『エヴァ』旧劇場版感想 悪趣味な快感

テレビ版全話感想を書いたことである程度満足していたのだが、ここまで来たからには旧劇場版『THE END OF EVANGELION』(以下『EOE』)について書かないのは色々不実な気がしたので、やはり書くことにする。テレビ版の感想同様、『エヴァ』のテレビシリーズと旧劇場版、新劇場版をひと通り観ていることを前提として書いているため、当然ネタバレはあり。
まず『EOE』についての大まかな感想を、次にその他細かな感想を書いていく。なお、テレビ版は主に旧マスター版DVDで鑑賞したが、『EOE』はリマスター版で観た。本当は旧マスター版で観てみたかったのだが、見事にレンタルされてしまっていた……。いずれ旧マスター版で観返したい。
 
■補完の快感

ミサト「シンジ君?……ここから逃げるのか、エヴァーのところに行くのかどっちかにしなさい。このままだと何もせずただ死ぬだけよ!?」
シンジ「たすけてよアスカ…たすけて……(ボソボソ」

ミサトさんのロジックはむちゃくちゃだが、確かに普通ならエヴァに乗ってもらうようなりふり構わない説得を試みる。ただ会話はひたすら咬み合わない。シンジはひたすらボソボソ「死にたい…死にたい…」とか行ってる。
エヴァを作ってた頃に庵野監督が死にたい死にたい言ってたのは有名なエピソードである。『パラノ・エヴァンゲリオン』での「庵野秀明欠席裁判」と題されたメインスタッフの座談会では、庵野に近しいスタッフ達が庵野の死にたいアピールをかまってちゃん的な行動として、批判的に取り上げていて興味深い(pp168-172)。
さらに注目したいのが、死にたいアピール批判の少し前に出た、大月俊倫プロデューサーの証言だ。

庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン (\800本 (10))

庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン (\800本 (10))

大月 (引用者注:テレビ版の)二十五、二十六話の前に話し合いをして、もう次からどうのこうのって(作品が作れないというような)辛辣な状況になった時に、いまだに覚えてんだけど、テレ東のプロデューサーと三人で新宿で飲んでて、庵野さんがもう『エヴァ』やめる、という話になった時があるんですわ。まあ本当にやめる気だったかどうか、それは本人しか知らないでしょうけど。それで、やるならやるという根拠を示せと言われたんですよ。
竹熊 庵野さんから?すごいこと言いますね。
大月 それでね、だから庵野さん、ちゃんとやってくださいみたいな。テレ東のプロデューサーは女の人だったから、女の理論で攻めてたんだけど。まあ、庵野さんはこんな顔してるわけだ。それで、私からもきつい本音というのを聞きたかったらしくて。だから私も割と幼児体験っていうか、父親はアル中で病院に入ってたものですから。私、それで三歳の時に父親の頭を包丁で刺したことがありまして(笑)。その話を聞きたかったらしくて。
 もうだから、このままだとテレビ(放映)は止まっちまうし、どうしようもねえからと思って、まあ最後の私の決め手で、そういう人生の大事態で自分はどう対処したかという話を、もう一生懸命したら、「やる」と言ってくれて。私はもう『エヴァンゲリオン』と言ったら、あの新宿の夜ですわね。それがすべて。
竹熊 庵野さんが降りると言い出して。やめると言い出して。
大月 うん。これ以上俺は傷つきたくないし、もうやっとられんと言って、どうのこうの言ってくるから、「世間をなめるな」と私は言って。それで私の原体験みたいな話をして。そしたら目がキラキラして来ました。よっぽど嬉しかったんでしょうね。人の悲惨な話聞くのが(笑)。
竹熊健太郎・編 (1997) 『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン太田出版 pp.154-155

