宇野常寛の『ピングドラム』評で微妙に納得いかなかった部分をネチネチ

togetterで見かけた宇野常寛ピングドラム評が面白かった&納得できない部分があったので、ちょっと書いてみます。

宇野
トリプルHの(ARBカバー)アルバムを聴いている。劇中挿入歌として印象的な「ROCK OVER JAPAN」はコテコテの「ロックの不可能性(もはや反抗する対象=壁のない世界」への絶望を歌う(その意味では)いかにもな90年代Jロックだ。 
同作(「輪るピングドラムl)ではこれを少女声で歌わせることで、この古びたイデオロギーを延命させる/誤魔化すという(これもよくある)手法を取っている。 自分たち(男性)は信じられないけれど彼女たち(女性)はまだ物語を信じている!といった具合に。
ここで思い出すべきはやはり『けいおん!』だろう。同作のスタンスは明確。「反抗すべき「壁」のない世界(≒日常系、空気系)」は絶望ではなく希望、端的に祝福すべきものだという「開き直り」だ。いわば「世界を(端的に)祝福するロック」への意味論の更新が同作のコンセプトだ。
例えば(以前も書いたが)劇場版でも象徴的に使用されている「ごはんはおかず」は実は「けいおん!」という作品それ自体を歌った曲。よく聴くとごはん=日常の中の幸福感こそが究極の「おかず」=描かれるべき「夢」である、という歌詞になっている。「今、ここ」を積極的に肯定せよという強い主張だ。
果たして『ピンドラ』の「予め失われた僕ら(=孤児)」という(やや懐かしい)自意識による連帯は『けいおん!』的な(今やファンタジーとなりつつある)現状肯定のイデオロギーに対抗できるのか。そんなことを考えながら聴いていた。僕は(恐るべきことに)後者にむしろ批判力と強度を感じる。
作品としてどっちが好きか、は別として。(ここで大事なのは「予め失われた僕ら」という自意識は「何も持っていない」のが当たり前になった今、それほど批判力がないということ。「失われた」という自意識は「与えられる」ことを前提とした思考なので。)
この問題は(おそらくは『けいおん!』のモトネタのひとつである)映画『リンダ リンダ リンダ』を補助線に考えると明確に浮かび上がる。女子高生バンドが「メッセージ性を脱臭したブルーハーツ」を歌うことによる世界への祝福と「ロック」の幸福な結託のビジョンの持つ射程は、想像以上に長い。
 
修正後:〈トリプルHの(ARBカバー)アルバムを聴いている。劇中挿入歌として印象的な「ROCK OVER JAPAN」はコテコテの「ロックの不可能性(もはや反抗する対象=壁のない世界」への絶望を歌う(その意味では)いかにもな「虚構の時代(by大澤真幸)」のロックだ。〉 
ポイントは「虚構の時代(68年〜95年頃)」における物語回帰(一週まわってベタ)は「その不可能性を自覚しながらも〈あえて〉」とか「自分は信じられないけれど世界には信じている人がいるのだから(この物語は無価値ではない)」とかアイロニーが特定の価値への没入を支援する形式をとる、こと。
そしてそのアイロニー=「その不可能性を自覚してコミットせよ」という自意識の操作が、(『けいおん!』の象徴する)現代においては不必要になっている、というのが昨日のツイートの趣旨でした。(「虚構/仮想現実の時代」から「不可能性/動物/拡張現実の時代」へ。)

ポップカルチャー評論家宇野常寛「ARBはいかにもな90年代Jロック(キリ」オレ「ARBは80年代なんだが」宇野「ぐぬぬ」 - Togetterまとめ


宇野さんは冒頭で、80年代に発表されたARBの「ROCK OVER JAPAN」のことを「いかにも90年代Jロックだ」と書いてしまう悲しいポカをやって、それをきっかけに全力で叩かれてますが(笑)、そちらのミスには目を瞑り、その他の主な主張を整理すると

■「虚構/仮想現実の時代(68年〜95年頃)」から「不可能性/動物/拡張現実の時代」へという流れ
 →そんな中、『ピンドラ』の「予め失われた僕ら(=孤児)」という(やや懐かしい)自意識による連帯は、けいおん!』的な(今やファンタジーとなりつつある)現状肯定のイデオロギーに対抗する事はできるのだろうか。
 →「その不可能性を自覚しながらも〈あえて〉コミットせよ」という『ピングドラム』の主張の象徴として、「虚構/仮想現実の時代」のロック=「ROCK OVER JAPAN」がある。一方けいおん!』の「今、ここ」を積極的に肯定せよという強い主張の象徴として、「不可能性/拡張現実の時代」のロック=「ごはんはおかず」がある。(恐るべきことに)後者にむしろ批判力と強度を感じる。

