神山版『009』感想:「お客様は神様です」

本日『009 RE:CYBORG』を見てきた。実は先月の19日に先行上映で一度見ていたので、見るのはこれが二回目。ぶっちゃけ主目的は本日より上映が開始された『エヴァQ』の新予告を見ることで*1、『009』に関しては初見では見落としていた部分を復習するくらいの気持ちでいた。が、思っていた以上に『009』が面白かった。
※途中から本編知識前提のネタバレ感想になりますが、ネタバレの前に注記しています

公式サイト:PH9 神山健治監督作品(最新作『009 RE-CYBORG』)
 
二度目の鑑賞だというのに「予想外に面白かった」というのはいささか変な体験だ。だが、とにかく二度目に観たときのほうが面白かった。「攻殻SAC」ではお馴染みの「水は低きに流れる」という命題に対する新たなアプローチも見られて、これまでの集大成のような作品だった。
初見時の印象は可もなく不可もなく、といったものだった。ただ、それは内容をあまり理解できていなかった自分のせいでもあったようだ。
全編3DCG映像に関しては目を見張るものがある。細かな表情の芝居などにはまだまだ改善の余地がありそうだったが、アクションはひたすら派手だし、凝ったカメラワークも3DCGならではだった。アクションのシチュも盛りだくさんで、それだけを楽しみに観ても一定の満足感はある。3D映像の見せ方も考えて作られているので、まだ見ていないひとには是非3D上映版をおすすめしたい。

 
僕が神山版『009』の製作発表と同時に思ったのは、神山健治が“009”をネタに、SAC風社会派アクションをやるつもりなんだな」「そして押井監督に3D映画のテストケースとして見られているのでは?」といったことだった。これは前半部分に関しては当たっている部分もあるのだが、後半は外れだったようだ。誤解は本作の企画経緯を知ることで解けた。
 
僕は原作版『009』読者ではなかったので「天使編」「神々の戦い編」についてはあまり知らなかった。石ノ森章太郎がストーリーに天使やら神やらを登場させ、抽象的な展開にしていったことくらいは知っていたが。何よりも知る由もなかったのが、問題の本作の企画経緯についてである。『009』は元々押井守が監督する予定だったようで、脚本はもともと「押井のため」に、神山が執筆したものなのだそうだ。
アニメスタイル 002」でのインタビューによると、神山は押井に宛てたラブレターのつもりで脚本を書き上げたそうなのだが、そうした神山の想いは伝わらず、押井は作家性追求のため「001は犬にしよう」、「フランソワーズは58歳にしよう」、「その他のサイボーグ戦士とギルモア博士は死んだことにしよう」等々、とてもではないがスポンサーが首を縦に振りそうにない代案を次々出してきた。そんなこともあり、最終的に神山が監督・脚本をつとめることになったのだ。本作に「天使の化石」「謎の少女」「聖書の引用」など押井的な要素が散りばめられているのは、そんな経緯があったからだ。
 
では、こうした原作/押井的モチーフが本編にどう活かされているかというと、初見時、僕はてっきり「社会派アクション」を引き立てる「装飾」と解釈していた。原作要素を入れることで原作ファンのご機嫌を伺いつつ、押井要素もオマージュとして散りばめ、お得意の社会派アクションでそれっぽく見せるという程度の意味合いであろうと。
全ては、「神山は押井のテストケースのため利用されている=この『009』は習作的意味合いがある=全力投球ではない」と、勝手に思い込んでいたためだ。
結果からいうと、神山版『009』は紛れもない全力投球であり、当初の思いこみは無礼なものだったと認めざるを得ない(神山監督ごめんなさい)。*2
 
面白いのは、押井版『009』が頓挫したことにより、元々「3D推進派」だった押井の考えが、「慎重派」に傾いたらしい点だ。これは押井版が設定面だけでなく、演出面・技術面で3DCGならではの困難に直面していたことが関係している。その辺詳しくは「アニメスタイル」の神山インタビューなどで確認してもらうとして……。

押井監督は先日『ガルム戦記』の製作再開が発表されましたね。15年ごしの映画化とは……。画像は『攻殻2.0』より。
『ガルム戦記』が“The Last Druid: Garm Wars”として復活。押井守が監督、英語の実写映画として制作 - 押井守 情報サイト 野良犬の塒

