京アニの実名報道が及ぼすもうひとつの副作用

京都アニメーションが、9月6日に公開される『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -』に全スタッフの名前をクレジットすると発表した。

 

前提として、こちらが京アニ側の大まかな発表内容。

●9月6日に公開される「ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -」に京アニの全スタッフ名をクレジットする

●事件の犠牲者もクレジットされることになるが、特掲等を行うものではない(おそらくエンドロールで追悼コーナなどは設けられず、全スタッフの名前が淡々とクレジットされることになる)
京アニではこれまで経験1年以上のスタッフしかクレジットしない慣例だった(おそらくアニメーターだと新人の動画などはクレジットしてこなかった)
●全員クレジットしてほしいというのは藤田春香監督たっての願い

 

このような背景があったにもかかわらず、共同通信が9月5日、「京アニ 新作に全ての犠牲者名」との記事を掲載し、それがYahoo!ニュースといった提携先でも広く拡散された。

 

嘘は書いてないが、どうしてもミスリードを狙った見出しとの印象を受ける。この記事に対し、京アニ代理人Twitter上で、引用RTと共に補足説明を行っている。ここで強調していたのが、「特掲等を行うものではありません」という部分だ。

 

共同通信の煽り立てるような内容に憤りを覚えた一方で、それがどうでもよくなるほどに、今回の京アニのクレジットの対応に感銘を受けた。

周知のとおり、事件以来京アニは報道や警察に対し実名報道や実名公表の自粛を求めてきた。それに付随しいろいろな論争もあったが、その殆どが報道の自由や警察発表が担保される社会的意義といった文脈で語られてきた。このこと自体に、無意識に少なからぬわだかまりがあった。

 

このわだかまりの正体に気づかせてくれたのが、先日鑑賞した『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』だった。これはクエンティン・タランティーノ監督の最新作だが、同作では実際にあった凄惨な事件を題材にしており、作中には事件により亡くなった犠牲者が登場人物として出てくる。

ところが同作では、当該人物がほとんど徹底的と言って差し支えないほどに事件とは切り離され、無邪気に日々を楽しむ一個人として描かれた。こうした描写についてタランティーノ監督は、ラジオ「アフター6ジャンクション」のインタビューで、宇多丸氏の質問に以下のように語っている。

宇多丸 シャロン・テートが本当にキュートで愛らしく描かれる一方で、マンソン・ファミリーの若者たちはこの作品だとただただなんていうのかな、本当に時代の産物というか、浅はかな正義感を振り回すがゆえの愚かな存在として描かれている。僕はここに、“シャロン・テート”って検索したときに出てくるのがこの事件のことばかりで、彼女がどう生きたかとかどんな人だったのかということではなく、マンソン・ファミリーの被害者としてしか出てこないっていうこの、なんというかな。残酷さというか、この現実に対して、タランティーノさんなりに怒りをもって、「記憶するべきは加害者の方じゃないだろ」っていうメッセージのように感じて、そこはすごく胸を打たれたんですけど。

タランティーノ 僕もそう思うよ。この映画を手がける前は、僕の周りでもあの事件があったからシャロン・テートの名前を知ったという人がほとんどだったと思う。彼女がロマン・ポランスキーと結婚していたこと、あの事件の犠牲者だったこと、女優だったことは知っていても、今やせいぜい、『哀愁の花びら』を見てたり見てなかったりしているくらいだ。
 僕の考えでは、あの事件によって引き起こされた悲劇の一つは、40年ものあいだ、シャロン・テートの名前が「あの事件の被害者」とだけ定義されてしまったことだと思う。そのイメージを、マーゴット・ロビーを通して僕らは意味深いやり方で変えることができたと思っているんだ。

スマホ用のラジオ音源リンク(「ラジオクラウド」アプリのダウンロードが必要)

 

わだかまりの正体はこれだったのだ、と思った。

つまりアニメのいちスタッフとして作品作りに打ち込んできた者たちが、「犠牲者である」という暴力的なラベリングによって一括りにされ、追悼が済んだら忘れ去られてしまうのではないかという、漠然とした不安や悲しみを感じていたのだ。彼らがアニメに刻み込んだ想いや技術が蔑ろにされてしまうことが怖かったのだ。


『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は史実を元にしたフィクション作品だが、近しい問題意識を持って書かれたであろうノンフィクションに、村上春樹の『アンダーグラウンド』がある。

