孫コピー世代のけじめ 『EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』感想

 2010年代を代表する傑作『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』の続編にして「エウレカ」シリーズの総決算となる完結作『EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』が公開されました。初日に鑑賞し、2日目に舞台挨拶のライブビューイング付きで2回目も見てきました。

 

 初見の率直な感想は「最後の最後までわんぱく企画だったな!」。特に冒頭5分間のアバン部分のかっ飛ばしかたが凄まじく、ここだけでテレビシリーズ2クールぐらいやれるのでは? というぐらいの展開が詰め込まれていました。

 

 前作『ANEMONE』は「予備知識ゼロ」あるいは「過去に『エウレカ』シリーズがあったらしい」という程度の知識で見て全く問題ないものでしたが、本作は少々異なる手触り。前作の直接の続編となっており、よほど振り回される快感を味わいたいわけでもない限り、少なくとも『ANEMONE』の予習復習はしておいた方が良いと思います。
『ANEMONE』は「GYAO!」で12月8日まで無料配信中

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こちらは前作の感想


 『EUREKA』の設定面の説明については以下のブログ記事にかなりまとまっており、未見・鑑賞後のどちらでも参考になるかと思います。途中まではネタバレなしです。

 

 

 さて、ノルマである『ANEMONE』布教も済んだので、以下早速ネタバレ感想を。

 

徹底的な「脱ボーイ・ミーツ・ガール」

 本作はタイトルの通り、エウレカを主人公に据えた物語です。
過去作を振り返ると、彼女の行動原理には「レントンが好き」「レントンに添い遂げる」といった“設定”が根深く組み込まれており、レントンが主人公である限り、彼女にはそのパートナーとしての役割がついて回りました。ところが、『ANEMONE』でエウレカアネモネから差し伸べられた手にレントンの面影を見ながらも、彼のいない世界で生きる決意をします。

 『EUREKA』で描かれるのは、そんなレントンのパートナーとしての役割を剥ぎ取られた、一人の人間としてのエウレカ。そして『ANEMONE』では手を差し伸べる側だったところから、誰かに手を差し伸べられるようになるまでの物語だといえます。

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『ANEMONE』でエウレカアネモネの手を握り返すシーン

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エウレカがレイの手を握るシーン/『EUREKA』本予告より

 こうしたエウレカの自立に向けた積み重ねは、特にアイリスとの交流を描いた第二幕から顕著になっていきます。このロードムービー・パートは従来のシリーズでは見られなかった異質なものですが、冒頭からの硬派なアクションの流れもあり、『ボーン・アイデンティティー』での逃避行のような、しっとり説得力を持ったもののように感じました。
 「エウレカ」シリーズには「ボーイ・ミーツ・ガール」という強固なパブリック・イメージがありますが、完結作でそれを徹底的に踏襲しなかったのはなかなかの挑戦で、素直に驚きました。

 パンフインタビューで京田監督は、テレビシリーズでのエウレカ佐藤大さんや吉田健一さんの色が強く、動かしづらかったと語っています。自分の納得行くキャラ造形を模索した結果、ボーイ・ミーツ・ガールからどんどん遠ざかっていったのはクリエイターの変遷として面白い部分だと思います。

 パンフで京田監督は、キャラクターを自らに寄せた結果、本作ではエウレカ、デューイ、アイリスにもレントンの要素が含まれる結果になったとも語っています。終盤、アイリスを救うためカットバックドロップターンで駆けつけるエウレカの姿は、それがセリフ抜きに伝わってくる名シーンでした。

 ちなみに、『EUREKA』を見終えるなり2009年公開の劇場版『ポケットが虹でいっぱい』も見直したのですが、記憶以上にパブリック・イメージとしての「エウレカ」をやっていて驚きました。当時テレビシリーズからの逸脱ぶりがかなり賛否を呼んだ作品と記憶していますが、そんな『ポケ虹』すらも『EUREKA』後では元の物語構造に縛られて見えるというか、エウレカがとても「キャラ」っぽい言動をしているように見えました。

 

女神なんてなれないまま

 本作でのエウレカは、レントンを救えなかったことに大きな挫折を覚えています。そして願いを実現できなかった自分と違い、夢の具現化能力を持つアイリスを“本物”と評する場面も出てきます。この“本物”と“偽物”をめぐる二項対立を象徴する存在として出てくるのが、もう一人の主人公ともいうべき悪役・デューイです。
 デューイは前作では狂言回しのような役回りで、正直その時点では出自や目的についてあまり理解していませんでしたが、今作でもろもろはっきりしました。要は並行宇宙を感知したことで、自分が物語上のキャラに過ぎないと自覚したため、マルチバースの創造主たるエウレカ個人に愛憎を抱いているということですね。

 彼が提唱する「自由意志や自我の証明として集団自決(という名の大虐殺)をするのだ」というテロ行為にチャールズやレイなど多くの賛同者がいるのはなかなか飛躍のある展開で、少なからず違和感が残りました。しかしこれは『逆シャア』のアクシズ落としオマージュな展開を盛り込むためどうしてもつく必要があった“嘘”なのだろうとも思います。

 本作で思わず吹き出してしまったのが、デューイらの声明文「私たちは何を行おうとしているのか」が大写しになる場面。これはどう見ても庵野監督による『エヴァ』の所信表明文のパロディ、あるいはオマージュです。