 
遠回りしたが、原作/押井的モチーフが何に活かされたについての話に戻る。
※そろそろネタバレのオンパレードなので、本編未見の方は気をつけてください
 
 
 
 
※ここからネタバレ※
あらためて本作を観て、原作要素と押井的要素は攻殻2ndGIG』でお馴染みの「水は低きに流れる」という問題意識と主人公島村ジョーを対峙させるための装置であるように感じた。社会派アクションを引き立たせるためのスパイスというレベルではなく、よりテーマの根幹につなげる装置だったのである。
作中で描かれるのは、「彼の声」により「スタンドアローンコンプレックス」っぽい事案が発生している世界だ。「彼の声」に従って行動する人々は「笑い男」のような青臭い正義をさらに飛躍させたような、「人類を一旦滅ぼすべき」という極端な終末思想で動いている。そして「彼の声」を聞くための引き金となる(ことがある)のが、「天使の化石」だ。

 
前提となる知識の確認のため、一旦ここで「彼の声」と「天使の化石」について、パンフレットから監督の解説を引用する。

神山 今回はまず宗教――というか、神という概念が生まれる過程を想定してみたんです。太古に突然変異で本当に翼を持った人物がいたのか、あるいはああいう格好をした人がいたのか、いずれにせよそういう存在がまずいて、それを崇めた人がいたのではないかと。そして天使が正義をなそうとして討ち死にした姿を見ることで、人々は人間には神が必要である、というメッセージを受け取った。それが神の概念を脳に宿らせることに繋がり、実はその概念を思いつくことができた脳こそが神自身ではないか、と。(中略)
「神」を内包する脳を持つことと、時にその神に異議申立てをする天使のような捨て石たらんとする存在が、互いが互いを生み出しながら続いていく、そういう連鎖こそ、「神」の求めた人間像なのではないか。言葉にするとチープにはなってしまうけれど、その連鎖の運動の中にこそ、今の時代における人類共通の「正義」というものが潜んでいるように思うんです。
 
パンフレット p.35

 
こうした内容については劇中でも、神の誕生についてはハインリヒが、天使についてはフランソワーズが言及している。初見では情報量が多くて混乱するかもしれないが、語られる内容は殆ど神山監督のインタビューそのままである。
 
映画のクライマックスにおいて、ジョーは

ジョー 確かにヒトは集団として集まると堕落するが、一人ひとりは驚くべきポテンシャルを秘めている。その中でも俺達は超頑張ってるのに、そうした頑張りを無碍にしてしまうなんてあんまりじゃないか!神よ!(どかーん)
※曖昧な記憶に基づく要約

 
と叫び、自己犠牲的な最期を遂げる。これについて、神山監督が丁寧にネタバレ解説をしてくれている。
 

今までの理屈でいけば、自分の脳に語りかけているわけですよね。どこにもいない神様に対して語りかけている。ただ、やはりあれは映画として、お客さんに「こう考えてほしい」ということを登場人物のパフォーマンスを通して伝えるという構造になっている。だから、別に宇宙に神がいるわけでもないし、ジョーの訴えを聞いた神様が「分かった。お前の願いを聞いてやろう」と思ったわけでもない。しかも、その行為は大気圏外で行われていて、人類は誰ひとりとして彼が成した行為を知らない。ただ、誰も見ていなかったとしても、その思いや行動の尊さは伝播するはずだというか、映画ってそういうものを長年描いてきたメディアだと僕は思うんです。そういう思いを込めたクライマックスなんです。
アニメスタイル 002」p.27

アニメスタイル 002 (メディアパルムック)

アニメスタイル 002 (メディアパルムック)

 
このようにジョーは「神よ!」と地球に向かって叫ぶが、あそこでの「神」とは「脳内に宿る神」なので、実質独り言のようなものとも言える。しかしジョーは爆発に飲み込まれる直前、崇高な理念だけは何らかの形で伝播するはずだと信じてもいる。
「神」と呼ばれるものは、「=特定状況下に置かれれば誰の脳にでも宿り得る(正義にも悪にもなり得る)もの」である。よってジョーが語りかけているのは、
神≒ジョーの脳内の神≒正義が伝播した先にある神≒(ジョーの眼下に広がる)地球に住む、将来「神」となる可能性のある人々(の脳)
であるとも言える。「地球に住む人々」というのには、将来生まれて来る人達も含めてだろうか。いずれにせよ凄いスケールだ。
 
