ピングドラム20話感想 /「氷の世界」の説得力と「やさしい物語」

 今まで「こどもブロイラー」を高倉家の両親が所属するカルト団体の施設と思い込んでたのですが、それが所謂「あちら側」ではなく、じつは社会の「こちら側」の一部だったというのはやられたなーという印象でした。
 最近になって村上春樹の『アンダーグラウンド』(http://www.amazon.co.jp/dp/4062639971)と森達也の映画『A』(http://www.amazon.co.jp/dp/B00009P68I)を見ました(『アンダーグラウンド』は序文と末文を先に読んで、中盤は読みかけだけど)。そこで、どちらも近い問題提起がされている部分があって面白かったんです。地下鉄サリン事件が起こった当初、マスコミにおける報道が「事件を起こした邪悪なキチガイ軍団(あいつら)」と「被害者である善良な市民(我々)」、という二項対立を描くことに終始していて、ある種の思考停止を誘発していたんじゃないかとうのが、両者の共通する問題意識だと思うんだけど。事件を起こしたのが「理解不能なキチガイ集団」であるとレッテルを貼って思考停止するのは容易いけれど、実際に細かく見て行くと、実は彼らだって元々は我々の生きている社会の中から生まれてきたもではないか、という。
 そういう意味では、僕は「こどもブロイラー」を9話のヒマリの回想ではじめて見た際、咄嗟に「マジキチ」と、拒絶感を持ったんですね。これが「こちら側」の物であるはずがないと。サブタイトルの「氷の世界」というのも、「こどもブロイラー」空間やヒマリがカルト団体関連で辛い事でもあったのだろう、と考えていた。ところが今回になって、「こどもブロイラー」というのがカルト団体(=あちら側)とは関係のない、「こちら側」の社会に属するものらしい事が分かって、しかも剣山によれば「氷の世界」というのも、まさに「こちら側」の世界を指した言葉であった事が判明するという。これにはやられました。
 しかし、こうした「あちら側」/「こちら側」という図式を単純な対立構造から崩して考えたり、論じたりする場合、事が事であるだけに非常にデリケートにならざるを得ないわけです。そこで、見ていてギリギリのバランスで描いてるな、とゾクゾク来たのが、やはり冒頭の剣山の演説です。

決行前日
剣山 この世界は間違えている。勝ったとか負けたとか、誰の方が上だとか下だとか、儲かるとか儲からないとか、認められたとか認めてくれないとか、選ばれたとか選ばれなかったとか。やつらは、ひとに何か与えようとはせず、いつも求められることばかり考えている。この世界はそんなつまらない、きっと何物にもなれないやつらが支配している。・・・もうここは、「氷の世界」なんだ。しかし幸いなるかな、我々の手には希望の松明が燃えている。これは聖なる炎。明日我々は、この炎によって、世界を浄化する。今こそ取り戻そう、本当の事だけでひとが生きられる美しい世界を。これが我々の生存戦略なのだ!

 この演説って本当にヤバさに満ち満ちていて・・・多分幾原監督って、ここで剣山に自身が近年感じている社会への不満ないし疑問をかなりストレートな形で言わせてしまってるんですよ。これから大量虐殺を行うと思しきカルト団体の「指導的幹部」であると、作中で明言されている剣山に。当ブログで既に度々参照している幾原監督の日記からまたまた引用しますが
 

幸福とは幸福を探すことである 2009年06月16日(火)
 
戦後、経済成長を経て日本は近代化した----。
そんな論調をメディアで見たり読んだりするたびに奇妙な違和感があった。
“何か”が抜け落ちているような気がしていた。
 
100年に一度の不況だと言う。
お金が無くなって、日本人もようやく分かっただろう。
近代化とは“幸せの価値”が人それぞれになることだって。
なんだ、そんなことか。
いやいや、結構、それって難しいんだ。
 
古いメディアは、相変わらず「格差」だと「婚活」とか言ってるけど、みんなそんなことはどうでもいいって分かっている。
いい学歴を得たって、高い収入を得たって、大きな家を買ったって、そんなことで幸せになれないってことは、みんなとっくに知ってる。
幸せの価値がひとそれぞれってことだとすると、そこで最も大切なのは“想像力”だ。
メディアに“幸せ”を教えてもらわないと不安な人には難しい。
 
