正義の味方の放棄、あるいはダークナイトになること(碇シンジの場合)

さめぱ は れぽーと を たおした!

さめぱ は かしこさ が 3 あがった!

さめぱ は とらっくばっく を おぼえた!

というわけで俺的『ヱヴァ破』論いってみようと思います。

やや旬を過ぎた話題ではありますが、http://alfalfalfa.com/archives/391121.html

以下のブログを読んでて↑この設問に対する考えがすげー面白かったんでご紹介。

選ばないという正義 - 未来私考

うーむ、『ダークナイト』を引き合いに出しての力説があまりにも素晴しい。

とりあえずリンク先の「相手の命を踏みにじって、勝手に相手の価値を推し量って、自分が選んだ選択についての責任から逃れようとする態度それこそが悪に屈するということなんだという強烈なメッセージなんです。」←この部分読んで電撃が走りました。自分はつい最近もこんな話を目の当たりにしていたではないか、と。そう、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』のことです。というわけで以下『ヱヴァ破』について『ダークナイト』の話を織り交ぜつつ、上記ブログの記事を見た前提で書いていきますので、ダークナイトエヴァ破のネタバレ怖い人は見ないで下さい。つーかその両作品のどちらか一方でも観てない方は確実に人生を大損してますので、今すぐTSUTAYAまでひとっ走りして借りて来て下さい。部屋を暗くして画面に近づいて大音量で見るのがオススメです。え?、破はレンタルがまだだって?か、買ってくれば良いと思うよ!

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『破』でゲンドウはシンジに言います。「大人になれ」と。

アスカが3号機に取り込まれ、シンジは選択を迫られることとなります。「殺るか殺られるか」。この場面でゲンドウは、迷わずシンジに使徒を殲滅するよう命じます。しかしTV版同様、シンジ君は「何もしないこと」を選び、結果、3号機はダミーシステムによってフルボッコにされます。ここで印象的な劇場版ならではのアレンジが、例のBGMと共に3号機が「食われる」こと。

『破』において「食」に関する場面は多く出てきますが、3号機殲滅シーンは前に出てきた多くの食関連のシーンを受けて、最高に悪趣味に味付けされて描かれます。アスカの乗る3号機を殲滅するよう命じたゲンドウにシンジ君は食ってかかります。どうしてあんなことをさせたのか。そんなシンジに対し、ゲンドウは「大人になれ」と言うわけです。

ゲンドウ「自分の願望はあらゆる犠牲を払い、自分の力で実現させるものだ。他人から与えられるものではない。シンジ、大人になれ」

シンジ「僕には、何が大人か分かりません」

ゲンドウがここで言う「大人」とは、自分の目的のために「誰かor何か」を犠牲に、踏み台にしてでも、次の段階に進むための決断が下せる人間のことである思うのですが、どう考えてもスケールやシチュエーションが14歳の少年には重すぎる・・・。シンジ君、TV版ではこのような「究極の決断」を「カヲルを殺すか否か」という形で再度迫られていました。そちらの方では自分の中で答えが明確に見つけ出せていない中途半端な状態でカヲルを殺してしまったことで、シンジは益々鬱々としていってましたね。

で、何が言いたいかというと、『破』ではゲンドウの「大人的」な行動、決断の象徴として、アスカの乗ったエヴァが食われているシーンがあるのではないかと思うわけです。つまり「大人になること」、「何かを犠牲にしてでも目的を達成すること」、「“食べる”こと」が関連付けられて描かれているのではないか、ということなんです。

庵野作品において“食”というのは、ヒロインが肉を食べないなどという形でいくつかの作品で共通して出てくる要素でしたが、ここまで露骨に前面に出てくることは今まで無かったんじゃないでしょうかね。今回のエヴァで僕が一番庵野監督っぽい、ドロドロした部分を感じたのはやはりこの編でしたね。

このように「大人」や「食」といったキーワードを踏まえておくと、TV版では“シンジが「成長」する/しない”という漠然とした図式だったのに対して、今回の新劇場版は“主人公の成長物語”としてより洗練されてきていることが浮かび上がってくるのではないかと思います。

既に挙げたシーン以外で「大人」というワードが出てきているシーンは二箇所あります。ひとつは映画冒頭の加持とマリの台詞。もうひとつがスイカ畑での加持の台詞ですね。スイカ畑で加持さんは自分の言葉で「大人はさ、ズルイくらいが丁度いいんだ」と言っているシーンです。やはり若干のニュアンスの違いがあっても、彼の言う「大人」も相手を出し抜いて自分が得できるような人のことですから、ニュアンスは違ってもなんとなくゲンドウの言う「大人」像と近い気がしますね。もうひとつのシーンで注目なのはやはりマリですね。「自分の目的に大人を巻き込むのは気後れするなあ・・・」なんて言ってますが、彼女の大人観というのはどんなものなんでしょうかね。マリ=マッキーキャラ(鶴巻監督色強いキャラ)だと考えるのはわりと自然な流れだと思うんですが、だとするなら鶴巻監督の過去2作品の大人観についても一度考えておきたいなぁ。しかしこれは次回への宿題のということで。前も書いた気がしますがマッキーの『フリクリ』なんてそのものズバリ、子どもである主人公が大人への階段をのぼるんだか駆け下りるんだかするアニメでしたからね。再考する価値は十二分にあると思います。

