『Angel Beats!』の主題=「 ? 」 ?

AB!の主題ってなんだろな。僕としてはわりと盲目的に“「リア充orオタ充」という究極の選択”を主題としていると解釈してきてたけど、他の人はどう考えてるんだろ。と思っていろいろ感想サイトめぐってたらドンピシャな記事発見!→『AngelBeats』 岸誠二監督 麻枝准脚本 時間の流れを超えるモノ超えないもの - 物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために
個人的に面白かった部分をご紹介。
「受け手が自由に個々のエピソードを解釈する」場合に、もっとも同時代的にシンクロしやすい解釈のツールは何か?と問えば、そこは、やはり「充実と退屈の問題」のサブの問題系である、「日常と非日常のバランスと接続問題」になるんだと思う(←非常に買ってな決めつけ(笑))。というか、僕には、なんとなーく、そういう物を感じる。というのは、これって日常(=現実)で不幸なことが起きて死んじゃって、非日常(=学園世界)にいるって設定ですよね。つまりは、日常(=現実)に帰りますか?帰りませんか?という問題系になるわけだ。このエピソードを貫くメタな主題が弱いという仮説(少なくとも、僕には積極的な主題を感じませんが・・・皆さんどう思う?)、、、まぁ、これが妥当性がある仮説かどうかは、読んでいる人の感覚にも任せるとして、そうだと仮定すると、現実に帰るべきか(=現実を直視する)という、問題になるわけですよね。
これってリア充問題とか非モテの議論にリンクするので、僕はそのどっちが正しいかはいまはどうでもいいんですが(今回については)、この作品のトータルの評価を決めるための軸が、受け手の感覚や体験に依存してしまう、言い換えれば、その時のパラダイムに参照されて解釈されてしまう・・・・・ということはつまり、時代文脈依存型になります。それって、どれだけ盛り上がっても、リアルタイム性の「その時の感性」に頼っているものということになると思うんです。
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うーむ、コピペする際に読み返していてしみじみ気が合うなぁと思ってしまった(笑)この引用部分に関連付けながら上記サイトのペトロニウスさんという方は、AB!は個々のエピソード単位ではウェルメイドで小奇麗にまとまってんだけど、マクロな視点で見た場合、物語全体を覆うメッセージのようなものがあまり感じられないというようなことを言ってます。確かに僕も見ていて毎回のようにある「泣き話」と全体の話の間で引っかかりを感じていたけど、これはそのへんを上手く突いてる気がする。
さらにペトロニウスさんはそのメッセージの希少性について逆に「個々のエピソードのレベルが高くて、その「全体を束ねる主張(=物語の主題)」が弱い場合は、これって、「受け手がどういう文脈で個々のエピソードを解釈したか?」ってことが・・・・見るとき「正しさ」になる。物語を支配する主題的な支配装置がいないわけだから、解釈の多義性が許されるわけだ。・・・ああ、そういう意味では、現代的な物語なんだなー。それでも、クオリティが保たれるところが、現代のアニメーションの演出力が、「世界の再現」としては高いレベルにあることを示しているんだと思う。」とも言っていますね。
これって前に某アニメーターさんのAB!批判に対して思ったことを書いた記事(http://d.hatena.ne.jp/samepa/20100607/1275869786)でも取り上げた「アニメとかって見る人の熱意次第で好意的にも批判的にも見れるよね」って話しにも関係してくると思うんですが、この問題、ちょうど先日東浩紀の『動物化するポストモダン』読み返していたところ、そのまんま取り上げられておりましたw。同書によれば過去のアニメの作品構造というのは、視聴者が個々の作品を通して、作品の裏にある大きなメッセージを受け取れたのに対して、近年(ポストモダン)でのアニメというのは、個々の作品がデータベースに蓄積された色んな要素の組み合わせで構成されていて、視聴者は好き勝手に要素レベルで作品を楽しんでいる傾向が強いんだそうな(噛み砕いて自分の言葉で説明してるため、うまく要約できてるかは保障しかねますw)。あずまんさんはそんな作品形態の変化を“「ツリー・モデル」から「データベース・モデル」への移行”と説明していて、そのことについて同書内ではネット上の“webページ”を例えに出しながら以下のように説明してます。
インターネットにはむしろ、一方には符号化された情報の集積があり、他方にはユーザーの読み込みに応じて作られた個々のウェブページがある、という別種の二層構造がある。この二層構造が近代のツリー・モデルと大きくことなるのは、そこで、表層に現れた見せかけ(個々のユーザーが目にするページ)を決定する審級が、深層ではなく表層に、つまり、隠れた情報そのものではなく読み込むユーザーの側にあるという点である。近代のツリー型世界では表層は深層により決定されていたが、ポストモダンのデータベース型世界では、表層は深層だけでは決定されず、その読み込み次第でいくらでも異なった表情を表す。
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ペトロニウスさんの言ってることってまさにこのあたりの議論を踏まえてのことだと思うんですが、ペトロニウスさんはそのへんひっくるめて
感性という言葉は定義不明で僕はよく使いますが、、、、うんとねーようは、ここでいうのは、主題となる個々のエピソードを解釈するメタな「物語の言いたいこと」がないモノという意味で今回は使っています。つまり感性のモノってのは、「時代の文脈性」…受け手のその時の「感情」にリンクしているんですよね。どういうことかわかりますか?、見る「時」が違えば、解釈が簡単に変わって変動してしまうモノ、なんですよ。
それって、、、、、僕のような古典主義的な・・・・確固とした骨太の「言いたいこと」がうざいほどはっきりしているやつが好き!という人には、一時の消費するモノとして以外は、価値を持たないんですよ。もちろん個々のエピソードに対する偏愛や、こうした「報われなさ」の数字のバランスが崩れているその危うさにこそ物語の美しさを感じる人にとっては、最高の作品と感じる可能性はありますが、、、少なくとも僕は、「もう一度は見ないな」と思うのです。なぜならば、この作品を通して感じるメッセージが、毎回ぶれるし、リアルタイムの「お祭り性」が失われれれば、時代との即応性を失うのでさらに主題がぶれる。。。。なら、もう一度見なくてもいいや、似た作品の「次のモノ」を見ればいいやーと思うのです。

逆に言うと、「時代との即応性を失った」場合には、逆に、個々の受け手の感情とうまく繊細に響き合うセンシティヴな作品であるのかもしれない・・・。
というように言ってます。大方褒めつつも、最終的には根本の部分で自分の感性には合わない、と言ってるわけですね〜。この不満もよくわかります。AB!のこの点に関してはこの前公開された『涼宮ハルヒの消失』なんかが好対照だと思うんですが。あっちは「日常と非日常のバランスと接続問題」に対してきっちり「確固とした骨太の「言いたいこと」がうざいほどはっきりして」いて、見終えてから凄いスッキリしましたもん(笑)まあ、AB!はまだ最終話を残してるんで、最後のどんでん返しで暑苦しいくらいのメッセージがあってもおかしくないかも?とにかく最終話期待。