貞元版『新世紀エヴァンゲリオン』の第1巻に収録(※電子版に未収録なので注意)

 

 庵野監督が自らを「コピー世代」と自認し、その中でいかに独自の表現を模索していったかはその作品内容や90年代のインタビューなどから明らかです。そんな負い目の部分を振り切りつつ、自らの感性を育んだ先行作品へのリスペクトをより顕在化していったのが「シン・」を冠する近年の作品群であったり、NPO法人「アニメ特撮アーカイブ機構(ATAC)」での活動なのでしょう。
 デューイが覚えるオリジナリティの問題は、この前期庵野アイデンティティ問題と近しいものであり、『EUREKA』という作品自体がこれに対抗する価値観を模索する物語として構成されているように感じました。

 京田監督自身、テレビ版の『交響詩篇エウレカセブン』では『エヴァ』をはじめとする先行作品からの影響やオマージュを露骨に作中に投入していましたし、そうした作風が「エウレカ」を「ポスト・エヴァ」として語られる一因となっていました。
 当然「コピー世代」絡みの問題意識は京田監督も持っていたようで、京田監督は過去のインタビューで次のようなことを言っています。

 

 結局のところ普通の日本人にとって、その蓄積された言語的情報の差異はあるにしても、影響、つまり「コピー」もしくは「コピーの変種」の積み重ねでしか作品は作れないのではないかと思ったんですね。

 すでに10年以上前に、僕らの上の世代のクリエイターが「自分たちはコピー世代だ」と言っているのですが、そんなことを言ったら、もはや僕らの世代は「孫コピー世代」です(笑)。そして悲しいかな、そもそもの「コピー元」は、どんどんその存在を忘れさられている。これだけネットやアーカイブが多数成立しているという印象なのに、です。

―― 作り手としては、今の時代には、もはや「オリジナル」は作れないのではないか、という危機感があるのですね。

京田 だからこの先、残されているのは「コピー」を「オリジナル」として認めていく方法しかない。

 既存のありものの「コピー」に過ぎない「オリジナル」を、いかに「孫コピーではない」と見せるか、という方法論しか残されていないと感じたんです。でも本当にそれで良いのだろうかと。僕らは本当に、何も創り上げることは出来ないのだろうかと、ふと思ったんです。

(※本文強調は引用者によるもの)

「孫コピー世代」の僕たちに、どんな神話が語れるだろう 「劇場版 交響詩篇エウレカセブン」京田知己監督・1/日経ビジネスONLINE(Internet Archive)

 

 

だから自分としては特別、じゃあ庵野さんみたいに特殊な才能があるのか?って言ったら、俺は庵野さんみたいな才能はないと思っていて。一時期はそれがコンプレックスに近い部分はあったんだけど、最近はこれもまた個性なんじゃないかなと思うようにはなったんですけどね。

『CONTINUE Vol.45(2009)』p.35

 

 

 この辺の問題意識にあらためて正面から決着をつけようとしたのが今回のデューイだったのではないかと。そう考えるとアイリスを強襲する車両が「HONNEAMISE(オネアミス)」だったり、「あの会社、今は稼働してないはず……!?」というセリフなんかもやたらメタで楽しくなってきます。
 そしてデューイの価値観へのカウンターとして描かれるのが、挫折を受け入れ、“本物”を祝福し、傷だらけになっても自ら歩むことは止めないエウレカです。そんな本物未満だったはずのエウレカの姿が、次世代の“本物”であるアイリスに刺激を与えるという逆転現象へと繋がるフィナーレは音響演出の見事さ、タイトルテロップをバンッと出す横綱相撲ぶりと合わせてとにかく気持ちよかったです。

 

 上記インタビューで京田監督は、自分に庵野監督のような才能はないと語っています。このインタビューは2009年のものですが、それから12年が経ち、『EUREKA』は奇しくも『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の公開年と重なりました。

 残念ながら「ハイエボ」シリーズは社会現象と呼ばれるほどのヒットにはなっていませんし、話はメタで分かりづらく、三部作として不親切。『EUREKA』では吉田さんのキャラクターが抜けた穴は(演出的意図も付与されていたとはいえ)無視できないほどに大きく、コロナ禍の煽りもあったのかもしれませんが過去作に比べ人物作画の乱れも目立ちました。それでも、テレビ版の表層をなぞった縮小再生産などではなく、全く未知の地平に連れてきてくれた「ハイエボ」は大好きなシリーズとなりました。

 

京田 「思ったような人生って歩めないものですよね。でも思ったような人生じゃなかったとしても誰かに良い影響を与えられるかもしれない。そんな前向きな気持になってもらえたらと思い作りました」「16年間本当にありがとうございました。そして、見ていただき本当にありがとうございました」

公開記念舞台挨拶(1回目)の京田監督の言葉/自分の手書きメモより

 

 

 本作に限らず、「エウレカ」は決して完璧なシリーズではなかったと思います。でも、そこがまた憎めない。デコボコのまま突き進む様を追うのは最後までスリリングで楽しかったです。

 特に『ANEMONE』→『EUREKA』の2作はよくぞここまでキャラクターに寄り添いつつお話を畳んでくれたなと。こんな奇特なシリーズを完結まで作りきったボンズやスタッフにも感謝。この明らかな労作の直後にこんなことを言うのは酷かもしれませんが、京田監督の次回作が今から楽しみです。