という事になるかと思います。面白い対比だとは思うんですが、どうも自分の中でカチリとはまらない所があるので、今回は部分的ないちゃもんを勝手につけていきたいと思います。
とりあえず前提知識として、戦後日本は「理想の時代」→「夢の時代」→「虚構の時代」と変遷してきた(大澤真幸)という主張があり、「虚構の時代」に続くものとして、「不可能性の時代大澤真幸)/動物化東浩紀)/拡張現実の時代宇野常寛)」が提唱されているらしい。「虚構の時代」を宇野風に呼ぶと「仮想現実の時代」となるらしい。…といったことを、その辺詳しくない人はググってから読み始めると良いかも。というか、僕自身「詳しくない人」なので、用語の誤認・誤用、その他筋の通らない点等ありましたらビシバシ指摘してください。涙目で修正させてもらいますので。
 
それでは早速本題に入っていきましょう。要は宇野さんの主張としては、作品としての好き嫌いは抜きにした場合、『ピングドラム』の問題設定の仕方は、『けいおん!』が許容されるようになった現代では、やや時代遅れじゃね?って事ですよね。その意見自体はまあ良いんですが、その象徴として「トリプルH」と「ROCK OVER JAPAN」を持ってきてる所がイマイチ納得できない。確かに構図化したときに

ピングドラム』→虚構/仮想現実の時代的問題意識 象徴:「トリプルH」&「ROCK OVER JAPAN」
けいおん!』→不可能性/拡張現実の時代問題意識 象徴:「放課後ティータイム」&「ごはんはおかず」

だとパッと見た時の見栄えは良いんですが、本当にトリプルHによるARBの楽曲カバーは「虚構の時代的なロック」になっているのかな?という疑問が残りました。宇野さんは、今となっては時代にそぐわない「虚構の時代的なロック」を、アイドルユニットに歌わせることによって、イデオロギーが古びている所を誤魔化し、イデオロギーを延命させてるとい言ってるわけです。「ちょっと古臭いメッセージだけど、あえてそれを発信したい。照れ隠しとしてアイドルに歌わせよう」といったイメージでしょうか。

宇野 同作(「輪るピングドラムl)ではこれを少女声で歌わせることで、この古びたイデオロギーを延命させる/誤魔化すという(これもよくある)手法を取っている。 自分たち(男性)は信じられないけれど彼女たち(女性)はまだ物語を信じている!といった具合に。

この場合、確かに幾原監督が古臭いイメージを隠すために、あえてアイドルソングとして使った側面はあるのかもしれません。しかし、そうであった場合、「幾原監督が信じている(or信じていた)イデオロギーを今の時代に提示する」ために必要な算段だったというだけで、トリプルH(ヒマリ、ヒバリ、ヒカリ)が作品内でそのメッセージを信じていた」ことにはならないと思うのです。そもそもトリプルH版の「ROCK OVER JAPAN」は歌手と歌詞の地続き間の無さにインパクがあり、彼女たちからは「物語を信じている」から歌っているという印象は全く受けませんでした。
それは他の楽曲にしてみても同じです。例えば以前も記事で取り上げた「BAD NEWS」という歌があります。

※「BAD NEWS」は3分50秒から

以前書いた記事→ピングドラムEDのARB「BAD NEWS」にみる幾原監督のイカレっぷり - さめたパスタとぬるいコーラ

PVを見てもらうと言わんとしてる事が伝わりやすいと思うのですが、トリプルH版「BAD NEWS」が、上のPVにあるような、原曲のイデオロギーを延命させて訴えかけてくるようにはとても思えないんですよね(笑)。それぞれの楽曲から受ける印象があまりに違うため、これではむしろ「彼女たちはまだ物語を信じている」と言うよりは、「(私たちは)彼女たちが歌ったものを(殆ど別物としてではあるものの)受容できている」としたほうが大分しっくりきます。
以前にも引用しましたが、『オトナアニメ』というムックの22号にピングドラムで音楽を担当された橋本由香利さんのインタビューが載っていて、そこでARBの楽曲を使う事になった経緯を聞かれ、