他の誰にも、それが分からなくっても、私には分かる。
“私だけの幸せ”を想像する力。
それだけでいい。
(以下略 /強調は引用者による)

http://www2.jrt.co.jp/cgi-bin3/ikuniweb/tomozo.cgi?no=491

 と、かなり剣山の演説にシンクロした事を言っている。過去の記事(http://d.hatena.ne.jp/samepa/20111003)にも書きましたが、幾原監督はこうした発言をブログだけでなく、雑誌などの媒体でも折に触れて展開しています。これ、何がリスキーかと言うと、時代が時代なら、「オウムを不当に賛美してる」とか言われかねないんですよ。本来臭いものには蓋をして、全否定しておくのが安全なんです。ちょうど読んでいた森達也の『A3』(http://www.amazon.co.jp/dp/4797671653)にこんな一節があります。
 

 地下鉄サリン事件以来、麻原やオウムについてメディア関係者の使う語彙は、著しく限定された。オウムについて語るときは、とにかく最凶で最悪の存在であるというニュアンスを文脈のどこかで強調しないことには、なぜか収まりが悪いのだ。例えば九九年くらいから多くの自治体が信者の住民票の受理を拒否し続けていることについて、これは憲法違反ではないかと疑問を呈する場合や(書きながらあらためて思うけれど、疑問のレベルではなくて明白な憲法違反だ)、別件や微罪など合法すれすれ(というか逸脱)の逮捕をくりかえす警察の操作手法に意義を唱える場合でも、文章や発言のどこかに「オウムが決して許されない存在であることは言うまでもないが」とか「もちろんサリン事件は絶対に正当化できない犯罪であるが」など言わずもがなの常套句を紛れ込ませないことには、語るほうも聞くほうもなんとなく不安なのだ。ある意味では暗黙のルールに近い。暗黙ではあってもルールなのだから、破れば制裁を受ける。実際にオウム報道が渦中の頃、「事件は事件としてオウムの教義をもう少し冷静に検討すべきだと」とか「今のこの操作のありかたはあまりに常軌を逸している」的な発言をテレビでしたことで批判され、いつのまにか姿を消したジャーナリストは少なくない。
 
森達也(2010) 『A3』 集英社インターナショナル pp.41-42

 まあ読んで分かる通り、そのような過剰な萎縮に対してかなり否定的に取り上げているわけですが。そしてこの文章の直後に、そうした萎縮こそが、「あちら側」/「こちら側」という安直な図式化を増長させてしまうものだとも指摘しています。
 

 限定された語彙によって紡がれるレトリックは当然ながら痩せ細る。つまり図式化だ。この帰結としてオウム以降は、加害と被害の二項対立ばかりが強調されるようになり、肥大した悪への対抗原理として厳罰化が催促された。
 
『A3』 p.42

 恐らくアニメの放送当初、幾原監督が「観た全ての人に肯定してもらえる作品じゃない」と言っていたのは、そうした意味合いも含んでいたのかなと、今になって思ったりします。
 

世の中、色々な趣味の人がいます。その意味では、観た全ての人に肯定してもらえる作品じゃないんです。そこは、前もってこっそりと。 #penguindrumMon Jun 13 11:57:43 via TweetMe for iPhone

 ここでさらに話を進める前に、先日2ちゃんを見ていて非常に「使える」レスを見つけたので、ちょっとご紹介します。
 

ニュー速(嫌儲) / 【速報】アニメDVD・BDの売り上げを見守るスレ6310
 
149 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です : 2011/11/26(土) 03:22:39.79 ID:/mWlUuh90
ピンドラ見て思ったこと。ああ、アーレフのやったことは正しかったんだな
  
子供達をスポイルする社会が悪いんだ
  
  
 
  
なんて思うかヴォケ、幾原はカルトでも作って教祖やっとけ

http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1322243857

 うーむ、このレスはふと思い出して、自分がここ数日見ていたスレのログを遡ってきて見つけたのですが、あまりにこの記事を書くのにぴったりで、思わずうなってしまいました(笑)。これがまさに先ほど言った、「オウムを不当に賛美してる」系の意見ですね。こうした感想が実際にどの程度持たれたのか分からないですが、実際にそう見てしまった人もいた、という例です。まあ、2ちゃんというのは独特のアイロニーを用いる場であり、必ずしも「書かれたそのままの内容=書き込んだ者の意見」であるとも限らないですが。もしかしたら「オウムを不当に賛美してる」系のレスをあえて行うことにより、そうした「誤解を招きやすい作り方」の批判がしたかったのかも分からない。
 実際にそのように感じた人がいたかどうかはさておき、僕自身はというと、もちろんピングドラムの20話がそうした挑発的な内容であったとは思わない。ギリギリの綱渡り感はあって、刺激的でありながらも、「挑発的」にはなっていないと思う。最初に挙げた森達也ドキュメンタリー映画『A』に対して、村上春樹のこんなコメントがある。
 

