ハーバード白熱AB教室

実は大学で倫理学の講義をとっているんですが、そこで出た「メタ倫理学」についての話が絶妙に『Angel Beats!』に絡められそうだったんで、今回記事にしてみました。なんか最近エンジェルビーツネタばかりですが、まあ鉄は熱いうちに打てって言いますしw。
今回のネタに行くにあたって、まずはまたまた例のアニメーターさんのブログ記事を取っ掛かりにしたいと思います。ファン心理としてムっとしてしまうような部分があるのは確かですが、参考にできる点が多い記事ではあると思うんですよね、これw。ググったら元記事は削除されているものの、一応別のエントリで再upされているようなのでそっちのurl張っておきます→ http://yaplog.jp/aslog/archive/928
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で、今回リンク先で注目したいのは、一部前回取り上げた部分と重複しますが、AB世界における「倫理観」についてです。以下上記ブログからの引用
「(AB!で問題なのは)この世界での倫理観がバラバラなことです。倫理観というのが誤解されそうならフィクションラインと言い換えてもいい。
最初に、この世界は死後の世界だからもうだれも死なない。「一回死んで来れば?これはこの世界でのギャグよ」というわけです。
実際、主人公はハルバートで100ヒットされて血だらけになっても、天使に串刺しにされても死なない、、、生き返る。ギルド降下作戦、と銘打って、自分たちの仕掛けた罠でつぎつぎ人がやられていくけど、あのバカ、みたいな感じで、死、「やられる」ことは日常茶飯事になってる。
そういうアニメなのか、と思って見ていると、直井とか言うのがいきなり出てきて、
SSSの連中が大負けする場面になると、「今までにないひどい戦い」とか言いだして、
SSSのメンバーが死屍累々な場面を映して「これがいけないことだって分かるな?」とか天使に言ってうなづかせたりするわけです。この惨状を悲しめと。ここでは直井という奴のやることが悪になってる。
死をネタにするのがよくない、不謹慎だ、とかよく言われてますが、違うんですよ。死なない世界での、不謹慎ネタを前提にしたならそういうアニメですむんです。
「トラップで死んだSSS」と「直井にやられたSSS」の間にどんな差があるというのか??要はその時点で味方のしたことはギャグで済まされて、敵対している人間の仕業は悪、という都合のいいブレが随所にでてくる。そこが問題なんです。
そこで「お前の人生は本物だったはずだろう!」なんて一席ぶたれても説得力ゼロじゃないですか。何の根拠があってそういうことがいえるの?
」※冒頭の括弧内記述は引用者による
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確かにリンク先で指摘されている通り、AB世界での「死」に関する倫理観の統一性のなさは僕も見ていて気になるところではありました。しかしこれは話も進み、ABの学園世界が不遇な人生をとげた主人公達の「救済装置」であると分かった今では、妙に納得のいってしまう部分でもあるのですよね。毎度くだらないミッションをこなしている戦線メンバー達ですが、前回放送された12話のガルデモメンバーの台詞からも分かるように、いつしか彼等にとってミッションというのは手段から目的へとすり替わるっていたわけです。
ガルデモメンバー:「踏ん切りがついたっていうかさ」,「いわれなくてもわかってたんだけどね
いわば彼等は現世で受けた理不尽を吹っ切るストレス発散のためにあの学園世界にいるわけですよね。なのでそのストレス発散のため、自分達で決めた「俺ルール」に従って行っているミッションで「ギルド降下作戦、と銘打って、自分たちの仕掛けた罠でつぎつぎ人がやられて」しまっても、彼等としては笑って済ませられるんだと思うんです。AB初期の天使と戦いも同様です。ライブを行えば天使が阻止に来るため、「それをいかに回避するか?」という点にまとを絞った作戦を立て、サバゲーもどきをみんなで楽しんでいたわけです。
ですが俺ルールに乗っ取って行われたミッションで訪れる死と、突然現れた新キャラによって与えられる死は違います。基本的に彼等はストレス発散のために学園世界にいるわけですから、“俺ルール”を無視した輩の存在は「いけないこと」なんですよ
で、ここでようやく倫理学についての話なんですが、以上のような世界観というのがメタ倫理学における「情緒主義」の立場をとるひとたちの見方に近いように感じたんですよ。と、ここでそもそもメタ倫理学とはなんぞや?ってのがあると思うんで、以下に講義ノートやプリントの簡単なまとめ書き。
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・「これは良い/悪い」→(生きられた)倫理