ここで活きるのが、「天使の化石」というガジェットである。「天使の化石」が「ホンモノ」であるかどうかの確たる証拠は無いが、劇中でヒトはそれに準ずるものに出会った際、「彼の声」が聞こえるようになるとされている。宗教的な修行をつんでいたり、レーサーがゾーンに入った感覚や、サイボーグのようにチューンアップされた脳などを持ってさえいれば、「天使の化石」に準ずるものに触れたとき、条件が満たされたことになるというのだ。繰り返すが、これはつまり、“全ての人々”に「彼の声」を聞く因子は備わっているということでもある。
当然、作中では「ジョーの眼下に広がる生きとし生ける全ての人々」に向けられたメッセージの矛先は、劇場で映画を観る観客にも向けられたものとも解釈できる。
神山監督はさきほど引用した「アニメスタイル002」のインタビューにおいても同様のことを言っていたように思うが、やはり言葉で説明されるのと映画として体感するのとではインパクトが違う。
 
僕は『攻殻機動隊SSS』が眠たかったし『東のエデン』の劇場版2作も好きではなく、神山監督はテレビシリーズなら面白いものが作れるが、面白い映画は撮れない人なのではないかと疑い始めていたのだが、今日はその疑念が晴れてとても嬉しい。
 
神山監督には「正義は伝播しない」し、「伝わっていくのは悪意だけ」という実感(「アニメスタイル 002」p.27)があるそうだ。この考えはまさしく『攻殻2ndGIG』の「人は低きに流れる」というクゼの台詞に現れている。だが、神山版『009』は
それでも「ヒーロー」をやろうとする者はいないのか!?
という勧誘だ。大の大人が真顔で「ヒーローになろう!」と、宇宙で踊ってみせた。トグサのような恥ずかしいほどの青臭さだが、その心意気に感銘を受けた。
 
 
ラストの「水の都」に関しては色々な解釈が有り得るだろう。
個人的には『トップをねらえ!』の、「ごめんキミコ、もう逢えない!」/「ママ、どうしたの?」「え?……なんでもないのよ。ちょっとね、ノリコが呼んだような気がしたの」の場面を連想した。

トップをねらえ!』屈指の名シーン
 
「彼の声」をジョーのように感じ取ることができれば、その全員が脳内世界で邂逅できるのではないか*3。そう解釈すると、あれは他のゼロゼロナンバー達が「彼の声」を再解釈できた瞬間で、あの不思議な空間での場面はその刹那を描いていたことになる。
あの空間ではジェット、グレートブリテン、ピュンマが「海」の側にいて、ギルモア博士達が砂浜の方にいるというなんとも「彼岸」的な雰囲気で描かれ、最後にジェット達はギルモア博士達と何やら和解した形で、「海」から「砂浜」へと上陸する。皆そろってヒーロー精神を完璧に取り戻したという意味だろうか。
 
デザイン面ではクリストファー・ノーランの『インセプション』からインスピレーションを受けているようにも感じた。神山健治は最近いくつかのインタビューで、「現在ノーランを最も理解できているのは自分だ!」的なことを語っていて、『ダークナイト』『ダークナイトライジング』についても、「正義は悪と違って伝播しにくい」という文脈で解釈した上で、「今、世界で一番語り合いたい相手はノーランですね」(「アニメスタイル 002」p.28)と言っていたりする。

インセプション』の主人公と鬼嫁の脳内空間
 
 
神山監督は『攻殻SAC(1期)』が上手く行きかけていた時期に、「『イノセンス』があるんで^^」と、信頼していた制作者仲間が出ていってしまったのを引きずっているようで、実はそれが『攻殻2ndGIG』の「水は低きに流れる」につながっていたりするそうだが、この後ニヒリズムに行きそうなところを踏ん張るのがえらい。

『009』はそれが顕著で、本作はニヒリズムを良しとしない。「彼の声」によってテロを起す人達も、必ずしも「低きに流れている」ように描かれない。「衆愚」が「低きに流れる」のに絶望した人達……と要約するとまさにニヒリズムのようだが、「人類をリセットすべき」という「間違った正義」(と、ジョーは爆心地から脱出する際に確信している)に陥るのも、正義への渇望が強かった裏返しである。
ラストにダメ元で観客全員に語りかける姿勢もそうだが、これはある意味、人々全てを「ヒーローの因子を持つ者」として認めることでもある。そしてそれは、「分かる人にだけ分かれば良い」という自己満足型な映画とは似て非なるもので、むしろ「分からないかもしれないけど、とりあえず聞いてくれ」というのは、島本和彦的な熱血であるとさえいえる。
 