(前略)だから私はインタビュイーを前にして、その限られた二時間くらいのあいだに、意識を集中して「この人はどういう人なのか」ということを深く具体的に理解しようとつとめたし、それを読者にそのままのかたちで伝えようと、文章化につとめた。実際にはインタビュイーの事情で活字にできないことが多かったけれど。そのような姿勢で取材したのは、「加害者=オウム関係者」の一人ひとりのプロフィールがマスコミの取材などによって細部まで明確にされ、一種魅惑的な情報や物語として世間にあまねく伝播されたのに対して、もう一方の「被害者=一般市民」のプロフィールの扱いが、まるでとってつけたみたいだったからである。そこにあるのはほとんどの場合ただの与えられた役割(「通行人A」)であり、人が耳を傾けたくなるような物語が提供されることはきわめて稀であった。そしてそれらの数少ない物語も、パターン化された文脈上でしか語られなかった。おそらくそれは一般マスコミの文脈が、被害者たちを「傷つけられたイノセントな一般市民」というイメージできっちりと固定してしまいたかったからだろう。もっとつっこんで言うなら、被害者たちにリアルな顔がない方が、文脈の展開は楽になるわけだ。そして「(顔のない)健全な市民」対「顔のある悪党たち」という古典的な対比によって、絵はずいぶん作りやすくなる。
 私はできることなら、その固定された図式を外したいと思った。その朝、地下鉄に乗っていた一人ひとりの乗客にはちゃんと顔があり、生活があり、人生があり、家族があり、喜びがあり、トラブルがあり、ドラマがあり、矛盾やジレンマがあり、それらを総合したかたちでの物語があったはずなのだから。ないわけがないのだ。それはつまりあなたであり、また私でもあるのだから。

 だから私はまず何よりも、彼/彼女の人となりを知りたかったのだ。それが具体的に文章になるにせよ、ならないにせよ。

村上春樹アンダーグラウンド』「はじめに」より

 

久々に同書を一部読み返し、やはり京アニの件でも被害に遭った一人ひとりの作品への貢献や、人生があったことは忘れてしまいたくないとあらためて感じた。とはいえ今回難しいのは、京アニ側が主体的に被害者の一律匿名化を求めている点だ。無論、遺族のことを考えれば、それは責められることではない。

 

思えば地下鉄サリン事件と関連して、メディアスクラムの危険性とその反省を日本社会に促した象徴的な事件として、松本サリン事件があった。だが、事件から25年以上が経過しているにもかかわらず、マスコミのそうした性質は改善するどころか、SNSでの私刑的な暴走を巻き込んで悪化しているという皮膚感覚は否めない。

本来、警察による実名の公表は事務的に行われ、マスコミ側は自らの倫理観に基づいて報道するか否かを決め、問題のある取材や報道があった場合には市民側がそれを批判し是正していく、というのが理想的な社会なのだろう。しかし残念ながらマスコミによるメディアスクラムとそれに便乗し一喜一憂する世間との相乗効果で、そうした機能はお世辞にも健全に機能しているとは言い難い。

マスコミの倫理観やそれを監視すべき衆目が信用に値しない以上、京アニ側が実名発表の自粛を徹底して求めてきたのは自然ともいえる。

 

だが、そうはいっても犠牲者の過度な匿名化にはどうしても抵抗を覚える。そんな板挟みへのヒントが、今回の京アニのクレジット対応にあるのではないかと感じた。「犠牲者の特掲等を行わない」のは、犠牲となったスタッフを事件と紐付けるのではなく、それ以外の全てのスタッフと等しく、作品に貢献した個人として見てほしいという、京都アニメーションからのメッセージだと受け止めた。

今後亡くなったスタッフへの言説がどのようになっていくかは分からないが、少なくともセンセーショナルさを狙った実名報道は遺族の心情やプライバシーを脅かすだけでなく、故人の人格を過剰に事件に結びつけてしまう副作用がある。報道(に限らずSNSなどでのファンの言動も含め)には、遺族と同じくらい、故人の人生に寄り添ったものであってほしいと願わずにはいられない。

新作映画「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝-永遠と自動手記人形-」が6日、全国で公開される。同作品は35人が犠牲となった7月18日の放火殺人事件の前日に完成した。同社は公開に先立つ4日、代理人弁護士を通じ「災禍に見舞われたスタッフを含め、制作に参加した全員の生きた証しです」とのコメントを出した。

制作者の「生きた証し」=事件前日完成の新作、6日公開へ-京アニ:時事ドットコム 

 

今後どうしても、京アニの作品やスタッフを事件と結びつけて見てしまう瞬間があるでしょう。それでも、なるべく作品は作品として。そしてそれに携わったスタッフへの敬意や感謝は、作品に則った形で持ち続けたいものです。

こんなブログの片隅からですが、犠牲になられた方々に哀悼の意を表すると共に、被害に遭われた全ての方々にお見舞い申し上げます。