ニコ生PLANETSのピングドラム語り

前回宇野氏のピングドラム批評ツイートを見て重箱の隅をつつくようなツンツンなエントリーを書いてしまったので、今回は少しデレて、「ニコ生PLANETS」で行われたピング語りをまとめてみました。かなり長いエントリーとなってしまいましたが、正確な文字おこしということではなく、個人的に興味を持った範囲に重点を置いてまとめてます。なので端折っている部分もありますので、その辺は注意して読んでください。……というか、実際の放送のアーカイブが残っているので、放送を見てない人は先にそちらを見てもらった方が良いのかもしれません。

ちなみにタイムシフト再生で元の動画もまだ見れますね。現在コメント数は圧倒的にタイムシフトのほうが多いので、タイムシフトで見たいという人は是非。

ニコ生PLANETS2月号「徹底評論!輪るピングドラム」 - 2012/01/18 20:00開始 - ニコニコ生放送

 
今回は、今後ピングドラムについて考えるにあたって、「あんな意見もあったな」と、個人的な備考録の意味合いで書き起こした部分が大きいです。文字情報の方が見返しやすいですし。ただ、当初はもっとざっくりしたまとめを予定していたのに、どれもこれもカバーしようとしたら結局まとまらなくなり、結果として長くなってしまった形です。おかげで文体が統一されてない部分などもありますが、ご容赦願いたいです。あと、最後に自分のちょっとした感想も添えました。
 
 
■『ウテナ』と『ピングドラム』 / 榎戸洋司幾原邦彦
坂上:ウテナとピンドラは世界に対する距離感が異なっている。幾原は時代の空気を捉えるのがうまい。
ウテナでは箱庭みたいなものがあって、その外側にまた別の世界が広がっているというイメージがあったが、ピンドラはそれがなくなってる。ウテナにおける学園という箱庭ではウテナやアンシーはあたかも真剣に色々やっているように見えるが、最後に鳳暁生によってそれが茶番だったと明かされる。そのことにアンシーが気づいたからこそ、ウテナとアンシーの接続、交流、救いみたいなものが失敗しても、最終的にアンシーは自分の意識を改革されて、外の世界に飛び出して行く。
ピンドラの世界観は現実と地続きになっていて、現実社会の寓話になっている。子供ブロイラーにしてもそう。地下鉄やサリン事件や透明な存在といった、現実社会と連環した要素が作中に散りばめられている。
ウテナは茶番としてのシステムを物語内につくっていたが、ピンドラは現実世界のシステムそのものを寓話化している。
宇野:ウテナでは学園の中で、トラウマ解消のためのゲームをやってる。革命とはなにかというと、結局箱庭のような、時間が止まっているような所から卒業することなんだと、いなくなることなんだと。いかにして外の世界に行くかがウテナだった。対してピンドラは、内側と外側とかがない。
坂上:ウテナの場合生徒会の「卵は世界で、世界の殻を破らなければ、僕たちはは生まれることができない。だからこそ革命をしなければならない」という台詞が何回も出てくる。
「卵が世界だ」というイメージはピンドラの場合「箱」になってる。サネトシは「君たちは箱から出れない」と言ってるけど、おそらくそれは正しい。箱から出て全く別の世界に行くことはできないが、その制限された条件とかルールの中で、どういう風に愛だとか幸福を見つけるかってことをピンドラはやっているイメージ。
宇野:ウテナとピンドラで気になるのは、セクシュアリティの処理。ウテナで結局鳳暁生は学園に残される。ウテナはまず「決闘場」、「学園」の外側に行ってしまって、 そしてアンシーに「あなたは何が起こったかも気づかないんですね。私はもう行かなきゃ」と言って、アンシーも暁生を置き去りにして外に行く。女の子は革命できるし、女の子は外部に行けるんだけれど、男の子は取り残される。男の子は成長できないし、外部に行けないけれど、女の子なら大丈夫。男の子にできないようなことを女の子に預けるような、そういう男女が非対称な話だったと思うが、ピンドラでは過剰にセクシュアリティによる、男の子はできないんだけど、女の子はできるというような、性の非対称性を使ったような救いを全然採用してない。
成馬:榎戸洋司さんとか幾原監督のインタビュー集(『薔薇の容貌』)をさっき読んでた。榎戸さんは、「少女」はシステムの殻を破る存在だという感じの言い方をしていた。幾原監督も榎戸さんも「男か女か」にはあんまりこだわってはいないと言ってる。ウテナは抽象的な話じゃないですか。抽象的な寓話にしたときに、「少女にしたほうが格好悪くない」みたいな感じで最初はやってたんだろうけど。結果的に影響を残しちゃいましたよね、それ以降の少女の超越性みたいな形で。
宇野:榎戸さんて、僕からしてみると、幾原さんに比べるとセクシャリティというものに拘りがある。だから『スタドラ』も「美少年」だし。男の子ならではの自己実現ってなんだろうと追求すると『スタドラ』になる。「女だからできる自己実現」ってなんだろうとなると、「上からマリコ」のPVになる。「覚悟は女を、責任感は女を変えるぜ」とかね。「私は選ばれたんじゃない、選んだの」ってAKB48のあの脚本が、榎戸さんですよね。
二人が良い悪いじゃなく、単純に違うと思う。榎戸さんて未だにセクシャリティというものを使った表現を肯定してるのに対して、幾原さんてピンドラを見る限り、昔ほどそこに肯定はないんだなと。
石岡:ピンドラは「箱」が電車のように、動き回ってるイメージ。ウテナは乗り物が性的(ウテナカー、アキオカー)。対してピンドラの乗り物はシステマティック(電車とか)。
 
