンダーの寓話であるとの解釈について2020年に賛同を表明していたりします。

リリー・ウォシャウスキーへのインタビュー動画。55秒あたりから「『マトリックス』はトランスジェンダーの寓話」との解釈について、当初の意図に気付いてもらえて嬉しいと語っている

上記動画を紹介した記事


 また、エンドロールで両親に宛てた「Love is the genesis of everything.(愛はすべての起源)」とのメッセージが流れた通り、『レザレクションズ』はラナ監督が両親や友人を立て続けに失った失意の中で、創作の中であればキャラクターを生き返らせられると思い立ち、自己セラピーの一環として制作した側面があります。これについては通常版パンフの監督インタビューでも触れられています。

6分20秒から「マトリックス」新作を作ろうとした理由を明かしている


 上の動画によると、ワーナー・ブラザースは毎年トラック一杯の大金をチラつかせながら続編の申し出をしてきていたそうで、ウォシャウスキー姉妹は毎回それを興味なしと突っぱねつづけていたのだとか。そんなこれまでの気持ちを撤回するほどの創作意欲があったということなので、作中にあったメタ展開のように「仕方なく続編に取り掛かった」というのはあくまでも作中でのアクセントとしての側面が強そうです。

 また、制作動機がパーソナルなものだったとはいえ、もちろん個人の思いつきで全編作ったわけではなく、通常版パンフインタビューにもある通り、過去作でも共作している脚本家2人とホテルで缶詰になって脚本を練り上げたとのこと。

(ちなみにパンフは両方マスト・バイです)


 現在と過去の自分を正面から直視して描ききるスタンスは終始一貫していて、それは年齢を重ねたキアヌ・リーヴスやキャリー=アン・モスを飾らずに美しく撮っていくスタイルにも現れていたと思います。ラストで未来に目を向け幕を閉じる展開が、少々駆け足にもかかわらず実感を伴って感じられるのは、この創作スタイルを貫いた賜物でしょう。

 トリニティとネオが2人揃って最強という結末なので、本当なら製作にリリー監督も加わってくれてたほうが美しかったように思うのですが、そこはリリーがまた別の個人であり、創作上の意見の相違で叶わなかったようなので仕方がない部分ですね。

「ちょうど(ジェンダー)移行明けで、完全に疲れてしまっていた(※)。というのも、『クラウド・アトラス』と『ジュピター』、そして『センス8』の第1シーズンを連続して制作したあとだったから。1つの作品をあげると同時に別の作品の準備をしていた。1つのプロジェクトにつき、100日以上の撮影を3回行なっていたわけだから、完全に疲れ果ててしまい、自分を犠牲にしていた私の世界はある程度崩壊してしまっていた。だから、この業界から離れる時間が必要だったの。アーティストとしての自分を取り戻す必要があったから、学校に戻って絵を描いたりすることでそれを実現した」

※リリーはトランスジェンダーであり、2016年に性別適合手術を終えた。

リリーは続けて、「ラナが『マトリックス』の映画をもう1本作るというアイデアを出してきて、私たちはその話をしたんだけど、実際にこの話を始めたのは、(私たちの)父が亡くなってから母が亡くなるまでの5週間ほどの間のことだったの」と明かした。そして、「以前にやったことがあることに逆戻りして参加するというのは、はっきり言って魅力的ではなかった。移行を経て、母や父からの喪失感という人生の大変動を経験した後に、以前にやったことのあることに戻って、自分が歩いたことのある古い道を歩くというのは、感情的に満たされないというか、逆に昔の靴を履いて生きていくような気がした。私はそれをしたくなかった」と、『マトリックス レザレクションズ』に参加しなかった理由をはっきりと述べた。

 

マトリックス」なのにアクションがしょぼい

 「マトリックス」を監督らの個人史と捉えたことはなかったので、今作のアプローチは意外でしたが、そこは思いの外うまくいっていたと思います。トリニティを覚醒させるにあたり、彼女視点での積み重ねをもっとしておいた方が終盤で振り落とされる人が減らせたのではとも思いますが、作中で語られたテーマに文句はないのです。そうではなく、「マトリックス」なのにアクションがしょぼいというのがとにかく悲しい。
 よく「バレットタイムは陳腐化した」と言われますし、実際そういう側面はあるでしょう。しかし旧トリロジーの映像が後世の作品に擦られすぎたため陳腐化してしまったことと、『レザレクションズ』のアクションがしょぼいのは全然別問題です。

アクションに限らず、足元を映すカットなどレイアウトがどこを切り取っても格好良い第1作

 『レザレクションズ』のアクションは、旧トリロジーとは異なる思想・方向性を試みています。『レザレクションズ』について「映像的には焼き直しなので、そこに新鮮味がない」といった声も見かけたのですが、それは明確に間違いでしょう。
 別方向のアクションを目指したところまでは良かったのです。しかし、バタバタとしまりのない殺陣で揉み合いになりながら、やたら細かくカットを切り替える編集は単純に下手。特に新幹線でのアクションは見れたものではありませんでした。
 旧来の、アニメのようにバチバチに決め込んだレイアウトで撮るワイヤーアクションから脱却するなら、せめてそれに見合うもの……いや、せめて業界水準の平均以上ぐらいは……と求めたくなるのはシリーズファンとしてはどうしようもない部分です。

 あるいは「今回は前作へのアンチテーゼとして、あえてアクションに比重をおかない」と、全編を前半のようなトーンで作ってもらっても構わなかったのです。ところが『レザレクションズ』におけるアクションシーンの比重は決して小さくはなく、それがまたアクション/スペクタクルを撮るのが上手くないという印象につながりました。

 ウォシャウスキー姉妹の過去作『クラウド・アトラス』でパートごとに監督・スタッフを振り分けたように、バトルパートを旧トリロジーの立役者であるユエン・ウーピンが手掛けていれば……と妄想せずにはいられません。

ユエン・ウーピンの功績をまとめた動画

1作目のネオ対スミス。『レザレクションズ』で「I know Kung Fu.(カンフーは覚えている)」というセリフがあったが、残念ながら見る影もない動きになっていた

 ほかにも、『センス8』(ウォシャウスキー姉妹監督の直近作。傑作なので見ましょう)から合流した俳優陣が多数を占めるアイオ組が死ななすぎで緊張感がまるでない点や、アイオに行ったり来たりする展開がグダグダな点、アイオの住民が10人ぐらいしか出てこない点など中盤以降は不満点が目白押し。

 アイオで群衆シーンが皆無なのはコロナ禍での撮影の影響もあったりしたのでしょうか(本作はコロナ禍により5ヶ月ほど撮影中断している)。人が一切死なない展開については、旧トリロジー多大な犠牲の果てに革命を成し遂げたことへの自己批判からかもしれませんが、それならそこが欠点に映らないようにする代わりの何か(そう、例えば手に汗握るアクションとか!!!)がほしかった。
 と、文句もたくさん言いましたが、アナリストによる「逆バレットタイム」のアイデアや、スミスとのまさかの共闘など、燃える展開があったのも事実。また、現実をより良くするだけでなく機械・シンシエントと共生しつつ「マトリックス」内も良くしていこうという結末は、現代の感覚としてとても非常に共感できるもの。そしてなんといってもエンディングのすがすがしさは確かにあるので、「なんとも評価に困る作品」という個人的評価になったのでした。