『天気の子』感想 新海誠はエヴァより新しいアニメを作ったか?

 庵野監督のエヴァ新劇場版シリーズ所信表明は、挑発的でありながら2006年時点では確かに説得力を持っていた。

 

10年以上昔のタイトルを何故今更、とも思います。
エヴァはもう古い、とも感じます。
しかし、この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした。

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(庵野秀明「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」より抜粋)

 

 しかし『Q』から約7年、旧劇場版から約22年が経過した現在、その呪縛は着実に弱まっていると感じる。庵野信者としては、呪縛を解くのは庵野自身だと信じていたが、もしかしたら新海監督は『天気の子』で、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』に先んじてその領域に足を踏み入れたのかもしれない。そう感じさせるなにかがある作品だった。

 
 あるいは新海監督を国民的作家に押し上げた『君の名は。』の時点で、エヴァの呪縛は失効していたという意見もあるだろう。しかし、『君の名は。』はそれまでの新海作品の中で最もキャッチーではあったが、過去作品の良いとこ取り/セルフリメイクな側面がどこか引っかかった*1
 セルフリメイク自体を批判するつもりは毛頭なく、むしろ公開当時、私はその点こそが『君の名は。』の美点なのだと褒めちぎっていた。

 過去の作品の夢の残骸が無ければ絶対に誕生しなかった作品で、余計に感動があります。(…)

(三葉と入れ替わった状態の)瀧は先祖代々の写真を見渡し、「このこと(彗星の落下)を知らせるために、先祖たちはみんな過去同じような体験をしてきたのではないか」的な台詞を口にします。そこで映る先祖たちの遺影の眼差しが、過去作られた深海作品たちの眼差しのように見えてなりませんでした。『星を追う子ども』のアガルタでの旅は無駄ではなかった。

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  ただ、どうしてもそこに「エヴァより新しいアニメ」と呼べるほどのインパクトは感じられなかった。では『天気の子』はエヴァや『君の名は。』に比べて新しかったのか?
 以下、『天気の子』を①『君の名は』、②『フリクリ』、③『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』との対比で考える。ネタバレも含むので、映画を見てから読んでほしい。

 

 

①『君の名は。』との対比 内から外へ、作家性への回帰

 『君の名は。』では過去の新海作品との類似性が多く見られたのに対して、『天気の子』では新海作品でない作品との類似が多い。今作で初期新海作品に近い肌触りを覚える人がいたとしたら、これが一つの所以ではないかと考えている。
 もともと新海監督の特性は、わりと遠慮なく先行作品の良い部分を自らの作品に取り入れてしまうところにあった。例えば初期の代表作『ほしのこえ』は、『トップをねらえ!』のウラシマ効果要素(時間と空間を隔てたすれ違いの切なさ)を携帯メールという現代性のあるガジェットと融合させた快作だった*2

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トップをねらえ!』(左画像)と『ほしのこえ』(右画像)

 

 他の作品を見ても、基本的には“先行作品×新海要素”という図式が見て取れる。『雲のむこう、約束の場所』では押井作品っぽいポリティカル・フィクションの匂いが漂っていたし、『星を追う子ども』ではいかにもジブリ風な何かを目指した痕跡があった*3
 ある意味で、『君の名は。』ではこの“先行作品×新海監督の特性”という図式を反転させて“過去の新海作品×新海要素”と、新海濃度を極限まで高めた状態だったといえる。ところが『天気の子』では先祖返りをして、旧来の新海作品にあった“先行作品(非新海作品)×新海要素”という図式に戻っている。

 

②『フリクリ』との対比 “コピー世代”にできること

 では『天気の子』において、“先行作品(非新海作品)×新海要素”の図式に当てはまる具体例はどのようなものがあるのか? 個人的にはひたすら作中モチーフの鶴巻作品や榎戸作品との共通項に目が行った。『フリクリ』に限ってみても

 

  • 陽菜が初めて祈り、天気が晴れになるシーン
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フリクリ』2話
  • バイクとマフラーのお姉さんに連れられての逃避行(※『天気の子』ではマフラーではなくスカーフ)

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フリクリ』6話
  • 手錠*4

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フリクリ』6話

 

 さらに『フリクリ』から少しずれたところを見ても

と、目白押しだ。

 ただし、個人的には『ほしのこえ』の以下の台詞を初めて聞いたときから新海誠は『フリクリ』が好きに違いないと信じて疑っていないのだが、彼が鶴巻監督や榎戸洋司のその後の仕事をつぶさに追ってるかまでの確証はない。

 ねえ美加子。俺はね
美加子 私はね。昇くん。懐かしいものがたくさんあるんだ。ここには何もないんだもの。例えばね
 例えば、夏の雲とか、冷たい雨とか、秋の風の匂いとか
美加子 傘に当たる雨の音とか、春の土の柔らかさとか、夜中のコンビニの安心する感じとか
 それからね。放課後のひんやりとした空気とか
美加子 黒板消しの匂いとか
 夜中のトラックの遠い音とか
美加子 夕立のアスファルトの匂いとか。昇くん、そういうものをね私はずっと
 僕はずっと、美加子と一緒に感じていたいって思っていたよ

 

ほしのこえ』より

ナオ太 兄ちゃんのこと、どれぐらい好き?
マミ美 硬い……
ナオ太 店の張り紙見たろ。それ古いのだよ
マミ美 スイカ
ナオ太 ?
マミ美 それとか、パンダの意地悪そうな顔とか、ツボの書いてある健康サンダルとか、黒板消しの匂いとか、朝起きたら雨が振ってた日曜日とか。まあ、パンの耳よりは好き