もしこの『A』という作品に何らかの挑発性があるとすれば(もちろんある)、それは映画がひとつの方向を指し示していることの中にはなく、むしろそれらが我々観客を困惑させ、方向性を見失わせることの中にあるはずだ
 
村上春樹「もうひとつのアンダーグラウンド」(『A』DVD小冊子に収録)より

 確かに『A』を観たとき、僕も村上の言うような挑発性のようなものを感じた。それはやはり、信じていたものを足元から揺さぶられたような気がしたから。そして『ピングドラム』においても、こどもブロイラーが「こちら側」の一部であったことに「やられた」と感じたし、剣山の演説を聞いていて「ヤバイ」と思い、正直、困惑した。ただそれでも挑発性は感じなかったし、ましてや「オウム賛美」などには聞こえなかった。危ういバランスの上で成り立っているのは確かな気がしたけれど。実は、幾原監督は『ピングドラム』BD1巻の小冊子に収録されたインタビューにおいて、こんな事をいっている。
 

エゴの時代が続いてきたじゃないですか。幸せの概念みたいなものがあったとしても、それを家族のなかで押しつける。部屋にこもっている子供が理解出来ずに、「引きこもり」という意地悪なネーミングをつけて、「家族はこうあるべきだ」という概念を押し付けたりね。それに対してもちろん子供は反発する…。ただ、僕はここにきて、いよいよ、そういう考えを通り越していいんじゃないかと思うんだ。各々で幸せの価値観を押し付けあう時代は終わっていいと思う。つまり、「新しい幸せの概念」を探す時代が、いまなんじゃないか。(中略)
だから自分の夢としては、僕たちが経てきた、それこそ最悪のコミュニティも経た上で、若い人たちの新しいコミュニティを作り出したり、最確認するという話を見たいと思っている。誤解しないでほしいんだけど、その最悪のコミュニティを肯定するわけじゃない。ただ、まるで自分に関係の無いことだったように蓋をするのはどうにも納得がいかない。大方の大雑把なメディアが言うように簡単な悪だという総括の仕方はしたくない。学生運動は国家の否定だったけど、それらは同時に親の世代の否定、家族の否定でもあったよね。そういう風に、何かを否定することで自分のコミュニティを肯定する…、悪を登場させて、その時代的なものを否定することで自分の立ち位置を守るという話にはしたくないと思っている。むしろ、間違っているかもしれないけど、それをしたお父さん、お母さんすら、愛おしいと思ってしまう感覚。自分には帰るところがないと感じたとしたら、間違っているものですら心の居所になると思うんだ。そういう家族の話をリアリズムで描くんじゃなく、現代の寓話・神話のようなものとして描きたいと思っているんだ。ただ、スピリチュアルなものだと勘違いして欲しくはないね。僕はそこに興味はないから。
 
輪るピングドラム』BD1巻小冊子に収録された「幾原邦彦インタビュー」より

 ここではっきりと「その最悪のコミュニティを肯定するわけじゃない」と宣言しているんですよね。しかし同時に「自分に関係の無いことだったように蓋をするのはどうにも納得がいかない」とも言っている。そうした、最悪のコミュニティを安易に総括したくないというのは、まさに森の『A』や村上の『アンダーグラウンド』なんかと同じ問題意識が働いていると思う。でも、そのような根底に流れる意識が同じでも、『ピングドラム』が挑発性を孕んでいないのは、端的に言って『ピングドラム』が3.11を経験したばかりの、「いまの日本社会に向けて物語」だからだと思う。ちょっと唐突な話に聞こえるかもしれないけど、幾原監督の『季刊エス』36号(http://www.amazon.co.jp/dp/B005JE5Z16)のインタビューを読んでみて欲しい。
 

