『ダークナイト ライジング』ネタバレ感想(その2):「RISES」の名に偽りなし!

二回目観てきました(今度は吹き替え版で)。
やはり、酷評するには面白すぎる!
初見時に物凄い重要ポイントを見落としていたので、今回はそこを重点的に書きます。大まかに言うと、バットマンのヒーロー性についてと、ブレイク=ロビンの終盤の描かれ方の二点。
 
前回、今作は映画として“「希望を持つこと」を肯定的に描いている”と書きました。

映画としてはどうも「希望を持つこと」は肯定しているんですが(ウェインがロッククライミングをするシーンの「バサラバサラデシデシ!」や、核爆発直前にバス内に子供達を避難させるシーン等から)。希望の拠り所となるのが結局の所「バットマン」というのが、「ヒーローモノ」というジャンルとして直球ど真ん中を投げられた感はありますね。『真の「バットマン」はみんなの心の中にいるんだよ!』というのが精一杯のひねりだったのかも。

『ダークナイト ライジング』ネタバレ感想:本当に、壮絶に、終わったwww - さめたパスタとぬるいコーラ

読み返すとマヌケなニアミスしてますねぇ!
観返してみて、この映画は「希望を持つこと」を肯定しているのではなく、「希望を持たせること」の崇高さ=ヒーロー最高!という事を高らかに謳っていたのだと思わされました。
バットマンはゴードンに、「誰でもバットマンになれる。例えば傷ついた子供にコートを優しくかけてやる行為が云々」と説きます。絶望の中にある人に希望の光を与えられる者こそバットマン=ヒーローなのだ、というのが今作の肝です。ベインの改革でしっちゃかめっちゃかになったゴッサムバットマンが帰還した際、ビルの壁面に真っ赤なバットマークが灯されますが、それもバットマンのヒーロー性を象徴する一幕です。
今作でバットマンに感化されるキャラクターは、ざっくり言って警察の副本部長、セリーナ・カイル=キャットウーマン、ブレイクの三人でしょう。
副本部長とセリーナは基本的に自己中心的に描かれていて、特に副本部長はどうしようもなくダメなやつとして描かれます。しかし副本部長はビルの壁面に浮かび上がったバットマークを見て、心を動かされるわけですよね。また、セリーナは自己中心的な所がありながら、世の不平等を憎む義賊的な側面も強調されています。ウェインは彼女のそうした善性に訴えかけるのですね。
そして、今作を代表する自己中心的キャラ二名を改心させてしまうだけのカリスマ性を、街全体に刻み込んだ象徴的な出来事が、最後の自己犠牲なのです。バットマンは『ビギンズ』で悪人を震え上がらせる恐怖の象徴になることを決意し、前作『ダークナイト』では「闇の騎士」として罪をかぶる役に徹しました。そして最終章となる『ライジング』で、ついに皆の希望の象徴=ヒーローとなったのです。

追記(8月15日):本作は上記のような「バットマン伝説最終章」であるのと同時に、「ブルース・ウェイン(個人の)物語」の完結編という側面もあります。僕の感想ではその部分がごっそり抜け落ちていたので、補足として以下にRootportさんの記事を引用させてもらいます。

普通の英雄譚なら、主人公は地の底で神秘的な力を手に入れて、ときには人間離れした存在として復活する。ところがブルース・ウェインの場合は真逆の変化を遂げる。「人間離れした狂気の存在」から、「死を恐れる普通の人間」へと成長する。そう、彼にとっての「成長」とは、どこにでもいる一人の男になることなのだ。執事のアルフレッドから何度も指摘されていたように。

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ブルース・ウェインは、『アルマゲドン』のブルース・ウィリスのようなヒーローではない。決死の覚悟で飛び立ったものの、ちゃっかり自動運転に切り替えて脱出してしまう。そういう男なのだ。

そうでなくては、と思う。

自分の命を簡単に捨てるのが「ヒーロー」だとしたら、ヒーローになれるのは一部の自殺願望者だけだ。これからの時代は、そうではない。死ぬのが怖くて一人では何もできない:そういうごく普通の人間たちがヒーローになっていく。

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バットマンというキャラクターは原作コミックやバートン版の時代からある種の狂気を孕んだキャラクターとして描かれたてきたわけですが、本作のブルース・ウェインはそうした狂気から抜け出すことに成功しているのですよね。

