ピングドラム20話感想 /なにかを「与える」ために

 今回は観ていて、ふと1話で登場した通りすがりの宮沢賢治フリークの小学生を思い出してしまいました。・・・あ、はじめに断っておきますが、この記事では『少女革命ウテナ』と『劇場版美少女戦士セーラームーンR』のネタバレ満載なので、未見でネタバレが嫌だという人は気をつけてください。劇場版セーラームーンRに関してはここでのネタバレ(幾原監督による自作解説)見ると、未見のひとはむしろ観たくなってくるかもしれないけど(笑)。
 

小学生A だからさ、リンゴは宇宙そのものなんだよ。手のひらに乗る宇宙。この世界とあっちの世界を繋ぐものだよ。
 小学生B あっちの世界?
小学生A カムパネルラや他の乗客が向かってる世界だよ!
 小学生B それとリンゴになんの関係があるんだ?
小学生A つまり、リンゴは愛による死を自ら選択したものへのご褒美でもあるんだよ。
 小学生B でも、死んだら全部おしまいじゃん。
小学生A おしまいじゃないよ!むしろそこから始まるって賢治は言いたいんだ!
 小学生B 全然わかんねーよ〜。
小学生A 愛の話しなんだよ!なんでわかんないかなぁ。

 宮沢賢治と自己犠牲については以前軽く触れましたが(http://d.hatena.ne.jp/samepa/20110914/1315965821)、やはり「自己犠牲」というのが今作の鍵となる部分なのだろうか。果実を「与える」ためには自己犠牲が必要である、という事を着地点とするのだろうか。
 実はこの何かを「与える」という行為は、過去の幾原作品においても、既に重要なモチーフとして出てきている。僕の場合、まず真っ先に『劇場版セーラームーンR』におけるフィオレというキャラクターを思い出す(これについてはこの後、幾原監督のインタビューを引用で具体的なイメージが伝わるんじゃないかと思う)。『ウテナ』の場合は・・・ウテナの場合はなんだろう。思い当たるものがいくつかあって、一つに絞れないな。とりあえず思い浮かんだのはキャラクター間の微妙な依存関係や、
 

ねえ、もし君に何か困ったことがあったら、まずボクに話してよ。何でも助け合おうよ。君とは、そういう友達になりたいんだ。

http://homepage1.nifty.com/~yu/utena/utena-tv-3.html

という台詞とかかな。最終回において『「この薔薇があなたに届きますように」スタッフ一同』という印象的なメッセージもそう。
 幾原監督はインタビューにおいても、「与える」という事について、何度か口にしている。最近で印象的なものだと、季刊エスの2011年1月号のインタビュー。
 

――大学時代は、今に通じる考え方や方向性が固まるいっかけになったことや、友達と話していて印象的だった事はありますか。
幾原 ありますね。大学に入った時に同級生の男がいてね。僕はそいつが好きじゃなかったんだけど、二人きりになった時に、彼から説教されたことがあった。「お前は、つまらないやつだ」と。なぜつまらないか、というのを彼が論理立てて説明しだした。つまらないというのは単なる言いがかりなんだけど、つまらないということを論理立てて言うやつは初めて会った。どういう言葉だったのかディテールは覚えてないんだけど……要約すると、「お前という存在から俺は何も影響を受けられない」ということ。「お前が食っているものを見てもちっとも旨そうに見えない、お前と一緒にいてもお前の服を着たいとは思わない。お前の髪型を見てもお前と同じ髪型を真似したいとは思わない。つまり、お前とという人間から俺は一切インスパイアを受けない」と言われた。それは凄くショックで。僕はその男が嫌いだったんだけど、なぜかと言うと僕から見たらそいつは何もないように見えたんだよね。つまり、女にモテたいから芸大に来てるやつに見えた。でも、その時に、そいつに言われて、明らかに僕より頭が良いわけだよ。「僕は誰にも影響を与えられない、いかん!」と思った。だから、それが増幅して今になってるかもしれない。なんとかしなきゃ、与えなきゃって。それまで僕は無自覚に人を見下していたんだよね。でも今思うと、彼は正直だったと思う。彼は頭が良いから、「何でこいつはこんなに人を見下してるんだ」と思ったんじゃないかな。僕が口に出さなくても彼を嫌っていたのを態度で感じとったんだと思う。それでズバッと言ったんだろうね。そしてそれが僕の中で、その通りだって、はまったんだよね。
 