最後に、主人公らの生死について触れたい。グレートブリテンは調査中に「謎の少女(=天使)」を見て「彼の声」に目覚め、車の前に飛び出し無意識に自殺(?)を図っているし、ピュンマは新たな「天使の化石」を発見したことで「彼の声」を聞き、失踪してしまっている。ジェットは成層圏からバラバラになりながら地上に落ちていったし、ジョーに至っては核爆発に巻き込まれている……。普通に考えれば死んでいる。
 
しかし元も子もないことを言えば、映画とは結局のところ虚構であり、監督を始めとするスタッフ方の脳みそから生み出されたものである。いくら設定に無理があろうと、製作側がGOを出せば続編は作れてしまう。よって、ラスト付近でフランソワーズは夜空に二筋の流れ星を見るが、我々観客があの星にお願いをするなり、ジョーや神山に共感して映画が(興行的に!)成功するなりすれば、続編製作が決定して全員生き返るんじゃないかな。
これは投げやりに言っているのではなく、映画が共感を呼び、正義が観客へと伝播すれば(興行的成功がバロメーターなのが悲しいが)、製作委員会の人達の脳までが感化され、次回作は「水の都」のシーンのごとく「彼の声」がなんとかしてくれるはずだ。たぶん。
 
 
ここまで一方的に褒めまくったが、欠点がない映画ではない。主人公の謎のガールフレンド・トモエについてはもう少し正体を分かりやすくするなり、マクガフィンとして上手に使うなりでいた気がする。正直2回見てもフランソワーズが作り出してくれた幻覚だったのを理解するのに苦労した。トモエの姿だけガラスに反射してない演出や、不自然にカメラに映らない演出も良いが、もっと早くフォロー説明がほしい。明らかに万人受けする作品ではない……万人受けする作品ではないが、嫌いになれない不思議な力のある作品だ。
  
極限まで圧縮要約すると、「続編希望」、ということになる。ちなみに神山監督自身、パンフのインタビューで「『神』という大きなテーマを終えたあとだからこそ、やってみたいテーマ」があると語っていた。「水は低きに流れる」というテーマは今回で昇華された感があるので、また新しい切り口に挑む神山作品を楽しみに待ちたい。
 
 
P.S.
天使ちゃんマジ天使!……だったけど、もし喋っていれば声は家弓家正榊原良子になりそう

 
P.S.その2
今日見た劇場では本編が始まる前、ペプシネックスの以下のCMが流れた。

「本編よりも手描きと見分けつかない!!!」と唸ったが、帰ってきて再度見てみたらどうやらこのCMだけ手描きによる作画のようだった(他のCMは3DCG)。もしくは作画とCGのハイブリッドで作ってる?とにかく手書きアニメーターの意地を見た気がした。
↓こちらは3DCGで制作されたもの。よくできてはいるが、上のCMと並べると印象がまた別。内容の山なし落ちなし意味なしっぷりはどちらも凄い。
【2020年4月28日再追記:あらためて見ると、非常によくできているけどここも3Dな気もする。検索してみたらCM制作にも携わったというスタッフのインタビューを見つけた。】

 
最初に紹介したCMは、最後の「全員集合」がTV版『エヴァ』の「おめでとう」と神山版『009』ラストを足してペプシで割ったような絵面でなんだか面白かった。

のんだあとはリサイクル!(リ:サイボーグだけに)

【2020年4月28日追記】お気に入りの記事ながら、拙い部分が多かったため本文を一部修正。修正前のものは一応インターネットアーカイブに残した】

*1:エヴァQ』の新予告はこれまでの「ピアノ予告」や、おとなしい内容だった「ニコニコ動画版予告」の鬱憤を晴らしてくれる素晴らしいもので大変満足しました。

*2:そんな思い込みをしたのは、押井監督が『攻殻機動隊2.0』でやたらCGを使っていたからだ。あれを見れば、「押井は今回『009』で得られたノウハウを活かし、『攻殻3』を作ることを目論んでいるのでは?」と、邪推するのも無理はないだろう。企画経緯を見る限り、結局それは大はずれだったようだが。

*3:そういえば『魔人探偵脳噛ネウロ』の「電人HAL編」のHALの最期もそんな感じだった。