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旧シリーズのシンジは自分なりの最終的なもろもろの答え(TV版であれば「ここにいてもいいんだ!」、旧劇場版であれば「でもぼくはもう一度会いたいと思った。その気持ちは本当だと、思うから」)に到るには

(1)挫折「命の選択を」(トウジフルボッコを目の当たりにして逃げ出す)→(2)成功「男の戦い」(僕はエヴァンゲリオン初号機パイロット碇シンジです)→(3)挫折「最後のシ者」(カヲル君殺人事件→また逃げ出す)→(4)成功「世界の中心でアイを叫んだけもの」/「まごころを君に」(TV版、旧劇場版両方で自分なりの結論を出す)

と、男の戦いの後で少なくともワンクッションおいているのに対して、新劇場版でのシンジはもろもろの答え(「いいんだもう・・・。これでいいんだ」)に至るのに一段以上飛ばして

(1)挫折 アスカフルボッコエヴァに乗らないって決める)→(2)成功 「あやなみを・・・かえせ!」(これでいいんだ)

という風に、(2)の、旧版では「男の戦い」に相当する段階で、新劇場版はシンジの成長物語としては一気にカタをつけにかかっているように思えます。『破』の最後でシンジはもう、TVシリーズの最終回や旧劇場版の最後での「何かを悟った境地」に到達してしまっているように思えるんですね。このあたりのスピード感というか、話の圧縮具合が『破』を脳汁ドバドバものの傑作にしているんだと僕は思います。しかしこれはあくまで旧シリーズを見ての感想ですから、当然旧シリーズ未見の一見さん的にはついていくのがつらい所でもありそうな気がします。というか知人の一見さん達がそう言っていました。だからあれほどTVシリーズと旧劇場版を少なくとも3回予習した上で見ろと言ったのにっ・・・!

しかし『破』の最後でシンジが下した決断ってこれ超絶燃え展開ですけど、多分「正義の味方」の行いからは外れてしまっているんですよね。だって「僕がどうなったっていい。世界がどうなったっていい。だけど綾波は・・・せめて綾波だけは、絶対助ける!!」シンジはここで「女の子」と「世界」を天秤にかけて、明確に「女の子」のほうを選んだことを宣言しているわけじゃないですか。これってもちろん旧シリーズでは見られなかった展開で、旧版ではシンジはカヲルのときを除いて「決断拒否」(「命の選択を」)または「思考停止」(「Air」)に陥っています。いえ、決断拒否だの陥ってるだのと今僕は言ってしまいましたが、決断を拒否することも思考を停止させてしまうことも、どちらも立派な決断と言えなくはありません。シンジはそれを「逃げ」なのではないかと常に自問自答していましたが。ここでまたちょっと「未来思考」さんの記事から引用しましょうか。

「家族を人質に取られ罪なき人を殺す人間を誰が責められると言うのか。誰も責められはしない。だけどもそれは選んではいけない選択肢なんです。念を押すけれども、どっちが正しいという問題じゃない。自ら背負いきれない責任を突きつけられた時は、その選択そのものを放棄することこそが勇気であり正義なんだ、ということなんです。

 もちろんその責任を背負い、選択をしなければならない立場の人間というのもいる。選ばないで両方救うと決意したとしても結果としてどちらかしか…あるいはどちらも助けられないということもある。人間である以上、感情に流され選んではいけない選択肢を選んでしまうこともある。だけど選んでしまった以上はけして正義は名乗ってはならない。バットマンが、正義のヒーローではなく、闇に住むダークナイトとなったのは、自らが正義ではないことをこれ以上なく自覚したからなんです。」

いやあ痺れますね・・・・・なんて感慨に浸ってる場合じゃなかったw

僕が言いたいのは、最後のシンジの決断がネルフやクラスメートや世界中の人々に望まれていた「期待正義の味方としてのシンジ」からは外れ、完全に「俺ルール」に従って行われている、ということです。最後ミサトさんだけはそんな行いを肯定してくれてますが、これって実はかなり凄い決断ですよね。だって旧シリーズでは「だからみんな、死んでしまえばいいのに」だったのが、「だから綾波以外死んでしまってもいいや!」になってるわけだからw

いや、別に「だからみんな、死ねばいいのに」ってのが旧シンジの最終的な決断だったわけではありませんが(笑)しかし『破』での「綾波だけは助ける」というシンジの決断は、下手をすると旧劇場版の「なにもしない」よりもヤバいものになっていたと思うのです。ですがこのシーンがエヴァ屈指の燃えシーンたり得ているのは、やはりシンジにそれまで様々なことで悩み、挫折し、復活してきた経緯があるからなんだと思います。だからこそ、シンジの今までの苦しみを誰よりも分かっているミサトの言う「行きなさいシンジ君!」の重みが増してるんじゃないでしょうか。