三月の震災が自分にずいぶん影響している気がする。より家族のことをフィーチャーしたいと思うようにんあった。極論を言っちゃうと、戦前と戦後くらい喝の揺さぶりがあるわけでしょう。この作品をどういうところで見てもらいたいのか、問い直すことになった。だから当初考えていたよりは、やさしい表現に再構築したというか。震災までは「驚かそう、衝撃を与えよう」という意識が強かったんだけど、震災以降、「衝撃」はどうでも良くなった。
  
季刊エス vol.36』「輪るピングドラム 幾原邦彦インタビュー」 p.63

 今回、このインタビューを読み返してみて合点が行ったんだけど、『ピングドラム』が「いま」作られている一番の必然性というのは、やはりこの「やさしさ」なんです。『A』と問題意識を共にしながらも、「挑発性」とは実に対照的なスパイスだと思う。テレビアニメというのは長い構想期間と、一年前後の制作期間の中で作られるもの。それを放送が差し迫った時期において、「やさしさ」という方向にシフトできてしまったのは凄いし、そこからは幾原監督の才能やメッセージ性だけでなくて、人柄なんかも感じられると思う。
 そうした「やさしさ」が、20話「選んでくれて ありがとう」という、完結した一つのエピソードの中で、危ういながらもバランスが取れた形で成り立っているのがまた素晴らしい。繰り返しになりますが、剣山に監督の本音を語らせてしまうというのはかなりリスクを伴うことです。しかしそうした危うさが、この一つのエピソードの中だけで、見事にクリアされてる。これはやはり、ショウマとヒマリの「氷の世界」にまつわる回想に説得力があったからだろうと思います。
 

ごめん・・・。
ショウちゃんのせいじゃないよ。
でも・・・。
選ばれなかったのよ、あの子は。
え?
この世界は、選ばれるか選ばれないか。選ばれないことは、死ぬこと。

ねえ父さん、「こどもブロイラー」って何?
・・・社会から、見捨てられた子ども達が行く場所だ。我々も手を出す事ができないし、救えない。「氷の世界」だ。
そこに行った子どもはどうなるの?
「透明」になる。
どういう事?
彼らは、何物にもなれない。
死ぬって事?
・・・。
そんな・・・。
この瞬間にも、大勢の子ども達が透明にされている。それを放置しているこの世界は間違っている。だから我々は・・・

 「氷の世界」によって不幸に陥り、あまつさえ死んでしまったり、「こどもブロイラー」行きになってしまう残酷な運命を抱えた子どもが現にいる。その事に説得力を与える描写が、これまで見てきたユリやタブキのエピソードなどに加えて、鮮烈な形で描かれている。
 僕は前に「昔は存在した、“幸せの価値”の指標となるもの=「ピングドラム」?」と書いた(http://d.hatena.ne.jp/samepa/20111003)けど、もしかしたら本作で最大の問題となるのは「ピングドラム」そのものだけでなく、いかにその「果実」を誰かに「与える」事ができるかという事かもしれない。そして、そうした幸せを与えるためのシステムを構築するために、剣山達は明らかに間違った手段を選んだわけだ。「この瞬間にも、大勢の子ども達が透明にされている。それを放置しているこの世界は間違っている。だから我々は・・・」という、ショウマとの回想に出てくるこの言葉の続きは、実はそのまま現代のカンバとのラーメン屋でのシーンに繋がる。
 

この瞬間にも、大勢の子ども達が透明にされている。それを放置しているこの世界は、許しておいて良いはずがない。だからこそ、我々は来るべき聖なる日に、世界を浄化しなければならない。

 【問題意識までは間違っていない】。ただ、「世界を浄化しなければならない」という手段がマズイのであって。そして、そんなヤバイ剣山達と対照的な形で、「運命の果実を、一緒に食べよう」と、ショウマによって「氷の世界」から感動的に救い出されるヒマリも描かれる。剣山に「我々も手を出す事ができないし、救えない」と言わしめた世界から、一時的にであれ、ショウマは救えてしまった。ここで、剣山達とは異なる第三の道が示唆されて、バランスが保たれたんじゃないでしょうか。
 

「氷の世界」そのもの(=社会に問題が存在するという事実)の説得力+剣山達の解決策の否定的ニュアンスでの描き+ショウマ・ヒマリの回想における新しい選択の提示

この三点が、20話にギリギリの緊張感を与えながらも、鮮やかにバランスを与えたんだと思います。
 
 本来20話の感想としてはここで終わっても良いんだけど・・・「与える」というキーワードについて気がついた点があったので、『劇場版セーラームーンR』、『ウテナ』とからめた感想part2に続きます。