■『エヴァ』と『ピングドラム
坂上:ウテナは学園が静的な場所であるのに対して、ピンドラは物凄く動いてるイメージ。榎戸さんの話が出たので、ベタだが、『ピンドラ』と『エヴァ』について。同じ焦点を95年に当てたものとして考えると面白い。
前提として、シンジ君は自己承認を求める物語。誰か僕を認めてよと叫び続けるというのは、世界から認めてもらえない、子供ブロイラーの子供たちと同じ。そこに関してはシンクロしてるなと。
成馬:そのポジションがタブキなのかな。
坂上:テクニカルな見方になるが、渚カヲルとしての幾原監督が、選ばれなかった子供たち(≒碇シンジ)に対して、愛を語るおとぎ話として読めるんじゃないかなと。
ピンドラって愛とかリンゴとか、そういったメタファーで色んな人に簡単に承認を与えているように見えるが、全然違う。そんな万人救済みたいな話ではなく、本当は「子供ブロイラー」の他の子供達、ヒマリとか以外の「選ばれなかった子供たち」をどうするかって話は全くでてこない。選ばれない子供たちはどうしようもないし、最終回で「ピングドラム」を与えることでリスクを負うというように、愛を与えること自体が、罪と罰を伴う、そういう世界観で描かれている。すごく主観的な言い方になるが、エヴァンゲリオンにはできなかったやりかたというか、人間同士のATフィールドに亀裂を入れるようなやり方で、ピングドラムは愛を語っている感じがして、そこは非常に違うし面白い点だなと。
宇野:ピンドラに出てくるファンタジー要素は全部比喩。エヴァウテナ等とは違う、現実とリンクしてる。拡張現実的。だからピンドラに関しては逆に、謎本的な感心は無い。同じファンタジーでも、ウテナとピンドラでは全然違う。
成馬:スマートフォン ガンガン出てきますよね。記号みたいなのも一杯出てくるじゃないですか、アイコンが。あれが携帯のアプリに見えるんですよね。電車で移動するときも、ネットでクリックして、そこにガーって行って移動するみたいな。僕たちの空間感覚みたいなのがおかしくなってるんじゃないかって見てると思えて。都市の空間感覚みたいのが。それに対してウテナってのは「僕の想像できる範囲の世界なんです」って当時はインタビューで言ってたんです。歩いて移動できるっていうか。空間感覚があるのを想定してやってっていう。
でも今の拡張現実的なものを描こうとしてやったときに、距離感みたいなのが失われた世界になってるのが僕は凄い面白かった。
 