 

フリクリ』1話より

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フリクリ』1話

 

 具体的にどの作品と符合すると感じるかは、人によって異なるかもしれない。だが少なくとも新海監督が庵野監督の言葉でいうところの“コピー世代”としての特性を持っている点については、それなりに同意が得られるのではないか。

 また、エンドロールの最後にかかる「愛にできることはまだあるかい」では、次の歌詞が見られる。

愛の歌も 歌われ尽くした 数多の映画で 語られ尽くした
そんな荒野に 生まれ落ちた僕、君 それでも

愛にできることはまだあるよ
僕にできることはまだあるよ

 

 ここに出てくる「僕」が新海誠を指すとしか思えず、なんとストレートに彼の決意を歌っているのだろうと震えた。コピー世代だからなんなのだと、それでも自分に役割はあるのだという叫びのように思えたのだ。新海監督とどの程度すり合わせがあったかわ分からないが、野田洋次郎による、作品の本質に迫ったすばらしい詞である。

 

③『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の先へ

 ここまで類似作を挙げてきた中で、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』以外に意図的に省いた作品が2つある。ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破少女革命ウテナだ。
 『破』と『ウテナ』で『天気の子』と共通するのは、クライマックス。いずれの作品でも、状況にがんじがらめにされたヒロイン(綾波レイ/姫宮アンシー/天野陽菜)が、主人公(碇シンジ/天上ウテナ/森嶋帆高)の協力を得て鮮やかに革命される様を描いている*5問題は『破』との類似点だ。
 『破』のシンジは「世界がどうなったっていい。だけど綾波は、せめて綾波だけは絶対に助ける!」と叫び、結果的にニア・サードインパクトを引き起こしつつも綾波レイを救うことに成功する。ところが『Q』で描かれるのは、その後、被害の大きさに責任が取れず思考停止してしまうシンジの姿である。

シンジ君は『破』において台詞ではっきりと、「綾波>世界」という考えを表明しています。(…)もしもシンジ君がこの考えを全うするのであれば、誰にも文句は言えなかったはずです。いえ、文句を言うことはできたかもしれませんが、シンジ君にとっては納得済み(…)
ですが『Q』のシンジ君は、「そんなつもり(世界を滅ぼすつもり)は無かった」と、責任転嫁を試みます。これでは彼の行いを劇中でたった一人支持してくれたミサトさんや、あの時胸を熱くした観客に対し、あまりに不実な気がします。

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  『天気の子』のラストで描かれるのは、まさしく『Q』同様、主人公たちの選択により決定的に変わってしまった世界だ。ここで新海監督は回答を2パターン提示する。

 ひとつは須賀(小栗旬)が言う、世界は最初から狂っているので、気にしすぎるな(思い上がるな)というもの。もうひとつが帆高が最後に選び取ったものだ。

 須賀は主人公のもう一つの可能性ともいうべきキャラクターで、終盤には一度ラスボスに近いポジションで帆高の前に立ちはだかる。彼の見解は“大人”として真っ当なもので、さらに過去の新海作品におけるセカイ系的要素への自己批判のようでもある*6。帆高はそんな批判を踏まえた上で、自らの「陽菜を救う」という選択を再肯定してみせるのだ。
 世界の命運を左右した責任は、とても個人で負えるものではない。災害で負った傷は癒えない場合だってある。それすらも数百年単位で見れば些細な変化なのかもしれない。でも、例え四季がなくなっても、大人から見て不幸そうに見えたとしても、次世代の子らは自ら幸せを作り出すたくましさを持っている。

 さまざまな要素をないまぜにした上で、「大丈夫だ」と謳い上げるのがあの結末なのだ。帆高が陽菜と再開する前に代わる代わる登場する子どもたちの、雨にもかかわらず楽しげな様子。そして、最後の最後に、天に祈る陽菜の背後に映る満開の桜の木がさり気なく「大丈夫」を補強しているように感じられた。

 

 『天気の子』が22年前のエヴァより新しいアニメだったかは、正直なんともいえない。少なくとも、『君の名は。』よりは中盤までのペース配分がぎこちなく、娯楽作としては変な作品になっていると思う。だがテーマ的には『Q』よりも先を描いていた。というか、『Q』を観た直後に妄想した理想的な『シン・エヴァ』の形に近かった。

 果たして『シン・エヴァ』はかつてのエヴァや、『天気の子』よりも新しいアニメになっているだろうか。

*1:ちょうど細田監督の『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』と『サマーウォーズ』の関係性のような感じ、というと分かりやすいだろうか。

*2:【追記:7月22日2時50分】『ほしのこえ』はウラシマ効果じゃないよ!という指摘を受け、文章を微修正。参照→『ほしのこえ』にウラシマ効果は出てきません - togetter

*3:この図式から距離を取りある程度成功したのが『秒速5センチメートル』と『言の葉の庭』だと思うが、脱線するのでばっさり割愛する。

*4:『天気の子』終盤で2人が落下するシーン。繋いだ手が離れそうになっても、帆高が陽菜に手錠をかけないのが良かったですね

*5:少女革命ウテナ』でウテナは一見アンシーを助けそびれたかのようにも見えるが、アンシーはレイや陽菜と同様、内面を救われたと解釈している。

*6:セカイ系」という言葉は話者によって定義が異なり、結果的に混乱しかもたらさないことも多いので普段はなるべく使わないようにしているのだが、新海作品においては意識的に逆輸入されているふしがあるので安易に使ってしまうことを許してほしい。