「(幾原監督が)単に好きだから、みたいですね(笑)。あとは、あの時代のバンドなのに、恋愛の歌詞がひとつもなくて、ラディカルなところも好きだそうです。それを、今の10代の女の子たちが歌って、わけもわからずに「腑抜け野郎ども」みたいなことを言っているのが面白いのではないか、と。」

という風に答えています。この、「わけもわからずに歌わされてる」というのは重要だと思います。 
 
では、虚構の時代のイデオロギーを復活させるためでないのなら、『ピングドラム』においてわざわざARBの楽曲を「別物」に変換してまで登場させた理由は何なのか?という話になりますよね。個人的には今回改めて考えてみて、幾原監督が過去に触れてきた価値観に対して感じている「愛おしさ」が現れたためではないか、と思いました。またまた以前にも引用したものですが、監督はBD1巻のインタビューにおいて次のように語っています。

エゴの時代が続いてきたじゃないですか。幸せの概念みたいなものがあったとしても、それを家族のなかで押しつける。部屋にこもっている子供が理解出来ずに、「引きこもり」という意地悪なネーミングをつけて、「家族はこうあるべきだ」という概念を押し付けたりね。それに対してもちろん子供は反発する…。ただ、僕はここにきて、いよいよ、そういう考えを通り越していいんじゃないかと思うんだ。各々で幸せの価値観を押し付けあう時代は終わっていいと思う。つまり、「新しい幸せの概念」を探す時代が、いまなんじゃないか。(中略)
だから自分の夢としては、僕たちが経てきた、それこそ最悪のコミュニティも経た上で、若い人たちの新しいコミュニティを作り出したり、最確認するという話を見たいと思っている。誤解しないでほしいんだけど、その最悪のコミュニティを肯定するわけじゃない。ただ、まるで自分に関係の無いことだったように蓋をするのはどうにも納得がいかない。大方の大雑把なメディアが言うように簡単な悪だという総括の仕方はしたくない。学生運動は国家の否定だったけど、それらは同時に親の世代の否定、家族の否定でもあったよね。そういう風に、何かを否定することで自分のコミュニティを肯定する…、悪を登場させて、その時代的なものを否定することで自分の立ち位置を守るという話にはしたくないと思っている。むしろ、間違っているかもしれないけど、それをしたお父さん、お母さんすら、愛おしいと思ってしまう感覚。自分には帰るところがないと感じたとしたら、間違っているものですら心の居所になると思うんだ。そういう家族の話をリアリズムで描くんじゃなく、現代の寓話・神話のようなものとして描きたいと思っているんだ。ただ、スピリチュアルなものだと勘違いして欲しくはないね。僕はそこに興味はないから。
 
輪るピングドラム』BD1巻小冊子に掲載された「幾原邦彦インタビュー」より(※強調は引用者

 
監督はこうした文脈の中で、「過去に経験してきたコミュニティ」に「愛おしさ」を感じていて、それを「無かったこと」にしたくはないと言っているんですね。ARBの楽曲を使用した事も、この延長線上にあるのではないかと思います。「当時影響を受けた歌を、古臭いなんていう理由で無かったことにしたくない」。「ARBの楽曲に愛おしさを感じている」。「現代にあえてARBを引っ張り出す事で、楽曲が当時有していたメッセージは失われるかもしれないが、なんらかの形で継承したい」。そんな気持ちがあったのではないでしょうか。(ちなみにここではこんな書き方をしてしまっていますが、ARBの原曲は今聴いてもめちゃくちゃ格好良いです。『ピングドラム』で感化されてアルバムを二枚買い、数ヶ月間ヘビーローテーションで聴いてました。)
監督はインタビューなどで度々「世代間で溝が存在している」事を指摘していますが、そんな中でARBの楽曲を使用したことは、上の世代(幾原監督の世代)から下の世代(若い視聴者)への、ある種の歩み寄りの姿勢を感じました。もしそうであれば、歌詞が忠実に今の若い人に伝わるかどうかは実はどちらでもよくて、監督としては過去に自身が経験したものを無かったことにせず、何らかの形で現代に還元しようとした姿勢自体に意味があったのかな、とも。また、そうしたことを考える中で、監督が『ピングドラム』最終話上映会の舞台挨拶において、「作品を作るにあたって若いスタッフの感性に何度も助けられた」ことを、感謝を込めながら繰り返し述べていたことを思い出しました。
 
