『ピングドラム』と『エアマスター』の共通点=普遍性

※注意 本エントリーには輪るピングドラムエアマスターオチあたりの展開に関する私的解釈が多分に含まれております。作品未見の方にはネタバレはもとより変な先入観などを与える恐れがありますので各自判断してもらった上で読んで頂けると幸いです。
最初に断っておきますけど、サネトシ先生坂本ジュリエッタを比較して何かをこじらせちゃった系男子について考察を試みるエントリーではないです。
 
輪るピングドラム』の美点に、サネトシのたくらみを阻止したところで「こどもブロイラー」的なものがなくなるでもなく、運命の乗り換えをしたところで夢のように住みやすい場所に行けるわけでもない…といった、実在する問題に対して無責任な解決案を提示するくらいならリアリスティックであろうとする、堅実な眼差しがあったと思います。これは一見するとドライな態度とも取れますが、僕はそれでも、最終回で宮沢賢治を引用する小学生達が出てきたところで非常に救いを感じました。

ピングドラム」では社会に存在する歪みのようなものが描かれていたにも関わらず、作中で変化があったのは基本的に登場人物の内面や、彼らの関係性のほうであって、社会自体に何か根本的な変化があったようには見えませんでした。最終的に高倉家の三人やその周囲の人々が獲得できたものは、思いやりが円環を描いたような、ひととひととの関係性だったように思います。それはともすると、「選ばれた」ひとたちにしか救いが訪れない夢のない話になってしまいますが、しかしそれでも、あの小学生達が物語の最初と最後に配置されていたことで、それ以外の人達に向けた希望が保留されたように感じられました。
 
あの小学生達はピングドラムの世界にも現実の世界にも存在するものとして描かれたように思うのです。あの小学生達は見知らぬ少年達かもしれないし、カンバやショウマかもしれないし、私やあなたかもしれない。そうやって考えると、同じように高倉家の人々を中心とした物語も、私の物語にもなり得るし、あなたの物語にもなり得るのではないか、ということです。

 
輪るピングドラム』の最終回に対してはずっとこんなような感想を持っていて、多分以前も似たようなことを書いていたと思いますけど。このことについて思い返していたら、ふと柴田ヨクサルの『エアマスターのことを思い出しました。

エアマスター 1 (ジェッツコミックス)

エアマスター 1 (ジェッツコミックス)

 
なぜこれまで比較対象として思いつかなかったのかわかりませんが、『エアマスター』最終回の読後感には『輪るピングドラム』のラストに通ずるものを感じるんですよね。勿論そこに至るまでのアプローチや主題は大分違うはずですけど。

エアマスター』は運動能力抜群な女子高生、マキの物語です。
彼女は元々体操の選手だったんですが、母親が死んだショックで競技をやめてしまいます。そんな彼女が出会ったのが「ストリートファイト」。彼女はどんどんストリートファイトの世界にのめり込んで行きます。
はじめの内は選手時代の高揚感を追体験するためにファイトに興じていた彼女ですが、次第に内なる戦闘衝動に目覚めていき、心の中に住まう化け物「エアマスター」の存在に苦悩していくことになります。どう見ても中二病ですほんとうにありがとうございました。
さらにざっくりとネタバレすると、最終的には自身の戦闘狂=「エアマスター」な部分を自己肯定し、それでも自分の周りに居てくれる友達たちの尊さを噛み締めてハッピーエンド…みたいな感じになるんですけども。
 
こうしてみると他者との関係性に軸を置いた『輪るピングドラム』に比べ、『エアマスター』は(友人関係も確かに描かれるんですが)やや主人公個人の内面の方に向かっていく作品だった気がします(特に終盤)。そんな対照的にも見える両作ですが、興味深いことに、エアマスター』にも『輪るピングドラム』同様、最終回で「匿名の小学生」が出てきます。
 
小学生の場面を説明する前にまず前提となるシーンがありますので、先にそちらの場面を紹介します。
簡単に背景を説明しますと、『エアマスター』の終盤はドラゴンボール』ばりのバトルインフレが起こっていまして、これはそんな超人スーパーバトルな日々を乗り越えた主人公のマキが、自分の内面の整理をかねて、物知りお兄さんポジションの深道というキャラに人生相談している場面です。
 

マキ 私はこの世界でどのポジションにいる?
深道 荒い…質問だな でも言いたいことは分かるし 俺には答えられる
マキ じゃあ教えてくれ ウルサイのを一発
(中略)