ミサト「行きなさいシンジ君!誰かのためじゃない、あなた自身の願いのために!」

『序』の時から使徒のパワーアップやミサトとシンジの関係性の整理が指摘されていましたが、やはりここでそれが一番活かされていると思います。ミサトが「行きなさい!」というシーンでリツコが一瞬驚く場面が入りますが、これがまた良いんです。リツコの新劇場版での役回りというのは今のところ他の主要キャラと違い、旧シリーズと殆ど変わらないものでしかありません。そんなリツコがシンジの行動を後押しするミサトに驚いてみせることで、観客は旧シリーズではありえなかった、前向きなシンジや良い保護者としてのミサトへの感慨をよりいっそう感じたのではないでしょうか。

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散々破綻していると言われる旧シリーズですが、ちゃんと見れば旧シンジも「でもぼくはもう一度会いたいと思った。その気持ちは本当だと、思うから」と言って「保管計画を拒否する」という選択をしています。しかし現在取り沙汰される旧シンジ像としては、もっぱらTV版終盤や旧劇場版序盤でのグズグズしていたシンジ君なわけですよね。確かにあのようなシンジ君の態度には強く反発する人も多かったです。しかしそれでも相当数の「シンジ君は僕なんです」な人を惹きつけた事実もありました。未来思考のGIGIさんがどう思われてるかは分からないんでこれはあくまで私見ですが、上記で既に引きました「自ら背負いきれない責任を突きつけられた時は、その選択そのものを放棄することこそが勇気であり正義なんだ、ということなんです。」という考えのもとで言えば、やはり旧版のシンジの選択も僕には強く批判できない、強い説得力を感じてしまうんです。

しかし新劇場版のシンジの選択は今までさんざん挙げてきたように、旧版シンジとは全く異なります。自分達が育てたスイカを踏みにじって、しかも綾波まで奪った使徒を許しはしないし、世界なんて放り出してでも綾波を助けようとしちゃいます。しかしそんなかっちょいいシンジ君、いや、「シンジさん」(笑)に“待った”をかけた命知らずなカヲル君。今のシンジさんを怒らせたら怖い気がしますが、彼の命運は庵野のみぞ知る・・・・ということで「Q」以降を楽しみに待ちたいと思います。

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なんかやや投げやりなまとめですが、言いたいことはだいたい言った気がするのでこのへんで。・・・・・と思ったけどもう一点だけ。

今回の『破』は劇場で公開されたバージョンとDVD/BDに収録されたバージョンで追加シーンがあったり修正シーンがあったりしますよね。なかでも修正されたシーンで上記に関連して気になった部分っがあったのでそこだけ紹介しときます。

恐らく気がついた方は多いと思いますが、今回のDVD/BD版ではアスカが初号機にフルボッコされる場面でゲンドウが「ニヤリ」とほくそ笑むシーンと、シンジが最後の使徒との決戦時、恐慌状態で気持ち悪い笑みを浮かべながら相手をフルボッコにするシーンがそれぞれ修正されていました。修正版ではゲンドウはより寡黙な表情になっていて笑っている感じではなくなり、シンジは必死の形相で相手をタコ殴りにしているだけに変更されてました。

たしかにあの二つのシーンは劇場公開当初かなり不満が上がっていたので、今回の修正は妥当でしょう。僕もアスカが殺されかけてるのにニヤニヤしてるゲンドウや、旧シリーズのようにイカレた笑顔でエヴァを操縦するシンジには違和感を覚えていたので。しかし実はこの二つの「笑顔」はそれぞれかなり象徴的な場面で行われたものでもあったと思うわけです。

まずゲンドウの方はエヴァやシンジを利用し、使徒とアスカを惨殺してでも自分の目的を遂行しようとしている場面でした。つまり上記の僕の考えでいけば、「大人」な行いをしている場面。僕はこの場面でゲンドウが全く罪悪感を覚えて無かったとは思いません。しかしその罪の意識を押し殺してでも目的を遂行しようとした時に、あんな顔になってしまったのではないでしょうか。シンジ君の劇場公開時の表情も、そんな「表情」を演出しようとしての事だったのではないかと、僕なんかは妄想してしまったのでした。

それでは最後に『ダークナイト』で登場した映画史上に残る「最狂」の悪役、ジョーカーの台詞を引用しつつ、このエントリを締めくくりたいと思います。

銀行員「仲間を殺して得意か?お前もボスから同じ目に遭わされるぞ。昔の悪党は信じてた、名誉とか敬意ってものをな。今どきの悪党はどうだ?信念はあるか?」

ジョーカー「俺の信念はこうだ。“死ぬような目に遭った奴は―――イカれる”」