そんなわけなので、《『ピングドラム』における「不可能性を自覚してコミットせよ」という自意識の操作の象徴として、「トリプルH」や「ROCK OVER JAPAN」を据える》ことにはあまり共感できないですね。
素直に

ピングドラム』→虚構/仮想現実の時代的問題意識 象徴:「予め失われた僕ら(=孤児)」という(やや懐かしい)自意識による連帯
けいおん!→不可能性/拡張現実の時代的問題意識 象徴:「放課後ティータイム」&「ごはんはおかず」

となっていれば文句もないんですが。
 
ところで、幾原監督が何かを主張しようとする際に「あえて」と開き直っている部分は、間違いなくあると、そこは思うんですよ。『ピングドラム』の場合では、例えばカッパとラッコの人形を用いた演出で苹果の幼少時のトラウマ親子喧嘩を演出した場面や、場面がシリアスになりすぎないように常にペンギンにコミカルな事をやらせている事など。前作少女革命ウテナ』などはキャラクターデザインからして、「あえて『ベルバラ』」ですからね。
ここまで書いていて思い出しました。昨年購入した『アニメージュ』の1995年3月号に載っていた対談において、幾原監督こんな事言ってました。

■無自覚にアニメを作ることの怖さ
幾原 今、アニメは「わかった上で、わざとやっている」という、確信犯的な作り方をしないと作品にならないというのが、つらいですね。「ヤマト」という作品は、あまり確信判定ではないという気がする。たとえば今「ヤマト」を見ると、当時作っていた方々が、よく怖くなくてこういうアニメを作ったな思います。
 まあ作品は時代の産物だから、それが悪かったとは言わないけれど、今の時代は何かをやる場合は確信犯的にやっていかないと怖いな、という気がします。
河森 どういう怖さなんですか。
幾原 うまく言えないんですけど、昔は「女は愛する男に尽くすべきだ」とか、「男は平和を守るために死ぬんだ」とか、そういうメッセージが無自覚なロマンとしてまかり通っていたような時代だったんですよね。当時あのアニメーション・ブームの真っただ中にいた人たちというのは、自分たちが何を指示していたか全然分からなかったんじゃないかと思うんです。単に時代がそうさせたというか、たまたまそういうか中に巻き込まれただけという気がするんですけどね。
 もっと言ってしまえば、単に「ガンダム」や「ヤマト」というのは、時代が求めていただけの作品ではないのかなという気がするんです。
 でも、今は違います。仮に「男は平和を守るために死になさい、女は愛する男に尽くしなさい」ということを本当にその作品のメッセージにしたいと思った場合「こんな軟弱な時代だからこそ、あえて私は古いロマンを口にしているんだ」と言わなければならない。
 それが「確信犯的に作品をつくる」ということなんですが、その「あえて」が無いと作品が成立しなくなってしまう。
AM 幾原さんが何かを確信犯的にやるということは、たとえば「セーラームーン」という作品を作る過程で少しずつ入れていくということになるんですか。
幾原 そこまで「セーラームーン」を確信犯的には作っていません。
 ただ、もしオリジナル作品を作るということになると、かなり確信犯的なものを提示していかないと、作品が成立しないのではないかなと思っています。
 仮に美少女ものを作るっとかメカものを作るという場合でも、かなり確信犯的な理由を考えていないと、作品の存在感が薄くなるんじゃないかなと思うんですけどね。
合田 僕が演出した「ああっ女神さまっ」について幾原さんはどう思われますか?
幾原 大好きですよ(笑)。なぜかというと、現実にはいないような女の子を描くということを、作り手が確信犯的にやっている感じがするし、よく見てみるとかなり自覚的にやっているようなので、逆にすごく可能性があるような気がするんですよ。
 僕が演出を担当している「セーラームーン」とよく似ている部分もあるますから。単に「企画が通ったから作った」という事なのかも知れませんが、作り手はかなり気をつけているな、と感じました。
合田 自分には無自覚な部分もあるし、確信を持って作っている部分もあるけど、どっちなのかな。
幾原 ただ、確信犯的に作るかどうか迷っているだけでもマシであるような気がするんですよね。迷っている、フラフラしていると感じるだけ良い。
 僕なんかも「セーラームーン」を作っていて非常にフラフラしているんだけども、でも最近は「迷いもなく無自覚に作っているよるはマシかな(笑)」と考えて自分を励ましているんですが(笑)。
 