■『まどかマギカ』、『けいおん』、『ピングドラム』の三角形
宇野:歴史の語り方が、「もう一個の90年代の歴史を語ります」という。ガンダム宇宙世紀みたいにもう一個の歴史を作るのではなくて、現代の風景に過去の亡霊が彷徨っているという。これはあまり最近のアニメになかったもの、むしろ拒絶されてたもの。
例えばエロゲーやギャルゲーの影響下にあるまどマギみたいな「ループ」もの。ループものはジャンルの制約上、歴史を扱うのに向いてない。ループものだとまだ多少扱えても、空気系、日常系は歴史の問題を…。あれが悪いとは思わない。わざとカギ括弧に入れることによって、日常の何気ない豊かさをドーンと押し出してくる方法をやってるから、あまり歴史の流れとか、大きなシステムについて扱うのに向いてない。
まどマギと、けいおんの劇場版と(ピングドラム)がほぼ同時に出てきたのが凄く象徴的。今の世の中に対する三つの態度をそのまま表してる気がする。
革命ってもう無いわけじゃない。70年代くらいから。もう信じられないと。昔の方法ではね、マルクス主義とか信じてたころから。そこでピンドラが95年が主題となってることから明らかなように、結構オウムがそうだったんだけど、「世界は変えられないけど、自分の自意識は変えられる」んだと。薬物とか、物語とか、コンテンツを脳に注入すると、自分の意識が変わるから、世界が変わったように見えると。それがオウムだったわけだよね。オウムは最終的には自分たちの理想を信じられなくなって、実際にテロを起こしてしまった。ピンドラってそれを肯定してるわけじゃないけど、それに近いじゃない。それをテーマにしてるわけじゃない。世界は変わらないけど、自分は変われるっていうね。
まどマギっていのは、革命とは違う新しい方法で、世の中を変えていこう、システムを変えていこうって。キュウベエってシステムじゃない。ゲームのルールみたいな。無機的なシステムに対して、どう奇跡を起こして、世界をどう書き換えるのかという。
けいおんっていうのは、世の中のことを全部一回横に置いといて、今この瞬間の幸せ。世界の問題は無いということに、ひとまずして、今のこの素晴らしさをひとまずうったえようという。それが一番ラディカルでロックなんだみたいな。
それが今の世の中に対しての三つの態度を表してると思う。現代日本の物語的というか、文学的想像力を代表する三角形。三つとも好きでも嫌いでもないというか、凄い引いて見ている。個人的に最適解だと思うのはまどマギ。システムを変えていこうというのが。でも批判力があると思うのはけいおん。一番ぶっ飛んでるというか。
ピンドラはどっちでもないけど、「世界は変えられないけど、自分は変えられる」っていう思想って、20世紀後半の三十年くらいに凄く支配的だった思想だと思うんだけど。あの頃のことを、あの時代が終わったからこそ、距離を持って見返して、そこにあるユニークな思想を使って、面白い表現を作ってるって感じがする。だから僕も思春期を過ごした時期とか来ると、一番肌に合うというか、普通に見ていて面白く見れるのはピンドラだと思う。
だからこの三つが同時に出てきたというのは、今のアニメ的な想像力というのが今の物語的な想像力というのを代表してる。この三つでだいたい覆えちゃうじゃんみたいな豊かさがある気がする。
坂上:今の宇野さんの話で一個思うんですけど。「革命はもう無理で、世界も変えられないけど、個人の運命は変えられる」ってこれはむしろウテナのほうだと思う。
幾原監督はウテナを作ったときに、「安保とかも終わっちゃったし、この世界にもう革命なんか起こせない」って分かり切った状況で、それをウテナで茶化すっていうか。明らかにする、ってことをやってたと思う。
ピンドラがやってたと思うのは、けいおんにわりと近い。「色んなことをおいといて、「今、ここ」を肯定するのが一番ラディカル」って言い方をしたが、ピンドラも「今、ここ」を肯定してる。ピンドラにおける「今、ここ」は「高倉家」とか、それこそ目の前にいる女の子とかですよね。そういう自分にとって身近な領域を守ることのが、同時にサネトシ先生みたいな、「悪」といってがなんだが、「呪い」のメタファーだったり、幽霊だったりするものを倒すことに繋がっている。その二つが厳密には分離できないよねっていう感覚で作られている所が凄く良いと思っていて。だから僕はけいおんよりピンドラにラディカルさを感じるところがある。
成馬:サネトシという存在はけいおん的な空気系的なものに対する嫌味。90年代の亡霊みたいな感じで、最後に「君たちは幸せになることはできない」みたいなことを言う。けいおんの弱点ってわけじゃないけど、あれはウテナで言うと、「奇跡の代償で誰か犠牲になってるんだ」って台詞があったじゃないですか。ああいう感じで、あの子達がゆるふわな生活を遅れてる裏にはもしかしたらそれこそエネルギーの問題かもしれないし、経済の問題があるかもしれない。そこらへんつつかれたら弱いなと思った。お前ら将来どうすんだみたいなそういう嫌味だと思うんですよね。
宇野:ピンドラもそれに近いところがあると思っていて、坂上くんの話にもあるんだけど、ピンドラって世界を変えてないと思うんだよね。個人の運命は変えられるんだけど。自意識を変えれば世界は変わるんだけど、ピンドラではそこから一歩出て、運命は変えられる。でも世界のシステムとか仕組みは変えてないんだよね。だからちょうどあの三角ってバランスが取れてると思うわけ。
坂上:サネトシ先生がやろうとしていたことを、テロ事件の悪意をどれくらいデカく解釈するのかという話で。例えば地下鉄サリン事件のときは日本で何千人死んだという、それだけの事件ではないわけです。はじめて化学兵器が大都市で、一般人に対して使用されたということで、全世界的に衝撃を与えるわけですよ。地下鉄サリン事件自体が世界を揺るがすくらいの出来事だったと思うんですよね。それと同じことを今回サネトシがやろうとしていて、それを食い止めたという風に考えれば、やはりそれは世界を変えてるってことになると思うんですよね。
成馬:「運命の乗り換え」とまどかマギカの「システムを塗り替える」ことは結構近いといえば近いんじゃないのかな。ようするに世界をどう捉えているかで、運命を一直線と捉えるか、あみだくじみたいに延々と広がってるものとして捉えるかってことで。
 
■「現代の風景にさまよう過去の亡霊」というモチーフ
宇野:そこにやはり切断線があるように思えて。まどかが魔法少女になったことによって、色んなものの定義が変わってる。魔女とはなにかとか、ゲームのルールが凄い切り替わってる。ピンドラって…批判してるわけじゃないから誤解しないで欲しいんだけど、個人の運命は凄く変わってるけど、世の中のルール自体がガラッと変わってるわけではなくて、逆にいうとそれがイクニさんの個性だと思う。じゃないとオウムってもの自体が…オウムって自分探しの若者たちの暴走なんだよね。
坂上:そうですね。
宇野:だから丸ノ内線の地下鉄にサリンを撒いて世の中が変わるなんて、全然現実的じゃないし。個人の自意識をうまく処理できなくてああなってしまったわけで。世界に対するアプローチはできないっていうのが中核にある。でもそれが彼の個性だと思う。じゃないとまどマギなんかと変わらなくなっちゃう。けいおんのような日常の幸福感を完全に切り取るんでもなければ、まどマギのように奇跡を起こして、世界を変えようっていう方法でもないっていう、最近のアニメにはむしろなかった。だからこそこの作品って凄い個性的だと思う。それが一番出ているのが、歴史の扱いだと思う。
現代の風景に歴史が、過去の亡霊が常にさまよっている。あれでターンAガンダムとか思い出した。宇宙世紀ガンダムは一個の歴史を作って完結してるが、ターンAガンダムは『ウィング』とか『G』とかが地中に埋まっていて、好きなものを引用できる。現在の風景の中から好きに歴史を引用してくって感覚に結構近いかなと。
 
