『京騒戯画』3話感想 後付けのチート性/ウサギ人形とPSP型リモコン

■構成の妙
昨晩放送された3話では、Web配信版第2弾2話「ショーコ、科学者慌て窮す」におけるショーコ博士を中心としたドタバタ劇に、テレビ版からの要素として、鞍馬のドラマが付加されていた。

何よりも面白いのは、ショーコや伏見(ショーコの部下)を中心とした話だった「ショーコ、科学者慌て窮す」が元になっているにも関わらず、テレビ版の3話では、後付けであるはずの鞍馬の話の方が、ドラマの中心にすり替わっている点だ。3話でのリモコンを巡るドタバタ劇は、あくまで鞍馬が八瀬の人形を見つけたエピソードの反復に見える。しかし、「ショーコ、科学者慌て窮す」には、そもそも人形のエピソードは無かったのである。
既に公開済みのエピソードが、後付け的に面白く見えるよう細工されていて、構成の妙を感じる。これが可能となるのも、元々Web版が世界観とキャラクターの設定を作りこんだ上で制作されたものだったからだろう。
 
■鞍馬と八瀬、伏見とショーコ
3話において、伏見はかつての鞍馬と同じように捜し物を見つけ出す。鞍馬と八瀬、伏見とショーコの「モノをなくして暴れる側←→モノをみつけてなだめる側」という対比が反復されることによって、伏見が鞍馬と同系統の思想を持っていることが印象づけられる。
ショーコは伏見ほど鞍馬と思想を共有している感じはしないが、「我ら科学班は、間もなく鞍馬住職と共に外に向かう」みたいなことを言っていたし、やはり大まかな理念は一致しているようだ。
しかし、あくまで「モノをなくして暴れる側←→モノをみつけてなだめる側」という対比に則して考えると、ショーコは幼いころの八瀬ポジションに該当する。

八瀬は、鞍馬と度々対比されているキャラクターである。
大人びたキャラクターとして描かれる鞍馬に対し、八瀬は1話で明恵に「人が死なず、産まれず、上人とコトの決めた通りに全てが動いていく。おかしいと思わないのか?俺たちはいつまで子供でいればいい?」と問われ、「私はママといられたらそれでいい」と答えていた。『京騒戯画』において「子供と大人の対比」というモチーフが重要な位置を占めているのは、このやりとりからも明らかだ。そして、いつまでたっても幼いままだった八瀬は、おそらく鞍馬から強引にウサギの人形を没収され、強制的に大人への成長を促されたのだろう。

鞍馬 私は常に、我々にとっての最善を選択しているつもりだよ。
八瀬 昔、お人形を“流された”のは、私にとって最悪だったわ。

 
人形への執着は、子供っぽさの象徴として扱われる。今回これに対応するモノが、(明らかにゲーム機の形状をした)ショーコのリモコンである。

ショーコがフィギュアやメカを愛し、コトの兄弟・阿吽に「オタク」呼ばわりされているのには、制作者の意地の悪さを感じる。
リモコンを探して街を走り回るショーコに向けられた八瀬の視線がちょっぴり切ないのは、自分の姿を投影しているからだろうか。