アニメージュ』1995年3月号 P.32 庵野秀明幾原邦彦河森正治合田浩章佐藤順一「現代という時代にアニメを作るということ ―'95年期待の5人・アニメを語る―」

うわあ、喋ってることドンピシャすぎるんですけど(笑)。記事書いてる最中にこの対談のこと思いだして良かったです。
さらに興味深かったのが、対談記事の最後に書かれていたアニメージュ編集部による総括。

■まとめ
 この座談会は95念のアニメシーンを担うであろう5人の比較的若手の演出家にこれから自分が作るであろうアニメーション作品への抱負や、熱い思いをぶつけてもらおうと企画したものだった。しかし、話の大きな流れは、今のアニメーションをとりまく環境のきびしさや悪さ、そして
彼等より上の盛大の演出家たちに比して、彼等の世代の精神的脆弱さを、やや自虐的に語ることに、ほぼ終始してしまった。
 この5人の豪華な顔ぶれを揃えながら、むろん例外はあるにしても、そんな話題しか引き出せなかった本編集部にも大きな責任があると我々は思う。がしかし、例えば宮崎駿監督が、押井守監督が、富野由悠季監督が出席した対談なり、座談会で、こんなにも自分や、自分の作品を客観的に、ある種の冷たさで話すシーンを、我々は見かけたことがなかった。その差に我々は少なからぬショックを受けた。今のアニメをとりまく状況や、今の時代のせいだけではない何かを感じた。
 確かにアニメ界の現状はきびしいかもしれない。現代という時代も、一昔前に比べてずっとクールになっているかもしれない。でも、アニメというジャンルがまだ確立されていなかったころ、何とかそのジャンルでよい作品を作っていこうとした先人たちの環境のほうがきびしかったかもしれないとふと思ったりする。
 ライバルである他の演出家や、アニメ誌に、自分の手の内を見せたくないという気分が、この席を包んでいた可能性もある。ならば来月号からは、この5人をはじめとする演出家ひとりひとりに、改めて話をきいてみたくもなった。4月号では、佐藤順一氏に「ガンダム」「ヤマト」路線ではないアニメで目指していることを徹底的に語ってもらう。(編集部)
アニメージュ』1995年3月号 P.37

「まとめ」を書いた人の「どうしたものやら」という当惑っぷりがひしひし伝わってきて面白いですね。演出家たちは色々ポストモダン化してきた中で、それでも創作でなにかを伝えるにはどうすべきなのかって部分で悩んでるものの、編集部の側としてはわりと素朴に大きな物語を信じている風というか。
 
 
最後にもう一度宇野さんの一連のツイートの話に戻します。個人的に宇野さんの《「予め失われた僕ら」という自意識は「何も持っていない」のが当たり前になった今、それほど批判力がない》という部分の主張に同意できるかどうかは、なんとも微妙な所です。
そもそも幾原監督はインタビューなどでも近年の動向を総括した上で、新しい幸せの価値のようなものを提示したいと語っていたので、「僕らが予め失われた子どもだった」事を再確認した上で「新しい幸せの価値」にあたるものを提示しようとした事は、非常に真っ当に手順を踏んだと言えると思います。そしてそうした手順を踏んだ上で、「社会全体の救済」というような絵空事のハッピーエンドを描く事なく、高倉家を中心とした数名の救済に絞ったエンディングを描いたことは、とても真摯で潔いと感じました。ですが物は言いようなので、それを「思い切りに欠ける」と言われれば、「そういう意見があっても不思議はないね」、と思ってしまうところなのです。
しかし、「社会全体の救済を描かない」事は、サネトシという革命志向のキャラクターを「社会(=氷の世界)で苦しむ人達の代弁者」でありながら、オウムを連想させる組織を指揮するポジションに据えた時点で宣言していたようなものです。「社会全体の救済」のような(現状では)夢物語のようなエンディングを描かなかった事は、ある意味では一つの決断だったと思います。また、サネトシや高倉剣山がオウムを連想させる組織の人間であるにも関わらず、彼等の言動に明らかに監督の考えが投影されているという制作上のバランス感覚には目を見張るものがあった、というのは以前書いた通りです。(→ピングドラム20話感想 /「氷の世界」の説得力と「やさしい物語」 - さめたパスタとぬるいコーラ
それに今にして思えば、監督の「(現状では)叶いそうもない革命願望」を初めから勝ち目がないポジションのキャラクターに託していたのは、非常に戦略的だったとも思いますね。そういう意味ではあのエンディングは一長一短。「あえて」一長一短になるよう取捨選択したのだから、今回はその良い方を愛でたい、というのが率直な気持ちかもしれません。今回あえて捨てられた部分というのは、幾原監督の次回作なり、その他の作品なりで観れれば良いかな、と。
 
