『ルックバック』の修正が優先したこと

『ルックバック』に込められているのは鎮魂と、藤本タツキのこれからの創作に対する決意表明でしかない。そんな祈りが込められた作品が、結果として言い争いを誘発する様子を見るのは、やるせない。

鎮魂は、狭義では作品の公開時期に由来する事件に向けられたものであり、広義では作中で引用元が明記される『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』=シャロン・テート事件をはじめ、創作・表現者に関連した不条理な死全てに向けられたものだろう。

 

既に各所で指摘されている通り、今回の表現修正により、作中キャラクターの言動に少なからぬ意味合いの変化が与えられたことになる。犯人に精神疾患があるかのように連想させる描写は、よりプレーンな無差別殺人鬼としての言動へと差し替えられた。

作中で絵として描かれる犯人は生々しくはあるが、藤野が報道の情報を元に構築した妄想の姿と解釈するのが妥当だろう。彼の属性には妄想≒創作の果てに生まれたモンスターという、藤野との近似性が付与されていた。ところが修正版では動機の見えない通り魔へと置換され、創作者側の性質から切り離された“他者”として遠ざけられた。

おそらく今回の修正は、斎藤環などが指摘した、“「意思疎通できない(統合失調症などの精神疾患を持った)殺人鬼」は実在しないのに、同作がそうした偏見や差別を助長している”との批判に対応したものだ。

この批判に配慮しようとした想い自体は否定し難いものではないかと思う。差別を助長したくない、との想いに反対する理由などあるはずがない。だが、『ルックバック』でこうした思いを、当初の作品形態のまま実現するのは不可能だった。あるいは大幅な加筆(台詞レベルではなく、犯人の造形やストーリー展開の変更レベルの)修正を行えば可能だったかもしれないが、それではかえって作品や当初の意図がブレてしまっただろう。

当初の意図というのは冒頭でも記した、鎮魂だ。

通り魔のあの描写を修正することは、すなわち藤野のキャラクターを修正したこととほぼ同義になる。ポリティカルコレクトネスに応える大義名分のため作品やキャラクターを歪めるとは何事だ、という批判もありえるだろう。だが、本作の最後で再び『シャークキック』と向き合う藤野の背中が語りかけるように、藤野とは(京本と同様に)作者の半身である。修正コメントは編集部名義だが、作者の意思を無視した改変だったとは思いたくない。

作品の形を歪めてでも、鎮魂の場に意図しない偏見や差別が含まれるのを是としなかった作者の判断を尊重したい。

 

以上は修正対応をかなり好意的に解釈した意見だが、現状の編集部からの断片的な説明では火に油になるのも無理はない。余計な軋轢、分断を助長する火種がくすぶる(例えばジャンプ+の告知ツイートのリプライ欄のような)状況は健全とは言い難く、作品の精神性とも相容れないものなので、できればジャンプ+編集部による追加の説明がほしい。