■『けいおん』的な「空気系」の破壊力
坂上:実際に2012年に、幾原監督にしてみれば、世界に大勢いる子供たち。日本だけじゃなくて、アフリカとかそういうところまで含めて。大抵の子供が、最終回でタブキが言うように、「選ばれなかった子供だよ」という風に見えてたんだろうなと思うんですよね。だからこそ、生存戦略という言葉が重要になってくる。
宇野:どっちに共感するわけでもないんだけど、けいおんの、空気系的なものの破壊力って何者にもなれないことがなんの問題にもならなってないことだと思うんですよ。
石岡:ごはんがおかずとかね。あんなんで歌になるとか、ちょっと天才的ですよね。
宇野:33歳のおじさんの僕個人が見てて普通に楽しめるのはピンドラなんだけど、凄く今を捉えていると思うのはまどマギだし、びっくりするのはけいおんなんだよね。そんなに個々のキャラクターに感心持てないから普通に可愛いなとしか思わないんだけど、けいおんの「そもそも子供ブロイラーなんて問題ではありません」っていうのは破壊力があると思うんだよね。だから僕は…
坂上:それは凄いわかるんですけど …
宇野:だから良いとか悪いとかの話をしてるんじゃないの、単に違うって話をしていて、(三国志の)魏呉蜀のどれが好きかみたいな話をしてもしょうがないじゃん。
 
■石岡さんのコーナー:「カエルからペンギンへ」
ピングドラムはモチーフとして村上春樹のカエル(「かえるくん、東京を救う」より)を拝借するだけでなく、カエルの先にペンギンがあったのが良いところ。ピンドラはカエルからペンギンへの移行に凄く気を配ってる。
「カエル」→生殖のイメージ(タブキの生物の授業。カエルの発生。生殖の話。リンゴちゃんのプロジェクトM。マタニティ→妊娠する→生殖。生存戦略→生きものが生き延びて繁殖するイメージ。)。カエルにそうしたものが集まってる気がする。タマホマレガエルとヒメホマレガエルをつかって何をするかと言えば、タブキの性欲増幅。ピンドラは性的なモチーフは全体としては薄いが、部分部分ではもちろんあって、カエルはその一つ。
途中でカエルモチーフが挫折するのが周到に描かれる。

・リンゴのプロジェクトMの挫折。
・ヒマリが図書館へ行く:カエルくん東京を救うが無い。オチで、実は3ちゃんがカエルくん東京を救うを密かに持って帰っている。

図書館でずらーっと「カエルくんシリーズ」が並んでるのは、ネットの検索のイメージ。情報が氾濫する中、カエルくんのモチーフがうまくいかない。「カエル」的な発想ではサネトシに勝てない。サネトシ=ピングフォースの亡霊。
ピングフォース=孤児達を擬似家族の形成による救済(高倉夫妻)。(そこに限界を感じて?)→テロへ。※カエル=生殖=「いい家族を作れ」ではそもそも孤児=子どもブロイラー的な存在を救えない
・実際の家族愛を押し付けてくるような秩序に対する批判→親に虐待されていたタブキ・ユリの過去。→ピンドラが「古い」と言われる理由にはもしかしたらタブキやユリのトラウマ的過去の扱いがあるかも。しかしそれはよく見ると、昔のものとして。家族そのものの挫折を描いたため。
・実際の家族よりも擬似家族のほうが心が通う場合があるのでは?
・サネトシの場合は、「毒をもって毒を制す」、→テロ。「企鵞の会=ペンギン」。「企鵞」は「ペンギン」の和名。
ペンギンの力というのは善でも悪でもない気がする。サネトシのペンギンVS高倉家のペンギンという構図
テロ(未完成の擬似家族の挫折)よりも、食卓(完成された擬似家族)による「子どもブロイラー」の救済。実際の家族よりも擬似家族のほうが心が通う場合があるのでは?最終回でヒマリとリンゴが二人で食卓を囲っている。異性愛の話と同性間の友情の話を両方出しながら一気に語っている。
幾原が原作の連載中の漫画『ノケモノと花嫁』では様々な「動物」が乱れ飛んでいるのに対して、ピンドラでは大筋ではカエルからペンギンへという幹があるように感じた。
ピンドラとは

カエル(過去にあり得たかもしれないオリジナルの「いい家族」への固執)から
 →ペンギン(運命の林檎を分け合うことで拡大していく擬似家族)への物語的

最初はハルキのイメージを使って95年で「カエルくん東京を救う」かと思った。人によってはそれを「あざとい」という人もいると思うが、カエルをペンギンに置き換えて、新しいものを提示している所がピンドラの達成。
坂上:2005年の『皇帝ペンギン』という映画。その映画のリュック・ジャケ監督が皇帝ペンギンに対して「呪われた民族」という評価を下している。実際皇帝ペンギンはものすごい過酷な環境に生きていて、確か母親は子供の卵を守るために150日間絶食しなきゃいけないとか。まさに生存戦略が必要になってくる。その呪われた民族というのはそのまま高倉家に当てはまる。その相似形としてペンギン達がいるというのが、ペンギンの役割として重要かなと。
 