庵野監督と大月Pのこのやりとりに、『EOE』の、ひいては『エヴァ』という作品全体の魅力が凝縮されていると言っても過言ではないと思う。『エヴァ』には「他人の不幸話を聞く」カタルシスが根底にある。
僕は『EOE』を観ていて、「なんか今の俺鬱っぽいし、皆しんじゃえって気分だし、とりあえずここで手当たり次第に殺しておくか」というテンションが大好きだ。病んでいるらしい庵野監督の気分を追体験した気分になれる。さらに後半は「でも僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは、本当だと思うから」と、鬱気分を克服したような感じになり、なんだかこっちも幸福な気持ちになってくる。幸福になったところを「やっぱやーめた」と、「気持ち悪い」で締めるのも悪趣味極まりなくて最高だ。
「悪趣味」であるというのは『エヴァ』を語る上で切り離せない部分だと思う。他人が内に秘めている暗部を覗き見たいという気持ちや、自分の暗い部分を見せつけたい気持ち。相手のトラウマを聞き出しつつ、自分もストリーキング的に振る舞うという倒錯した快感である。
そうした感情は気持ち悪さと表裏の関係にある。通常の娯楽作品では気持ち悪さを避けるため、そのようなものはなるべく除外されるが、『エヴァ』の場合は殆ど露悪的ともいえる態度で迫ってくる。テレビシリーズでミサトやアスカが過剰に生々しく描かれたのもそのためだろう。彼女らは他人と関わると、他人の中に自分の嫌な面を見出してしまう。自分の嫌な面は自分でも見たく無いし、ましてや他人にも見せたくない。しかし人と人が接すると、そうしたものがにじみ出て、相互に伝播してしまう。そうやって伝播してしまう「気持ち悪い」ものを、アニメという枠で見せつけようとしたのである。

アスカ「ああ、もう!あんた見てるとイライラすんのよ!」
シンジ「自分みたいで?」

 
庵野監督が「創作とはオナニーショウである」と語ったことは有名だが、あの表現は『エヴァ』を実に的確に表している。アニメという表現媒体でやっいるからいいものを、本質的には道端でやったら変質者として通報されるレベルだ。

参考
ミサトとアスカが他人の中に自分の嫌な面を見出してしまう点については、テレビ版感想の以下のエントリで触れた。
『エヴァ』テレビ版感想:12話 なぜミサトは苛立っていたのか
『エヴァ』テレビ版感想:22話 人形になりたかったアスカ

 
■シンジはどうダメだったのか

シンジ「僕は…ダメだ。ダメなんですよ。人を傷つけてまで、殺してまでエヴァに乗るなんて、そんな資格無いんだ。僕は、エヴァに乗るしかないと思ってた。でもそんなのごまかしだ。何にも分かってない僕には、エヴァに乗る価値も無い。僕には人のためにできることなんて何にも無いんだ。アスカに酷いことしたんだ。カヲル君も殺してしまったんだ。優しさなんか欠片も無い。ずるくて臆病なだけだ。僕にはひとを傷つけることしかできないんだ。だったら何もしないほうが良い。」

「何にも分かってない僕には、エヴァに乗る価値も無い」というのは19話の感想で触れた、行動の前に「納得」を重んじるシンジの心理が現れている部分に思える。『エヴァ』テレビ版感想:19話 『エヴァ』を貫くテーゼ
また、「アスカに酷いことしたんだ。カヲル君も殺してしまったんだ。優しさなんか欠片も無い。ずるくて臆病なだけだ」というのは、4話「雨、逃げ出した後」での心理を反復している。平たく言うとコミュ障として生きてきたことの後悔&自己嫌悪。

「殴られなきゃならないのは僕だ。僕は卑怯で、臆病で、ずるくて、弱虫で…」言葉はトウジ達にぶつけられているのだが、その実、シンジがミサトとうまく対話できなかったことへの悔しさがにじみ出ている

『エヴァ』テレビ版感想:4話 第一部完!

 
■アスカがされた「酷いこと」とは何か
シンジの「アスカに酷いことしたんだ」という台詞が何を指すか、というのは意見が分かれそうな所だ。「Air」冒頭の自慰行為のことであるとする考えもあるだろうが、個人的にはシンジがアスカに加持の死を雑な形で伝えたことではないかと思っている。
シンジがミサトに「酷いことをした」と告白する場面では、シンジは自身のコミュ障っぷりが原因で他人を傷つけてしまったことを嘆いている。となると、相手がシンジの行為に気づき、傷ついていなければシンジが嘆く理由とならないのではないか、と思うのだ。確かに補完計画が発動してからは「バーカ、知ってるのよ、アンタが私のことオカズにしてること。」という台詞があるが、あれは補完計画前の時点では、「正確な情報」としてはシンジとアスカの間で共有されていないはずだ(直感的にシンジのいやらしい目線等には気付いていたのかもしれない)。

また、話題が「アスカに酷いことしたんだ。カヲル君も殺してしまったんだ。」と、アスカ→カヲルの順で出されており、なんとなくこれが時系列に即しているような気がするためというのもある。
 