また、今回記事を書きながらググッていたら、偶然宇野さんが『ピングドラム』に関連するようなことを言ってる記事を見つけました。

宇野 誤解しないでほしいのは、ぼくは世界の変革をあきらめて想像力を封じ、現実を受け入れろといっているんじゃないんです。オールドタイプの思考法では、革命か、革命を仮構する仮想現実の構築だけが現実批判であり想像力の行使だということになっている。けれど、21世紀のこの世の中にそんな馬鹿なことがあるわけがない。拡張現実的な想像力による現実の多重化こそが、このグローバル化、ネットワーク化を成し得た現代においてはもっとも有効な現実への対峙であり想像力の行使だといっているんです。世界の構造が変化しているんだから、当然人間の構造に対するアプローチ、壁と卵の関係、政治と文学の関係も変わってしまう。20世紀的な「革命」思考に縛られている人が、まあ、仕方ないけれど40代以上に多すぎると思いますけどね、単純に考えて。
(中略)
正直もうそんな「革命を失ってしまったぼくら」みたいな自意識の問題はどうでもいいと思う。お前たちの、ぼくらの男性性が回復しようがしまいが、世界の構造の問題はまったく別にあるよ、と思うんですよね。村上春樹がどこでつまずいているかというと、9.11以降の暴力に立ち向かうと宣言しておきながら、いまだに暴力のイメージが新左翼とかオウム真理教なところじゃないですか(笑)。「革命を失ってしまったぼくたち」という自意識をうまく制御できない若者たちが、自分探しでサリンを撒いたり内ゲバしたりする、それが悪しき暴力だ、と。そんな奴らに抗体として文学の力で説教をして更生させようと。
 
ぼくはそれって、正しいか正しくないかでいったら、全面的に正しいとは思うわけ。世界の多様さを受け入れて、性急に発泡スチロールのシヴァ神を拝むのではなくて、つねに試行錯誤を繰り返して、トライアンドエラーを繰り返していく柔軟な知性が必要です……なんて、まったくその通りだけど、問題のレイヤーをはき違えている気がする。それって正しい「対処療法」だと思うわけ。一言でいうとグレそうな奴らを説教して潰していくということじゃん。
 
それをぼくは全然否定しないし、それはそれで必要だと思うわけね。正しいとは思う。でももうちょっと別の次元でものを考えないと、状況に対しての介入はできないんじゃないかとも思う。

http://synodos.livedoor.biz/archives/1813608.html

ピグドラムにおいて単純な「20世紀的な革命」が描かれなかったのは、まさにこうした前提があったからでしょうね。その上で出された答えに対して、宇野さんが《それほど批判力がない》と言ってるのは、それがやはり《正しい「対処療法」》に過ぎないと感じたからなのでしょうか。
 
僕はまだ『リトルピープルの時代』を読んでいないので、この記事を書く途中で色々グクってて気づきましたが、宇野さんの『ピングドラム』への食いつきはやはり『1Q84』繋がりもあったんですね。実は『リトルピープルの時代』は既に買ってあるんですが、『ゼロ年代の想像力』の最後らへんを読み切ってなかったのが気持ち悪くて、なかなか抜け出せない積ん読スパイラルに陥っていたりします…(笑)。
それにしても自分と微妙に意見が違う人の感想なり評論なりを見聞きして比較していくのは楽しいですね。何気に今月18日に放送される「ニコ生PLANETS」は『ピングドラム』がお題らしいので、そちらにも期待です。
 
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追記:思った通りに書けなかった部分があったので、こちらに反省+修正を書きました。
    →前回書いた『ピングドラム』・宇野常寛関連記事についての私的反省 - さめたパスタとぬるいコーラ