■「孤児的な自意識」から「擬似家族」へ
宇野:ゼロ年代の想像力』という最初に書いた本が、まさにオウム的な、「僕達はこの社会に生きる意味が分かりません」、という自意識が「孤児」という比喩で表される作品がたくさんあって、その代表がエヴァンゲリオン
最初はエヴァンゲリオンみたいに母親の胎内に引きこもって承認を求めるってものだったのが、「逆にデスノートみたいに逆ギレして強くなっていくしかないじゃん」、という評論を書いた。しかしそうして逆ギレして強くなるのはオウムといっしょでテロじゃんと、行き着いた先が、家族を作るのではなくて、擬似家族を作ること。親は選べないんだから、家族は与えられるもの。そうではなく、友達関係というか、擬似家族みたいなものを作っていくのが良いのではないか、というのが僕のデビュー作。
その時に使っていたのがクドカンとか、よしながふみとか、木皿泉とか。そういった作品を使って最終的には、孤児が象徴する自意識っていうのは擬似家族で、家族を回復するために戦うのではなく、オリジナルの家族を諦めて、擬似家族のような共同体を作るのが良いんじゃないかという。
今から三、四年前の本だけど、そのとき僕が想像していたのは、今で言う日常系とか空気系に近いコミュニティ。同性ばかりで、学園的なコミュニティで、永遠のものじゃないんだけど、そこに奇跡を見出そうぜみたいなこと。
だからピンドラを見たときにすごく近いものを感じたんだけど、三、四年前の僕っていうのは今で言う空気系のようなものを想像していたんだけど、イクニさんが提示したイメージっていうのは、同じ擬似家族なんだけど、もっと拡大していると思う。豊情で。仇みたいな人も許すし、男女もごちゃまぜになっていて。当時僕が考えていたものよりも豊かで、多様性のあるイメージを見せてくれたかな、という風に僕は受け取ってる。
成馬:去年の冬やっていたドラマで、『11人もいる』というのをやってたんですけど。あれも家族のイメージが拡大していくし、幽霊もいるじゃないですか。案外近いのかなって。
宇野:近いんだよね。あれって大家族ものなんだけど、オリジナルの家族だけじゃなくて、嫁さんの元彼とか、死んだ前の奥さんとか、幽霊とかまでいる。あと学校の先生とかも入れちゃって、どんどん家族が広がっていくという変な話で、そういう意味では結構近いところにあったのかなって感じもする。
成馬:以前だと幽霊って成仏させてたと思うんですよ。もしかしたら震災とかも関係してるのかもしれないんだけど、幽霊との共存とか、幽霊とかゾンビのモチーフが凄い重要になってきてる気がしてる。ヒマリちゃんが帽子を取られると死んでしまうのは、まどかマギカソウルジェムを取られると動けなくなってしまうという、半分ゾンビみたいなものじゃないですか。空気系的な日常なんだけど、死は近づいているっていう、それこそ『木更津キャッツアイ』みたいな。
宇野:あまり震災後っていう話は、意識してるのは分かってるけど、そんなにピンと来てなかったんだけど、最終回見て、これやはり震災後のアニメだなって凄く思った。絆っていうか、人と人との繋がり方のイメージが凄い強烈だったから。震災後に「絆」っていうのが、「この漢字が象徴」っていうのが言われてるわけじゃない。でもそのときにやっぱり「家長とか大事だぜ」、とか、「ご近所コミュニティを大切にしよう」みたいな、アナクロなモデルに行くっていうのはあまり好きじゃなくて。震災後だからこそ、新しい人と人との繋がり方とか、絆ってものが大事なんじゃないかなって思ってたところに、結構ピンドラとか、11人もいるとか。今年の年末に出てきた作品の新しい家族のイメージ。どんどん拡大していく家族のイメージって、凄くポジティブに受け取っていて。ピンドラの良い所って、拡大家族を得るために何が必要かって、痛みみたいなところをね、凄く上手く描いてる所だと思うんだよね。クドカンはイメージを出すことに集中してると思うんだけど、幾原監督はそこに至るまでの過程の、痛みというか、歴史だよね。そこを描いてるのがピンドラの魅力だと思うんだよね。
成馬:こういう歴史みたいなのを描くと、最初どうしても古く見えてしまうんですよね。『グレンラガン』とかもそうじゃないですか。最初古い所から初めて新しい所に行こうとすると、最初古いと思われて、終わるとだいたい丁度良い感じになるから。結構損するコンテンツではあるんですよね。
石岡:ピンドラって全体的には未来を切り開くために、過去の呪いを振り払っていく話だから。未来というか、「そして時は動き出す」のが殆ど最後のほうになってしまうってことですよね。
成馬:結論だけ見してくれよって人がいたとしても、正直おかしくないと思っちゃう。
 