季刊エスvol.33』「Private Space vol.6 幾原邦彦」 p.169

 このインタビューはおそらくピングドラムの制作が始まってから取られたものだろうし、ピングドラムの資料としては一級品だと思う。
 『ウテナ』の時期の幾原インタビューは僕自身、まだあまり読めていないので、現時点で参考になりそうなものは紹介できないのですが、ウテナ以前の『劇場版セーラームーンR』に関するインタビューで、物凄い勢いでピングドラムともシンクロするインタビューがあります。94年に出版されたものなので、それこそ「15年前」よりもさらに前のものです。
 

幾原 それで、少しフィオレの話をするけど、フィオレが衛に花をもらって、それを、どうしても返したいっていう気持ちって、僕は、よくわかるんだよね。ぼくなんかも、そうなんだけど、ちょっと人からやさしくされたり、ものをもらったりすると、すごく不安になることがあるんだ。ものをもらったりすると、自分が嬉しかった気持ちを倍にして返さないと、その人間関係はたもたれないのではないか、という不安感に襲われてしまうという。
 だから、フィオレっていうのは、ものすごく心の弱い人間で、ものをもらったら、その倍は相手を喜ばせてあげないと、相手は自分のことを思い続けてくれないのではないか、という恐怖感をもっている。だから、あんあにまでして、衛に花を返そう、一生懸命になっているんだよね。フィオレが、そんなに一生懸命になっているのに、月野うさぎは、みんなから愛されていながら、周囲に対して何もやってないように見える。だから、フィオレは、そんな彼女を、許せないんだろうね。
―― だけど、そんなフィオレよりも、何もしていないように見えるうさぎのほうが、周囲に何かを与えている?
幾原 うん、うさぎは、自分の存在で、返しているっていうことだよね。
 ぼくらの世代とか、もっと若い人は、モノに依存して生きている人が多い気がするよね。つまり、自分が何かをたくさん持っていることを、心のよりどころにしている人。あるいは、必要以上に他人との関係に頼って生きているような人。そういうのって気持ち悪いし、自分もそういう人間かもしれないと思うと恐ろしい。フィオレは、そういうタイプの人間としてかいてみたんだ。形のある「もの」にだけ依存する人だよね。だから、花をあげるという行為で、衛との繋がりをもとうとするし、花がなくなると、もう人間関係もダメになったと思い込んでしまう。 (中略)
 フィオレは、絶対的な現実主義者で、誰の言葉も、たとえ、自分の愛する者の言葉さえも信じられない。彼にとっては、現実的に目に見える美しいものしか、価値がないんだよ。そんな彼とは、言葉でコミュニケーションをとることはできないんだよね。だから、セーラームーンや衛が言葉で何を言っても、彼はきいてくれないよね。小惑星上での展開を、「言葉の意味が消失した世界」のドラマにしてみたってことかな。(中略)
「価値があるもの」だと思っていたキセニアンの花をあげることで、「ただひとりの信じられる相手」だ、と思っていた衛との人間関係をたもとうとしたんだよね。だけど、その衛に花を投げつけられてしまった。それで、フィオレが信じていたものが、崩壊していったんだよ。そのことによって、小惑星上の花畑も消滅してしまい、ドラマは究極的な絶望状態になる。
 それは、戦いに敗れたフィオレにとっての絶望ではなくて、セーラー戦士たちの人間としてのつながりいや、うさぎと地場衛の人間としての繋がりも否定する絶望なんだ。「理想的な人間どうしのつながりなんて、ありえないのではないか」ということを、ドラマの中で、抽象的に提示してみたんだよね。それで、その後のドラマで、「いや、そんなことはないんじゃないか」ということを、セーラームーンが見せてくれる。