深道 人生の流れに 今 点を打てば お前は女子高生だ
   昔の自分の姿が見たいなら どこでもいい 街中でもテレビの中でも
   子供が映ったら それがおまえだ
マキ いつもながら…よくわからないな
深道 自分の老いた姿が見たいなら 老いた先輩方を見ろ それがおまえだ
   これが人間の流れだ
マキ むずかしいな
深道 そして おまえはただのストリートファイター
   「ただ」は「ただ」でも
   ただの最強のストリートファイター
   エアマスター

エアマスター』 28巻 第228話(pp.188-199)より


このやりとりの後、なんやかんやがあって、次の日の朝。
登校途中、公園でぼーっとしているマキ。表面的には前日の夜、作中きっての変態キャラ(上の画像で蹴り飛ばされてるヤツ。一応マキとは相思相愛。)に無理矢理押し倒されたことのショックを引きずってるように見えますが、心の底では深道に投げかけた質問に通ずる、以前から抱えている自意識のグズグズした部分でまだ悩んでいるように見えます。
そんなマキがふと前方を見ると、うつむきながら公園の遊具の周りをぐるぐると行ったり来たりしてる小学生の女の子が(学校に行きたくないのでしょうか)。そんな女の子に「学校おくれるよ」と話しかけるマキ。目が合ったところで、「わ… 私だ」と、何かを悟ります。



マキ 学校おくれるよ
   (わ… 私だ)
女の子 おまえもおくれるぞ
マキ ……そーだね
   あなたに会えて一瞬で元気でちゃった ありがとう
   じゃあね
女の子 すっ すっ すごいおねえちゃんだ!!!!
エアマスター』 28巻 第228話(pp.213-215)より

次のページでは女の子から向けられた尊敬の眼差しを背に、満面の笑みで走り去るマキの姿が描かれ、作品に幕が下ろされます。

エアマスター 28 (ジェッツコミックス)

エアマスター 28 (ジェッツコミックス)

 
ひとはある意味では何者でもない(「ただ」の人間だ)し、ある意味では唯一無二の存在でもある。そう考えれば歳の離れた他人を見たときに、そこに自分の一側面を見て取ることもできる(=相対的に自分の存在を測ることができる)。…僕はそんな感じで深道の言葉を理解しました。
そうした言葉を受けて、マキは赤の他人の小学生に自分自身の面影を見つけたとき、思春期的な自意識の重圧から開放されたように見えました。ここまで紹介してきたのは最終回での一幕ですが、マキは最終回に至る前に、既に自身の中に存在する戦闘狂な部分(=「エアマスター」)と共に生きていこうと決意しています。しかしこの「重々しい決断」に、まだ心のどこかで不安を感じていたのでしょう。そんな悩みへの見切りをつけるきっかけとなったのが、あの小学生の女の子との出会いだったはずです。マキにとってはそれまで抱えていた「悩み」が相対化されて、自分の事が客観視できた瞬間だったのではないかと思います。
悩みから吹っ切れたマキが公園から走り去りますが、その背を見て、さっきまで下を向いていた女の子まで笑顔になっているのがなんとも感動的です。深道の言葉を念頭に女の子視点で考えてみると、彼女は「すごいおねえちゃん」に自分自身の可能性を(無意識に)投影しているとも取れます。女の子がこの出会いをきっかけに体操仕込みの跳躍を目指すようになるとかそういうことではなく、「“学校おくれるよ”とニッコリ小学生に語りかける」姿勢であったり、「アホでも(マキはアホの子な設定)笑顔で友達に会いに学校に駆けてく」姿勢であったり…そこでそうしたポジティブな気持ちを伝達されたということです。

 
小学生の女の子はあくまでも他人ですが、彼女の学校に行きたくなさそうな感じには、漫画を読んでいて自然な共感を覚えました。「学校に行きたくない」原因としてはマキのような思春期特有の自意識の問題や恋の悩み以外にも、友人関係の問題だったり、宿題をやってないせいだったり、いじめだったり…と様々なケースが想定できます。マキは女の子を見て、誰でも何かしらの悩みを抱えているのだと気づき、自分の悩みに深刻になり過ぎる必要は無いと思えたのではないでしょうか。
そう考えると、やはりマキの最後の笑顔は「成長」を表しているように感じます。
 
 
狭義な見方をすれば『輪るピングドラム』はひととひとの関係性の物語で、『エアマスター』は主人公の成長物語だったと言えるでしょう。『輪るピングドラム』において、小学生達は物語に普遍性を持たせるための舞台装置的な役割を担っているように感じましたが、『エアマスター』における小学生の女の子もまた、価値観の普遍化のための装置として置かれていたように思います。後者の場合は主人公の(そして読者の)価値観を普遍化させるための装置であり、前者に比べて抽象度は低かったのかなとも思いますが。
ただ、どちらの作品でも、「私の物語にもなり得る」と感じさせられたところに、なにか通ずるものを感じたのでした。