■ミサトのシンジへの態度

シンジミサトさんだって他人のくせに!なにもわかってないくせに!」
ミサト「他人だからどうだってぇのよ!」

この場面からアスカの戦闘に入るまでのシークエンスは泣けて仕方ない。
テレビシリーズを観るとミサトは保護者として実にクズで、ダメなのだが、あそこで「他人だからどうだってぇのよ」と、自分の思っていることを全てぶちまけながらシンジを説得しようとするところでどうしようもなく泣けてしまう。
先に紹介したように、12話においてミサトは相手に合わせて態度を変える、表層的な付き合いをするシンジに同族嫌悪的な苛立ちを見せたが、ここでのミサトの接し方には表層的なものは無い。直後、シンジは唇についたミサトの血痕に気づく前から泣いている。ミサトの死を確信する前から、ミサトのメッセージは少なからず届いていたはずだったのだ……。
ただ、少なからず届いていても、所詮それは「初号機が特殊ベークライトで固められているからどうしようもない」と諦めてしまう程度にしか届いていないので、『EOE』はどこまで行っても『EOE』である。

 
■「死ぬのは嫌」
母親の「死んでちょうだい」「生きていなさい」といった声が聞こえてくる中で、「死ぬのは嫌」と繰り返すアスカ。このシーンについては以前一度触れたので、そちらを引用するだけに留めておく。

『EOE』においてアスカは「死ぬのは嫌」という台詞を連呼する。これは母親の「一緒に死んでちょうだい」という言葉に対し、文字通り自分は死にたくないという意味もあるだろう。しかしそれに加えて、文字通りの肉体の死ではなく、他人の心の中から消されたくない(=「だから私を見て」)という意味も含まれているのではないか。他人に求めて貰いたいという気持ちに素直になれたとき、再び2号機とシンクロできるようになったのもうなずける。

『エヴァ』テレビ版感想:22話 人形になりたかったアスカ

 
青葉シゲルの活躍
ノリノリで撃ち合いに興じる青葉シゲル。たぶんギターを弾いてるときと同じくらい目がいきいきしてる。きっと休日の趣味はサバゲー

 
■ゲンドウ案に殉ずるネルフ職員の謎
ゼーレと全面戦争に突入するネルフ日向マコトがマヤと青葉シゲルとの会話の中で「補完計画の発動まで自分たちで粘るしかないか」と言っていることから、補完計画がいつのまにか公然の事実となっていたことが分かる(この三人が情報をちょろまかしていただけという可能性もあるが)。この時点でネルフ職員達はゼーレとの全面抗争でもれなく玉砕する覚悟があったということだろうか。この辺謎。そもそも補完計画のことはつい最近までミサトすら知らなかったのに。
そもそも補完計画自体倫理的にアレな部分が多い。ゲンドウとゼーレの補完計画の違いも判然としないし、職員が全会一致でゲンドウの計画に賛同していたとはとても思えない。やはり末端職員は特に何も知らされずに殺されてる気がする。
 
■補完計画の差異
ゲンドウとゼーレの補完計画の違いを未だによく理解してなかったので、久しぶりに色々調べてみた。ゼーレはリリスの卵=黒き月へと還り、贖罪と共に新生すべきとしているのに対して、ゲンドウは初号機を依り代とする「より神に近い存在」への進化を望んでいるということらしい。
元々ゼーレ案ではリリスを依り代に補完計画を発動させるつもりだったが、ゲンドウが裏切ったことによりリリスは使えなくなった。そこで仕方なく、リリスを元に作られた初号機を依り代に選んだということか。ゲンドウからしてみれば初号機が依り代とされた時点でどのみちユイとは会えるわけで、最後までゼーレと対立していたのはゼーレと思想的な面で相容れなかったからか。世間で言われているほど、ユイに会いたいだけのマダオではないのかもしれない。
まあ謎解きや考察についてはより詳しいところがあるので、そちらを参照してもらったほうが良い気がする。僕が見た範囲では以下のサイトが一番分かりやすくまとまっていた。昔からある老舗サイトなので一度は目にしたことがあるひとが多いかもしれない。

参考
ページ移転のお知らせ
ページ移転のお知らせ
上の記事を読めばおおまかな対立は把握できると思う。下は「補完計画」が『エヴァ』の企画から映像化までの経緯の中でどのように変遷していったかをまとめていて面白い

 
■「気持ち悪い」
人と人とが関わりあいを持つと、自他の内面は少しずつにじみ出て、相互に伝播してしまう。これを人為的に促進するのが人類補完計画であり、『エヴァ』というアニメだ。この行為には相手の嫌な面を覗きこんだり、覗き込まれたりするという「気持ち悪さ」が伴う。最後にアスカが「気持ち悪い」と言い放つのは、そうした行為を客観視した、まさに「冷水を浴びせる」ようなものだ。しかしそれは、作品のテーマをより浮き彫りにするものでもある。