■『ピングドラム』は「擬似家族の先」を描いた?「擬似家族」の解釈について
宇野:「新しい絆を作っていくための条件」みたいなところの話を最後にしなきゃいけないと思うんだけど、ピングドラムとはなんだったかみたいな話だと思うんだよね。
坂上:ピンドラにおける愛を考えなきゃいけない。世界観の根底にある宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を踏まえて考えるべき。一言で言うのは難しいが、あえて言えば、「いのち」と「愛」と「罪」と「罰」、その辺が入り混じったメタファー。それ以上の意味は持たないと思う。
ピンドラにおける愛は三つ外せないものがある。一つは、家族を離れていかに幸福になるか。擬似家族の話が出たが、ピンドラが凄いのは「擬似家族の先」の話が出てること。その先に成り立つ絆を考えてる。基本的に三兄弟が仲良く暮らしていて、家族かと思ったら皆血がつながっていなかった。メインヒロインっぽいリンゴちゃんも、父親に対する信頼を回復するために動いてるんだけど、信頼は回復できなくて、現実の前に両親の不信感が高まっていくわけですよね。最終的に家族っていうものが解体して、ショウマ、カンバ、ヒマリ、リンゴの四人の関係性が成立する。そこにあるモチーフって擬似家族とかコミュニティとかを完全に離れている。最終回でヒマリが階段を登って行ってカンバを説得するシーン。あそこでショウマが胸からピングドラムを取り出して、それをヒマリに渡すときに、ショウマとヒマリが見つめ合って、ヒマリがはっとしたような表情を浮かべる。そこでニコっと笑ったあとで、カンバにピングドラムを渡しに行く。
本当はヒマリの運命の相手はショウマ。それは20話くらいで明確に示されていた。でも運命の相手とは別の相手に、カンバに、私はピングドラムを届けに行くよと。ショウマはサソリの炎にまみれたリンゴを助けに行くっていう形に。だから誰と誰がくっつくとか、二者関係に愛っていうものが向いてなくて、常にピンドラにおける愛って多方向を向いてるんです。そのことが明確になっていて、「家族」とか「擬似家族」とか、名指しみたいなものを全くひつようとしないところで。
宇野:家族っていうのは特定の相手を名指しして、それと結ばれるの。擬似家族ってもうちょっと「シェアハウス」とかでやれるように、特定の相手と結びつかないというのを指して、僕とかナリマさんて「擬似家族」って言ってたと思うんだよね。
坂上:もちろんそれは踏まえてますよ。僕の擬似家族のイメージって一つ屋根の下というイメージなんです。でも最終的にみんな一つ屋根のしたに全く暮らさなくなっちゃうじゃないですか。カンバは地下に行っちゃうし。ショウマは家にいるし。リンゴちゃんはよくわからないとこに行ってる。そういう、場所すら共有していないところで、どう繋がっていけるのかという所まで踏み込んでいるのかなっていうイメージがあるんです。
石岡:最後のリンゴとヒマリの食卓のシーンって、二人暮らしてるわけじゃないからね。でも「食卓を囲む」って関係でしょ。だから拡大家族っていうのは、同居してる家族ってイメージでしょ。
宇野:それね、さっき成馬さんと話してた幽霊がいるっていうのはそういう事なのね。『11人もいる』とかで話してたのは、要はそういう事なわけ。
 
■その他すげーなーと思うところ
成馬:最終話ですげーなーと思ったのは、皆が自己犠牲をしようとするんですよ。自己犠牲の連鎖みたいのが最終的にサネトシの呪いに打ち勝つみたいな構造になってると思うんですけど。最終的な決め手になるのが何かと言えば、ダブルH。22話くらいで、ヒマリの家を訪ねてきたダブルHが、リンゴちゃんにCDを渡すわけですよ。リンゴちゃんに渡したCDのタイトルが「運命の果実を一緒に食べよう」。結果的にそれが発動するんですけど、ダブルHが何で来たかというと、ヒマリちゃんのマフラーじゃないですか。なんでヒマリちゃんが来たかというと、サネトシなんですよ。凄い皮肉な運命の連鎖みたいのがあって。それが「ピングドラム」というか、「運命」というか。それまでマイナスの形で運命の連鎖をしていたのが、ここでポジティブな感じに行くというのが。しかもそのときの決め手になるのがアイドルのCDという、ポップカルチャーの結構どうでもいいもの。
坂上:銀河鉄道の夜』ではジョバンニとカムパネルラは死者の鉄道である「銀河鉄道」に乗ったあとに離れ離れになってしまうが、ピンドラのラストではカンバとショウマは揃ってどこまでも星の中を歩いて行くシーンで締められる。『銀河鉄道の夜』のオマージュとして、幸福なイメージを最後に提出したと思う。
宇野:きっと何者にもなれないお前たち。結局何者になるというのは、「愛」じゃんという話。その愛というのは結構ゼロサム的な世界観。リンゴを分け合うという。みんな最初は一個持ってるけど、それは親から持たされたもので、本来持っているべきもの。持ってる人間が持ってない人間に分けることでしかできないのではないかという。人生は有限だから、人が命がけで愛せる人間は限られている。誰に対して責任を取るかということ。みんな、特に若い人は実感がないかもしれないけれど、忘れがちな真実。ピンドラは「痛み」を描いてるところが良いと思う。新しい繋がりが、人が人を想うという繋がりが、人を何者かにして救うんだという。凄い簡単なんだけど、そこにあるコストっていうものを「運命」とか「苹果」というモチーフを使って動かしてる。愛のコストを描いてるところが、他のアニメとかと比べても秀でてるところ。
 