・「これは本当に良いのか/悪いのか」→規範倫理学
・「ひとが『これはよい/悪い』と言う際、それはなにを基準に言っているのか」→メタ倫理学
大雑把に説明すると上記のようになるが、メタ倫理学の中にも「認識主義」や「非認識主義」といった立場があって、今回参考にするのはその「非認識主義」の方。「認識主義」では「よい」「わるい」という言いまわしは、発言者が有する何らかの“認識”に対応しているとするのに対して、「非認識主義」では「よい」「わるい」というのはものごとの認識ではなく、以前から発言者が有している何らかの“態度”に対応していると考える。「非認識主義」にも色々枝分かれ的にバリエーションがあるんですが、その中でも「情緒主義」というのが今回紹介する考えです。
「情緒主義」の主張というのは、「よい」「わるい」という言いまわしは、発言者の“感情”の表現に過ぎない、というものです。「情緒主義」を掲げた哲学者の具体例として講義内で紹介されたのが、アルフレッド・エイヤーとチャールズ・スティーブンソンの2つの主張。
エイヤー:「倫理」とはひとそれぞれの好き勝手な「絶叫」に過ぎない
スティーブンソン:「倫理」とはお互いの「同意」を求め合う感情的闘争である。
エイヤー型の考えによれば倫理とはその倫理を感じた人の「快」や「不快」といった「感情」に強く左右されていて「直井が殺人を犯すのは悪いことだ」←「殺人を見ると不愉快だから」というように、「倫理」とは「情緒的」に決定されるものとしている。また、スティーブンソン型の考えの特徴は、「倫理」を「記述的要素(a)」と「評価的要素(b)」に分かれているとする点にある。「直井が殺人を犯すのは悪いことだ」という倫理があった場合、まず「直井が殺人を犯す」という事実が(a)にあたり、「殺人は悪い」というのが(b)にあたる。この際、「つきつめれば(b)は話者の感情でしかない」とするのがスティーブンソン型の考えで、これはエイヤー型に近いものでもある。この際両者の相違点として上げられるのが、それぞれの「感情」の捕らえ方の違い。
エイヤーは「感情」を「絶叫」(ejaculation)という“一方的”なものとして捉えているのに対して、スティーブンソンは「感情」を「相手に同意を迫るエネルギー」と捉えている。簡単に言えば「私はこう思う。あなたもそう思いませんか?」という感じで、“相手の感情を自分の方向と同じ方向にコントロールしようという意図“が介在している。
ここで教授(あれ、あの先生は講師だったかな?まあいっか)が紹介していた面白い指摘が、エイヤー型の言う「絶叫」の訳について。辞書を引くと「ejaculation」は「叫び」の他に、「射精」という意味も持っていることが分かる。つまり「一方的な絶叫」というのは、「マスターベーションで得られる絶頂」という隠喩を含んでいるというのだ。
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以上、ノート&プリントのまとめ。あーつかれた、ふぅ・・・・。(他意はない!)
でここまで読んでもらえればなんとなく察しはつくと思うんだけど、AB世界でのミションを楽しむ主人公達って、かなり忠実にエイヤー型の「情緒主義」的倫理観に基づいて動いてるように思うんですよね。とにかく自分達の「快」が確保されるのが第一で、「不快」は全力で遠ざけようとしている点なんかが。なんだか微妙な例えですが、要はオナニー中に異常に廊下の足音に敏感になるアレですよw。こう考えれば、忍び足でTENGAを携えながら現れた直井君一行の一方的虐殺に異常なまでの反発を見せた主人公達の倫理観にも納得できる。だって主人公達がしたかったあのってあくまでも“自”慰なんだから。
ただ主人公だけはミッションを好き勝手楽しむ他の皆と違い、直井や天使ちゃんを戦線へと引き込むことにも力を入れてました。この点、彼はエイヤー型というよりかはスティーヴンソン型に近いと言えますよね。仲間はずれであった他のひとにも、戦線メンバーになることで得られる楽しみを分かってもらおうとしてたわけですから。そしてその主人公の行動の結果、前回の12話でカヲルくんっぽい新キャラの発言によって分かったように、学園世界では生まれるはずのなかった「愛」が生まれてしまった。それぞれ勝手に気持ちよくなって「ふぅ」と天国にいくるためだけの空間であったはずの学園には、「愛」など不要の産物だったわけですね。ですが結果として「愛」が生まれた。その愛も具体的には「フィリア」的な友愛であったり、日向とユイの間で生まれた恋愛感情的な「エロース」だったり、もしかしたらもっと“神的目線の愛”である「アガペー」だったりしたのかもしれません。結論として何が言いたいかと言うと・・・・
エンジェルビーツアガペー」(笑)
ということになりますかねw。