ラストのアスカの台詞は、当初の予定では「あんたなんかに殺されるのはまっぴらよ」であった。これが「気持ち悪い」へと変更になった理由はアスカ役の宮村優子BSアニメ夜話で語っている。

http://johakyu.net/lib/2009/01/2009-01-08-000877.php
 
最後のセリフはほんとは「気持ち悪い」じゃなくて「あんたなんかに殺されるのはまっぴらよ』だったんです。けど、最後、何回もそれを言ったんだけど『違う、そうじゃないだ、そうじゃないんだ」つって長い休憩になって
(中略)
もし、宮村が寝てて、自分の部屋で一人で寝てて窓から知らない男が入ってきて、それに気づかずに寝てて、いつでも襲われる状況だったにも関わらず、襲われないで私の寝てるところを見ながら、さっきのシンジのシーンじゃないですけど、自分でオナニーされたと。で、それをされた時に目が覚めたら、何て言うって聞かれたんですよ。前からもう、監督変な人だなって思ってたんですけど、その瞬間に気持ち悪いと思って「気持ち悪い…ですかね」とか言って。そしたら「やっぱりそうかぁ」とか言って。やっぱりそうかって言うか…。

僕はこの変更を、庵野監督が元々意図していたストーリーに必要だった台詞を、テーマにより即した形にするために行ったものであると解釈している。
では元々の意図とは何だったのか。『EOE』本編では、補完計画が発動するきっかけに、以下のような場面がある。

シンジ「何か役に立ちたいんだ。ずっといっしょにいたいんだ。」
アスカ「じゃあ、何もしないで。側に来ないで。あんた私を傷つけるだけだもの。」
シンジ「アスカ、助けてよ。アスカじゃなきゃだめなんだ。」
アスカ「嘘ね。あんた、誰でも良いんでしょ。ミサトもファーストも怖いから。お父さんもお母さんも怖いから。私に逃げてるだけじゃないの。」
シンジ「助けてよ。」
アスカ「それが一番楽で傷つかないもの。」
シンジ「ねえ、僕を助けてよ!」
アスカ「ほんとに他人を好きになったことないのよ!自分しかここに居ないのよ。そんな自分も好きだって感じたこと、無いのよ!……哀れね。」
シンジ「助けてよ……。ねえ。誰か僕を、お願いだから僕を助けて。助けてよ。助けてよ。僕を助けてよ!一人にしないで!僕を見捨てないで!僕を殺さないで!」
アスカ「嫌……。」

上記の場面は「現実」なのか「補完された世界」のか、曖昧に描かれていてよく分からない。前後には過去のテレビシリーズに登場した場面も挿入されているため、個人的には実際に起こった出来事を、抽象度を高めて見せているものと理解している。
ここで主に非難されているのはシンジだが、テレビ版で見てきた通り、「誰でも良い」から他人に必要とされたい、でも「演じられた自分には違和感がある」といった悩みは、シンジ、アスカ、ミサトに共通するものだ。これを僕は24話の感想で、キャラクターのコアの部分に庵野さんいるからであると書いた。

カヲルに優しくされてコロっとデレるシンジ。
この優しくしてくれるなら誰でも良い感じがリアル。前回ミサトがシンジの手を握ろうとしたり、ペンペンに声をかけたりしてたのや、以前アスカが加持にかまってもらえずシンジで欲求不満を発散しようとしていたのに近い。このように一部のメインキャラが根底にかまってちゃん気質を共有しているのはコアに庵野さんがいるから。

『エヴァ』テレビ版感想:24話 僕に優しくしてよ!

 
『必要としてくれる人は「誰でも良い」が、「本気で必要」としてくれる人でないと嫌』
本来これは勝手な言い分で、このような人付き合いでは、カヲルのように相手の人格を全肯定してくれるような都合の良い存在でも見つからない限り、なかなか関係は深化できない。ところがシンジとアスカの場合は、両者共に、『必要としてくれる人は「誰でも良い」が、「本気で必要」としてくれる人でないと嫌』という性格なのだ。これでは上手く行くはずがない。
シンジはさらに一歩踏み込んで、「僕を殺さないで」と懇願するが、そのままアスカに断られてしまう。この時点でかまってちゃん気質だったシンジに、殺意が芽生える。「僕を殺さないで」というのはアスカの「死ぬのは嫌」同様、「他人に求めて貰いたいという気持ち」の現れだ。その気持を、「嫌」と否定されることは、真に「求めてもらえない」ことを意味する。
ここで疑問なのが、シンジが真に「誰でも良い」のであれば、相手の首を絞めようと思わないのではないか、ということだ。シンジがアスカの首を締めたのは、「誰でも良かった」なりに、「否定されたくない人」でもあったからだ。真にアスカを求めていたのではないかもしれないが、アスカに拒絶されるのは他の他人に拒絶されるよりも「嫌」だったのである。