■質問コーナー:マリオさんの存在意義は?
石岡:ペンギンの帽子が2つあること。カンバとショウマに対するヒマリのように殆ど死んでいて、ペンギンによって生かされているのがマリオ。
エスメラルダの重要性。1話を見たときに不安だったのが、「家族関係が閉じていら嫌だな」と思った点。マサコにとってカンバだけだったら閉じる感じだったが、マリオがいることによってそれとは別の関係性が築かれている。結構重要なキャラだったと。
成馬:作中の登場人物が基本的に三人で一組になっている。三角形の物語。夏目家はマサコとマリオに加えてカンバがいなければならなかったが、カンバがヒマリちゃんたちの方にいっちゃってるから、それを取り返す戦いに。三人という関係が作中で重要なのかな。トリプルHもそうだし。
「僕達の愛も僕達の罰もみんな分け合おう」みたいな台詞が出てくる。あれは予告だと確か「僕の愛も君の罰も」だったんですよね。そのとき最初嫌な予感がして、また「キミとボク」の話やるのかなと思った。でも「キミとボク」の話から僕達の話になったんだなと思った。そういう意味で三角形というのを凄く使っていると思う。
坂上:最終回で運命の乗り換えが終わったあとに、マサコが夢の中でカンバを認識していて、「お兄さまは全然私に似ていなかったけど、私に対して愛してくれるって言ってくれたわ」みたいな事を言ってた。でも今度マサコが誰を愛せば良いのってなったときに、この世界にマサコが愛すべき対象ってもうないんですよね。身も蓋もない言い方になりますけど、マサコの愛のレセプターみたいな感じで、マリオっていう受け止めるやつが必要だったんじゃないかと思う。
宇野:人間関係が線対称になっていて、相似形でいろんなものを作っていく上で、必要上生まれたキャラだったと思うんだけど、結構石岡さんが言ってた意味で機能してたと思う。
石岡:対照的な関係の中で一番チート的に崩れてるキャラが桃果。
成馬:桃果とタブキとユリも三角形だったんだけど、桃果がいないことによって気持ち悪い関係になった。
 
■最後に一言
坂上:ピングドラムは実は凄い力技。最終回で愛っていうテーマを伝えるために、最終回のタイトルも「愛してる」。よく分からないけど運命の乗り換えをやったら世界は平穏になっていて。これはどう見ても力技。でもその力技を俗っぽく見せないために流麗な演出だったりで描いてる。11話までのリンゴちゃんの話をいらないって言う人が多いが、実際にはあの見せ玉があって、あれでリンゴちゃんを愛せたからこそ最終的にショウマがリンゴに愛してるっていう根拠が出てくるというか、意味が持たせられる。これだけシンプルなメッセージを伝えるために、アニメーションという領域の中で工夫ができることを示してくれたことが重要だったし、幾原監督にはありがとうございますという気分。
成馬:最終話を見たときに、23話から24話の間で2話くらい飛ばしたような気がした。本来あるべき物語を飛ばして結論だけ出されたみたいな。結論の出し方がめちゃくちゃ上手いから泣くくらい感動してしまったが、終わったときに何か足りないなと感じた。だからお願いですから劇場版作ってくださいという感じ。ウテナのアドゥレセンス黙示録みたいな感じで、二時間に凝縮した、トリプルHのライブで一気に魅せるようなものを作って欲しいと思います。お願いします。
石岡:後半のシリアルさはあって、力技というのは僕も感じてました。特にサブタイトルで「運命」とか「愛」とか連発していて、前半の余裕があった感じが全然なくなってる。小説版の中巻が終わった時点で18〜19話くらいなんです。最終話のところで全体のバランスとしては、話数の少ないところに、文字数的には相当詰まっているということなので。明らかに尺が足りてない感じで、凝縮されまくりなんですよね。
見なおして3ちゃんが活躍したなというのが。「カエルくん、東京を救う」を持ってきたりとか、手紙を届けたりとか。最終話で、存在としてリアルなのかどうかよく分からないカンバとショウマがとことこ歩いていて、ペンギンもとことこ歩いてくる。3ちゃんとエスメラルダという、女の子キャラにくっついていたペンギンも、そろそろっと合流する。あの合流する感じは、この世の中(現実世界)とは別の世界に行ってしまう人たちのようなんだけど。そのペンギンの四匹ちょっとずつ増えていく感じというのは、案外運命が乗り替わった後のピンドラのリアルワールドでも、ペンギンが寄り集まったりしてるような感じでコミュニティが作られていくんじゃないかなという。結構黄金のエンディングだったんじゃないかなという結論ですね。
宇野:ピングドラムは『ゼロ想』のモチーフに近かった。子供ブロイラー=孤児的な自意識をどうするかという。そのあと四年くらい経って、去年出した『リトル・ピープルの時代』は新しい方法で世の中をどう変えるかっていう、『まどマギ』とか『けいおん』に近い方法で書いた。昨年末の『ピングドラム』と『11人もいる』は凄く似ていて。当時僕が考えていた空気系的な擬似家族っていうのを超えた、幽霊とかそういうものを許容していくような、新しい絆のイメージ。本当に比べ物にならないくらいアップデートして、あれだけの密度でぶつけてきたピンドラって、僕にとってはなにか忘れていたものを強烈に思い出させてくれるような感覚で、貴重な体験だった。主題的な近さが、作品としての評価みたいなところにあまり関心を払わせない原因になっていて、この作品に関しては良い悪いを言いたくないなという感じ。
 
 
 
◇少しだけ感想
全体的に内容の詰まったトークだった気がします。「俺理論の被せ合い」というよりは、皆が比較的共通認識を持った上で語ってる感じがして、前回の『ハンターハンター』特集よりもまとまった内容という印象を受けました。

宇野:ピンドラって世界を変えてないと思うんだよね。個人の運命は変えられるんだけど。自意識を変えれば世界は変わるんだけど、ピンドラではそこから一歩出て、運命は変えられる。でも世界のシステムとか仕組みは変えてないんだよね。だからちょうどあの三角ってバランスが取れてると思うわけ。