―― クライマックスで、うさぎが「だいじょうぶよ、あなたは、ひとりなんかじゃないわ」といった後の展開ですね。
幾原 あげようと思っていた花がなくなってしまったフィオレが、セーラームーンの胸をつかむよね。その瞬間に、彼はセーラームーンの正体をなんだろう、と考える。セーラームーンにも、そこで、彼にあげるものは何もないんだけど、その胸から銀水晶が花となって出現する。つまり、「月野うさぎの存在自体が、花です」ということなんだよね。
 フィオレの花は、保護者であるキセニアンにもらったものだけど、うさぎは、自分がのなかに、他人にあげられる花を、持っていた(中略)
 話はちょっと横道にそれるけど、ぼくは、自分が幸福でない人間は、ほかの人を幸せにできないんじゃないかって思っているんだ。「自分は幸せになれないけど、そのかわり、好きな女の子を幸せにしてやりたい」とか、「まわりの人を幸福にするために、力をつくしたい」なんて、いう人がいるよね。ぼくなんかも、ときどき、そういうこといっちゃうことがあるんだけど(笑)。だけど、そういう人って、他人を幸せにすることが、難しいと思うんだよね。だいたい、テンションの低い人間に近づこうとする人なんか、いないものね。
 なぜ、アイドルタレントが、みんなにチヤホヤされていて、人気があるかっていうと、あれって、本人が幸せそうに見えるからなんだろうね。幸せそうな人には周囲の人も近づきたがるから。フィオレって、自分を卑下しているところがあるから、あれでは、他人を幸福にすることはできないんじゃないかと、思うよね。
―― うさぎは亜美やレイたちにとって、「本人が元気で、みんなに元気をわけてくれるような、そんなアイドルだった」ということなんですか?
幾原 そうだね。また話が横道にそれるけれど、以前に、ある男性アイドルのコンサートライブをテレビで見たんだ。そのアイドルは、観客に向かって、「おれはお前たちを、ひとりにしない!」とか、「おれは、お前たちを絶対に裏切らない!」なんてことを、いうんだよ。そのたびに、女の子たちは涙を流して、感動して絶叫するんだ。ぼくは、それまで、そんなシラジラしい言葉を、この現実生活の中で聞いたことがなかった。何がいいたいのかというと、「お前は、ひとりじゃない」とか、「もう誰もひとりにしない」なんて言葉は、ある限られた人間でないと、いっても意味がないのではないか、ということなんだ。
 案外、多くの人が、この現実世界を、「言葉の意味が消失した世界」だと感じてるんじゃないのかな。ぼくも、よく手紙に、「健康をお祈りしています」と、書いちゃうんだけど、実際に、本気で祈ったことはないね(笑)、やっぱり、世の中には、そんなふうに言葉が使われることが多いし、そんなことを続けていると、最初にあった言葉の意味が失われていくんじゃないかな。
 この現実世界には、そんな無意味な言葉が多いのにもっかかわらず、「お前をぜったいに裏切らない!」なんてことを言って、女の子を、感動させているやつがいるっていうのは、奇跡といってもいいんじゃないかなと、思う。その言葉は、アイドルが自分の存在をもって、聞く人に対して、リアリティを持たせているんだ。
 何をいいたいのかというと、ぼくが思うに、アイドルというのは、他者とのコミュニケーションをとるのが、上手な人間のことなんだろうってことなんだ。だから、ほかの人に、幸せを与えたいと思うのならば、自分がアイドルになるのが、いちばんいい方法なんだよ。こんなことをいうと、笑われるだろうけど、ぼくは、その男性アイドルに、ちょっと感動したね(笑)。
―― 幾原さんが、その男性アイドルに感動したというのは、やはりフィオレが、うさぎによって目覚めさせられたのと同じ気持ちなんですか。
幾原 そうだね。そうなのかもしれない。