そんな清濁入り乱れた感情を補完計画中に確認し合った後、シンジは再びアスカの首に手をかける。そこでアスカはシンジの頬を撫でるのだが、これはシンジが「アスカに拒絶されるのは他の他人に拒絶されるよりも「嫌」だった」ことを再確認して、その気持を部分的に認めたからではないだろうか。
これを念頭に「あんたなんかに殺されるなんてまっぴらよ。」という台詞について考えると、アスカもシンジに「殺される」=必要とされなくなるのは「嫌」と感じる部分があるということになるのではないか。
実際の劇中では「気持ち悪い」という台詞となっていたが、これは補完計画の最中、人々の清濁入り乱れた感情を見てしまったことに対する素直な感想ではないか。
 
 
 
■終わりに
気持ち悪すぎて最後の部分を読み返す気力が起きない。僕は綾波ミサトさんもリッちゃんも好きだけど、結局アスカが一番好きなので、『EOE』を観てはラストシーンをシンジにとって都合の良いよう咀嚼しようと躍起になってしまう。かつて考察系のサイトをめぐったら、「首を締めたのは愛情の裏返し」みたいなことが理屈屁理屈こねくり回しながら書いてあり、それを読んでそれはもう気持ち悪く感じたものだが、一周して自分も似たようなことを書いてしまっていて死にたくなる。

このように(?)、『EOE』を観たあとに感じる「終わった」感は半端ではない。シンジは初号機の中で補完計画の是非を問われる際、ミサトのクロスを見つめながら「でも僕はもう一度会いたいと思った。その気持は本当だと思うから」と、現実へと戻る決意をする。コミュ障だらけの辛い現実世界に戻ろうと決意しただけ、シンジ君はまともなのだ。『EOE』を公開から十五年経っても年に一回以上観返してニヤニヤしている僕よりもよほどまともである。テレビ版からのエヴァにこれ以上のエンディングはありえないと本気で思っている。だから新劇場版が当初の予定通り終盤の展開だけを変えたものではなく、中盤から話を分岐させるような形となっていったのには必然性を感じる。

 
庵野監督が再び『エヴァ』に着手すると聞いた時は正直不安だった。しかし蓋を開けてみると、かつての『エヴァ』からは考えられないほど、色んな人に観られる作品へと新生していた。
エヴァ』が一回終わった作品であるにも関わらず、僕が新劇場版シリーズを嫌いになれないのは、あの時のシンジ君や庵野さんではできなかったことをやろうとしているからだ。これは明らかに挑戦で、応援したくなる。今度のシンジ君は心のなかではなく、現実のなかで成長するだろう。現に『破』までは順調に成長してきている。僕にとって彼はかつてのシンジ君ほど共感できる存在ではないかもしれない。でも「気持ち悪い」快感は『EOE』で極地まで行ってしまった。これをもう一度やるのはバカだ。新劇場版ではこのまま「気持ち良い」話を続けて欲しい。
 
テレビ版の感想にはじまり、『EOE』の感想まで、どうにかこうにか新劇場版『Q』の公開までに書き切ることができた。毎日感想を書くのに長時間拘束されたが、それは不思議と苦ではなく、最後までテンションを維持したまま観れたのは良かった。特にテレビ版はある程度期間を空けて観返した分、新しい発見も多かった。限られた時間で感想をまとめねばならなかったので、いつも以上に読みにくい構成となっていたかもしれないが、そこはご容赦を。
さて、明日はいよいよ『Q』公開だ。「気持ち良い」話を続けて欲しいと書いたが、『序』制作発表時の庵野監督の所信表明の通り、「エヴァは繰り返しの物語」でもある。健全な終わり方を目指しているらしいからといって、途中も全て健全とは限らない。不健全な『エヴァ』に若干期待しつつ、劇場へと向かいたい。
 
・『エヴァQ』感想→『ヱヴァQ』感想 シンジ君は『Q』で底を打ちました
・全話感想もくじ→『エヴァ』テレビ版〜旧劇場版/『新劇場版:Q』全感想目次