(幾原監督には)世界に対するアプローチはできないっていうのが中核にある。でもそれが彼の個性だと思う。じゃないとまどマギなんかと変わらなくなっちゃう。けいおんのような日常の幸福感を完全に切り取るんでもなければ、まどマギのように奇跡を起こして、世界を変えようっていう方法でもないっていう、最近のアニメにはむしろなかった。だからこそこの作品って凄い個性的だと思う。

ピンドラは「痛み」を描いてるところが良いと思う。新しい繋がりが、人が人を想うという繋がりが、人を何者かにして救うんだという。凄い簡単なんだけど、そこにあるコストっていうものを「運命」とか「苹果」というモチーフを使って動かしてる。愛のコストを描いてるところが、他のアニメとかと比べても秀でてるところ。

こうした世界観の捉え方が、最終回を見終えたときの僕の感想(→『輪るピングドラム』最終話感想 幻想が作り上げた戦略を葬り去れ - さめたパスタとぬるいコーラ)に結構近いものがあって、共感しながら聞けました。『ピングドラム』が万人救済の話でないことを、「愛のコスト」って言い方で表現してるのは良いですね。それと、僕になかった視点として、『まどか』と『けいおん』との三角形という話もされていて、(以前ツイッターで出てた話とかぶるところもありましたが)面白かったですね。さらに、いらぬ摩擦を避けるために「(それら三つの作品が)単に違うって話をしていて、(三国志の)魏呉蜀のどれが好きかみたいな話をしてもしょうがない」と釘をさしてるあたり、立ち回りが上手いなぁと思ったり(笑)。確かにこれならどれか一方から下手に恨みを買うこともない。
そういう意味では細かい所で坂上氏が宇野氏に食ってかかる場面があったのも面白かった(笑)。しかし大筋で見ると、

坂上:ピンドラも「今、ここ」を肯定してる。ピンドラにおける「今、ここ」は「高倉家」とか、それこそ目の前にいる女の子とかですよね。そういう自分にとって身近な領域を守ることのが、同時にサネトシ先生みたいな、「悪」といってがなんだが、「呪い」のメタファーだったり、幽霊だったりするものを倒すことに繋がっている。その二つが厳密には分離できないよねっていう感覚で作られている所が凄く良いと思っていて。

この辺とかも言い方は違うんだけど、わりと内容は近いというか。二人とも、幾原監督がインタビューで語っていたような、「過去のコミュニティを全否定せず、未来に繋げるイメージ」のようなものを非常に踏まえていたような気がする。

エゴの時代が続いてきたじゃないですか。幸せの概念みたいなものがあったとしても、それを家族のなかで押しつける。部屋にこもっている子供が理解出来ずに、「引きこもり」という意地悪なネーミングをつけて、「家族はこうあるべきだ」という概念を押し付けたりね。それに対してもちろん子供は反発する…。ただ、僕はここにきて、いよいよ、そういう考えを通り越していいんじゃないかと思うんだ。各々で幸せの価値観を押し付けあう時代は終わっていいと思う。つまり、「新しい幸せの概念」を探す時代が、いまなんじゃないか。(中略)
だから自分の夢としては、僕たちが経てきた、それこそ最悪のコミュニティも経た上で、若い人たちの新しいコミュニティを作り出したり、最確認するという話を見たいと思っている。誤解しないでほしいんだけど、その最悪のコミュニティを肯定するわけじゃない。ただ、まるで自分に関係の無いことだったように蓋をするのはどうにも納得がいかない。大方の大雑把なメディアが言うように簡単な悪だという総括の仕方はしたくない。学生運動は国家の否定だったけど、それらは同時に親の世代の否定、家族の否定でもあったよね。そういう風に、何かを否定することで自分のコミュニティを肯定する…、悪を登場させて、その時代的なものを否定することで自分の立ち位置を守るという話にはしたくないと思っている。むしろ、間違っているかもしれないけど、それをしたお父さん、お母さんすら、愛おしいと思ってしまう感覚。自分には帰るところがないと感じたとしたら、間違っているものですら心の居所になると思うんだ。そういう家族の話をリアリズムで描くんじゃなく、現代の寓話・神話のようなものとして描きたいと思っているんだ。ただ、スピリチュアルなものだと勘違いして欲しくはないね。僕はそこに興味はないから。
 
輪るピングドラム』BD1巻小冊子に収録された「幾原邦彦インタビュー」より

 
最後にもうひとつ、成馬氏が言っていた現代人の空間感覚について。

成馬:電車で移動するときも、ネットでクリックして、そこにガーって行って移動するみたいな。僕たちの空間感覚みたいなのがおかしくなってるんじゃないかって見てると思えて。都市の空間感覚みたいのが。

これはかなり盲点だった部分ですね。個人的に『ピング』の電車での移動演出は、なんとなくピクト状の通行人とかとセットで考えていて、ユニークな演出だなとは感じていたんですが。言われてみれば凄く納得できるというか、共感できる話です。こうした「現代の空間感覚」についての話題がどういった分野の人にどの程度メジャーなトピックなのかというのはちょっと分からないんですが、個人的には押井守監督が一昨年「googleマップ5周年イベント」で行った講演会での話を思い出しました。

記憶がだいぶ曖昧になっているので大した解説はできないんですが、全部で1時間程度の講演だったと思います。パトレイバーとかの話も出てきて凄く面白かったような気がします(うろ覚え)。気になる人は見てみると良いんじゃないでしょうか。
というわけで今回はそんなところで。