 本当に幾原監督の一貫性には驚かされますね。・・・気がついたらとっても長い引用になってしまいました(笑)。どこも面白すぎて、ちょっと端折るポイントが見つからなかった・・・。ところどころ中略してますが、本当に渋々削ってます・・・。多分インタビュー全体の半分くらいは、引っ張ってきるんじゃないかな。本書(http://www.amazon.co.jp/dp/4063245535)は庵野監督を語る上で『スキゾ・エヴァンゲリオン』『パラノ・エヴァンゲリオン』が必修であるのと同じくらい、幾原監督を語る上でのマストアイテムだと思っています。超オススメなので気になる方は是非全文読んでみてください。
 そんなわけで、このインタビューでは本当に驚くほど、ピングドラムに通ずる話が出てくるわけです。『劇場版セーラームーンR』では、内面的な豊かさ(=幸せ)を「与えることができる」事が、最善の事として据えられている。そしてその裏返しとして、「与えることができない」者には、「与えてもらう」権利もないのではないか、という強迫観念が働く。そこで、「与えてもらうにはまずアイドルになって、与える側になってしまおう」と開き直れる所に、シンジ君をなかなかエヴァに載せられない庵野監督とは異なる、幾原監督のカリスマ性があるのだろうな。そして幾原監督をたまらなく好きなのは、「アイドルになってしまおう」という開き直りができるのに、当初持っていた強迫観念やナイーブさも、そのままどこかで引きずっている感じがある所。現在連載中の『ノケモノと花嫁』にしてもそうです。以下は『ノケモノ』における主人公イタルと、ヒロインのヒツジちゃんの会話。
 

ヒツジ
交換こにしましょ
私もあなたを「愛してる」って言うわ
だからあなたも私を「愛してる」って言うの
どう?
 
イタル
僕を…
「愛してる」なんて嘘だ
僕は愛されたことなんて一度もない
誰も僕を知らない
誰も僕を愛しようがない
僕は…
 
幾原邦彦,中村明日美子 (2011) 『ノケモノと花嫁』2巻 インデックス・コミュニケーションズ pp 59-61

 ここでの主人公のイタルなんてまさに、「フィオレって、自分を卑下しているところがあるから、あれでは、他人を幸福にすることはできないんじゃないかと、思うよね」という幾原監督の言葉を思いだします。次に主人公イタルと、ヒロインの父 昌午との会話。
 

イタル
お義父さん…!!
お嬢さんをボクにください!!
 
昌午
貴様におとうさんよばわりされる筋合いはない!!
 
イタル
…そうだ
あなたは「お父さん」なんかじゃ…
父親」なんかじゃない
ケモノだ
ケダモノだ
 
昌午
片腹痛い
ケダモノ以下の貴様ごときが私の愛娘と結ばれようなどと
ケモノ…ケダモノ…
そう貴様はそれ以下
ノケモノだ
 
イタル
黙れ!!
 
ノケモノと花嫁』2巻 pp.68-72

 この、パッと見はモテモテのリア充なんだけど、実際蓋を開けてみるとグチグチ悩んでて・・・って所が、実は村上春樹的なのかもなぁ。でも幾原監督はバーチャルスターでアイドルなので結局一回りして普通に格好良い。素敵。
 ・・・ちょっと脱線しました。何かを「与える」には、相手だけではなく、自分も幸福である必要がある、という話です。この考えに則れば、例えばショウマの「罰は僕だけが受けるべきだったんだ」とか、「ヒマリを救えるのは俺しかいない」といって身を削ってしまうカンバとかのメンタリティは、やはり良くないという事になります。相互に幸せである関係を理想としているわけだから、以前の記事(http://d.hatena.ne.jp/samepa/20110914/1315965821)に書いた、「どこまで他者に犠牲を押し付けてまで、自分(達)の幸せを追求しても良いのか」というテーゼも、幾原監督的には本来根本的に否定してしまいたい所なんだろうけど・・・はてさて、キャラ関係がこれだけ泥沼で、下手したら救いのない展開まっ逆さまなピングドラムにおいてその辺どうなるのか・・・。正直言って予想できないでいます。