 
また、初見時ではブレイクの橋でのシーンを大きく見誤りました。ブレイクは台詞でおもいっきり「希望を持たせることが大事なんだ」とまで言っているのに、ゴードンとのやりとりの中にあった、「法律のしがらみを実感する時がお前にも来るだろう云々」の部分にとらわれすぎました。「しがらみを感じさせる」にしてはあまりにもノータリンなシチュエーションだなぁくらいに思っていたのです。
しかしこの場面では「しがらみを感じた」ことではなく、「しがらみを感じ、どうしようもなくなったときにどう動いたのか」が重要だったのですね。
しがらみのせいで橋を渡ることができなくなってしまったときに、無駄だと分かっていてもなお、子供達に希望を残そうと動いた。そんなブレイクのヒーローとしての資質を描いたことが、あのシーンの目的だった。
 
話を少し戻して、「希望を持たせること」を初見時に理解しそこねた理由についての言い訳を少し…w
初見時には
ベイン(≒タリア)の思想への対案として「希望を持つこと」が提示されている?
と受け取ってしまったのですが、どうもしっくり来ませんでした。それもそのはず、
ゴッサムが堕落している!→破滅的な事件で目を覚まさせてやろう!/堕落してることを証明してやろう!」的言説に対してブルースは『ビギンズ』から一貫して、
「うるせーバカ!善良なるゴッサム市民を信じろこのタコ!」
という答えに終始していたのです。そして今回ベイン&タリアがやったことと言えば、なんちゃって革命を利用してゴッサムの堕落がどうしようもない段階に来ていることを証明し、全てぶっ壊そうとすること。言わば前二作の主な悪行の合わせ技です。これに対し、バットマンはこれまでと変わらず街を救ってくれるのです。
対して、「希望を持つこと」、もとい「希望を持たせること」は、確かに作品の核心部分ではあったのですが、ベイン達の思想への対案というよりは、「ダークナイト・サーガ」の総決算としての意味合いの方が強かった、ということだと思います。作品としてどこに比重が置かれているのか、初見でうまくピントを合わせられなかったことは反省したいですね。
 
それから最後に、今作の欠点について。
既に散々言われていることですが、今作の欠点として「一般市民が描かれていない」ことが挙げられます。「市民の描かれなさ」は一貫していて、ベインの改革前と後の両方に言えます。映画としては、ベインの改革の必要性を強調しておくためにも、暴動の前に困窮した街の姿を映しておかなければいけなかったはずです。ところが実際に描かれているのはせいぜいホームレスの少年が一人死んだことや、セリーナが格差社会に漠然と不平を言っていることくらい。これなら『ビギンズ』のほうがよっぽど街のダメな所を描いていた気がします。
そしてベインの改革後では特に、一般市民の描きが少なすぎるように感じました。たしかに金持ちを襲う民衆の姿が少しばかり描かれますが、それだけ。せっかく街がこの上ない異常状態に置かれたのに、とにかく描き方が雑です。この手の思考実験としては『パトレイバー2』は本当に優れていたのだなと、改めて思わされました。
しかしその辺がしっかり描かれなかった理由は単純で、ノーランがそこにあまり興味が無かったからではないかと思います。一見すると現実社会の風刺が云々言いたくなるのは確かなんですが、この映画での焦点はあくまで「ヒーローとしてのバットマンの誕生」であって、その他はあくまで映画に広がりを持たせるための装飾程度だったのではないかと。
 
…しかし中盤までの完成度はやはり非常に高い!ですよ。ベインがゴッサム中を爆破しまくるあたりまでは特に素晴らしいです。「市民の描かれなさ」も、その時点ではまだまだ挽回可能と思わせるし。中盤から終盤にかけて、バットマンのヒーロー譚に持っていく部分はわりと強引ですが、ドラマをバットマンにググっと集約していくのは三部作の締めくくりとして正しい気はします。
 
そういえば、そもそもブレイクを橋に向かわせたのは当のバットマンなんですよね。大した策も与えず、とにかく住民を逃がせと伝えたのは、もしかしたらそこで挫折させ、それでもなお「希望を持たせる者」になれるのか、試練を与えたかったからなのかも。
とにかく、二回目の鑑賞ではブレイクの「バットマンを継ぐ正当性」がより理解できていたので、ラストシーンのカタルシスが格段に膨らみました。
エンタメ性がどこもかしこも高いので、観ていてとにかく気持良いんですよね。近い内に三回目を観てこようと思います。バサラバサラデシデシ!