『EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』終盤の置いてけぼり感について考える

 前回『EUREKA』についてかなり好意的な感想を書きましたが、特に初見時に首をひねるカ所がなかったわけではありません。しかし作り手が描きたかったテーマを追っていくと、演出上一貫したことをやっていたと分かってきたので、その辺をメモ代わりに書き残しておきます。なお、結末付近に触れる関係上、以下ネタバレしています。

前回の感想記事

 

 最も置いてけぼりを食らったのは、軌道エレベーターが落下し地球規模の惨劇が起こる中、ホランドやスーパー6が次々に特攻し散っていく場面。これは『逆襲のシャア』終盤の唐突感を意図的に再現しているのかなとも思ったのですが、特攻を安易に描くのはどうなのだろうかとそれなりに疑問でした。

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終盤のこの辺のシーンのことです

 ところが2度、3度見ていくうちに、本来の意図(たぶん)が見えてきました。命の描き方が軽すぎるのではないかと思った場面は、背後で流れる音楽に耳を傾けると、曲に悲壮感が全く無くひたすら美しいことに気付きます。つまり、悲惨な展開に美しい音楽を乗せる古典的な異化効果をねらった場面であり、はじめから違和感を覚えてほしいシーンを狙って演出していたのではないか、ということです。
 そして、とどめとばかりにエウレカの「命を粗末にしないで」といったセリフが、彼女の号泣と共に響きます。前回記事でも触れた通り、本作では虚構存在の存在意義をテーマとして扱っているわけですが、ここで失われている「命」とはまさに虚構(キャラクター)のもの。
 画面上失われている命が虚構のものであるはずなのに、居心地の悪さ、悲しさを覚える我々のこの気持ちは何なのか? どうしてもこの結末を変えたい、そう願ったときにニルヴァーシュレントンがその想いに応え、異化効果でしかなかった音楽がストレートに感動的な曲・場面に転換するのがあのラストなのではないかと。

 しかし、上記の流れを受け止めるには『ハイエボリューション1』やパチスロの派生で作られた前日譚アニメを見て「ハイエボ」で新たに描かれたホランド像に愛着を持っておいたり、『ANEMONE』でスーパー6の存在に注目して『EUREKA』冒頭で「スーパー6の出番がやっとキター!」と盛り上がれるぐらいのマインドを持ってたりするぐらいの鑑賞態度が求められます。

全3話の「ハイエボ」前日譚アニメ

 予備知識がほぼ無くても楽しめた『ANEMONE』に比べ、本作が敷居の高いものになってしまっている一因として、ホランドやスーパー6への思い入れを持つ観客が目論見より少なかった、という作り手側の誤算があるのではないかと思います。これについては3部作としての計画性の希薄さ、『EUREKA』で強引に大量のキャラを処理しようとした弊害が出てしまっているのかなと。
 そんな欠点がありながらも、鑑賞時に上手く感情が乗ると音楽と相まってかなり多幸感のあるエンディングになっているのが、本作の評価をまた難しくしていると思います。前回の感想の最後にも書きましたが、やはり京田監督のこうした演出手腕を、コントロールの行き届いた作品で再度見てみたいものです。