『ダンケルク』感想 彼の無駄死にはどのように活用されたか

 『ダンケルク』公開初日に大阪のエキスポIMAXで2回観てきました。

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 映像が強すぎて、エンドロールで緊張が切れたところで溜息がこぼれました。ノーラン監督が宣伝で「観客をダンケルクの戦場に連れていく」的なこと言ってるのを見て、セールストーク乙と聞き流してましたが、誇張ではなかった。息がつまりすぎて上映時間の106分が3時間程度に感じられました。以下ネタバレ。

 

 ノーランは常に物語の「虚構性」と向き合ってきた作家です。『メメント』では主人公が自分自身を欺き、『ダークナイト』では英雄としてのハービーを死守するためバットマンが罪を被りました。『インセプション』でも記憶の上書きが重要なモチーフです。物語には強烈な力があり、しかもそれはしばしば「嘘」と密接に結びつく。物語は虚構的であればあるほど強度を増す。『ダンケルク』は史実に基づいたドラマですが、クライマックスではそんな虚構の力を利用していて凄まじかった。

 

 乱暴にまとめると『ダンケルク』とは「英雄たち」の物語であるといえます。特に注目したいキャラクターはトミー(海岸から脱出を図る兵士)とジョージ(民間船に乗り込み、命を落とした青年)。彼らの行動を見ていくと、英雄性などまるでありません。トミーはひたすら逃げ続けるだけですし、ジョージに至っては船内でうっかり階段から転げ落ちてあっけなく命を落としてしまう。でも彼らは作中で最後に、大衆から「英雄」として讃えられる存在になります。

 ジョージは父親や学校の先生たちを見返すため、何かを成し遂げて新聞に載るのが夢でした。その夢を叶えたのが、友人ピーターの「嘘」。ピーターは新聞記者にジョージの「名誉の戦死」を語って聞かせ、本当は行き先も知らずに船に飛び乗っただけだったジョージは「英雄」として新聞に載ります。ここで上手いのは、事実を捻じ曲げることの有益性について、既に観客に説得し終えている点。実はピーターは船上で、キリアン・マーフィー演じる謎の英国兵に「ジョージは大丈夫」と既に「嘘」を付いているんですね。それまで憔悴しきっていたキリアン・マーフィーの表情が、「嘘」を聞いた瞬間、ふっと優しく緩む。あの瞬間の救われた表情がなんともいえない。

 その後キリアン・マーフィーが「嘘」に気付いたかどうかは、どちらとも取れるように描かれていたように思います。彼は船底には行かなかったようなので、もしかしたらジョージの死に気づかないまま船を降りたかもしれない。船からジョージの遺体が運び出される場面でも、彼が明確に遺体に視線を合わせているシーンは映っていませんでした。

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手を抜くな、追い詰めろ。犬も放て。それぐらい必要だ。真実だけでは人は満足しない。幻想を持たさねば。ヒーローへの信頼が報われねば (『ダークナイト』より)


 こうした「嘘」が最も力強く観客へと向けられるのが、最後のチャーチルの演説でしょう。

We shall fight on the beaches.

我々は浜辺で戦う。

We shall fight on the landing grounds.

我々は滑走路で戦う。

We shall fight in the fields and in the streets.

我々は原野で、街路で戦う。

We shall fight in the hills.

我々は丘で戦う。

We shall never surrender.

我々は決して降伏しない。

(中略)

Until, in God's good time, the new world, with all its power and might...

神の思し召しにより、新しい世界が、その力と意志をもって...

...steps forth to the rescue and the liberation of the old.

...古い世界を救い、自由にするために一歩を踏み出すまで。

(https://ja.englishcentral.com/videodetails/11573)

 

www.youtube.com

 イギリス国民にとって事実上の大敗であったダンケルクの戦い。そんな負け戦を補って余りありそうな、身も心も奮い立つ名演説です。トミーによって読み上げられる演説に合わせ、映像も美しく収束していきます。それまでの緊張を反転させたような伸びやかな音楽、カタルシス溢れるシーン。そして演説を読み終えたトミーが、静かに紙面から視線を逸らします。

 極限の緊張感をくぐり抜けてきたトミーは二度とダンケルクのような戦地に赴くのはごめんなはず。そんなトミー個人には、最後まで戦い抜くぞという勇ましい演説はどこか空々しく聞こえたのではないでしょうか。戦争に付随する物語の強固さを前に、人はあまりに無力。そんな抗議とも諦めとも取れる心情をあの眼差しに感じました。

 ノーランはこれまで人間の決断に宿る崇高さを絶対のものとしながら、崇高さを担保するために時には嘘(虚構)の力も必要だと主張し続けてきました。そしてその嘘に伴う痛みも描いてきた。あのラストシーンは痛みそのものを突きつけられたような気がして圧倒されました。いやあ凄いものを見た。