『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』感想 ピングドラムとグレンラガンの間に

 15日深夜に見てきました。前作『フォースの覚醒』は徹頭徹尾ウェルメイドで、それはそれで良かったけど、今回は一転して歪にとがっている印象。

f:id:samepa:20171216005920j:plain

深夜1時に満員のTOHOシネマズ新宿

 前作を初期3部作に寄せた空気感で再構築したJ・J・エイブラムスの手腕は素晴らしかったですが、それを2作、3作と続けていくとマンネリになるのではと懸念していたので、それが良い意味で裏切られた形。

 最近「スター・ウォーズ」シリーズまわりでは『ローグ・ワン』で大幅な再撮影が行われたり、『エピソード9』『ハン・ソロ』の監督が降板したりとなんだか不穏なニュースが多かったので、プロジェクトが肥大化して収集がつかなくなっているのではと、ぶっちゃけ信用してなかったのですが。疑ってすみませんでしたという気持ちです。『ローグ・ワン』も不穏な噂をよそに、本編は大変良いものでしたしね。

 

【※以下『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』のネタバレを含みます】

 

 映画の完成度という意味では、フィンたちの作戦がほぼ「無意味」だったりするのが惜しいのですが、最終決戦に挑むルークや、ラストカットで星々を見上げる少年など、画的な素晴らしさが欠点を大幅に上回っているので、総合すると最高な映画でした。

 とにかく意外だったのは、レイとカイロ・レンの内面描写の方向性。「何者か」である証明を欲する2人の姿が見ていて痛ましかった。特にレイに関しては前作で、出自に特別な何かがあるかのようにほのめかされており、彼女自身、自分が特別な存在であってほしいと期待しているようだったので、突き落とされた感が強烈でした。

 今作でレイは、自身の過去を探れば探るほど「何もないらしい」ことが分かってくる。何者でもない者が、それでも自分の存在意義を探すという構図は『ブレードランナー2049』のKのようでもあり、合わせて『輪るピングドラム』の高倉家を想起させられました。また、『輪るピングドラム』で「きっと何者にもなれない」と告げられた子ども達が、愛を分かち合うことで、互いにとっての何者かになったのと同じように、レイとカイロが互いの痛みに共感し心を通わす過程は切実なものに見えました。

 そして、切実に苦しむ2人の姿があるからこそ、後半でルークの描写を通して、「選ばれた」者が主導してきた「スター・ウォーズ」の物語が、大転換を迎える様に大きなカタルシスを感じました。

 

 ルークはレイに修業を付ける際、ジェダイはそう大層なものではなく、フォースとは世界に宿るものであると説きました。達観した仙人のように余生を過ごすルークは、どこか『天元突破グレンラガン』最終話のシモンのようでもあります。『グレン』といえば、作品の代名詞ともいえる「俺を誰だと思っていやがる」という台詞があります。シモンはことあるごとにこのセリフを口にし、自らの存在を絶対のものとして主張していました。

 ところが最終話でシモンは、ドリルの使い方を手ほどきした少年に「俺を誰だと……」と言いかけ、「いや、誰でもないか」と独り言をこぼします。シモンは銀河を守る戦いで勝利を収めた正真正銘の英雄ですが、彼は自身の存在意義を「倒れていった者の願いと、後から続く者の希望」をつなぐ“媒介者”として認識するようになったのでしょう。物語の主柱として絶対の存在感を誇った主人公が、中心の座を後進に譲ることで、物語に永遠の広がりを持たせる。この図は、いつ見ても切なく美しいものです。

f:id:samepa:20171217214224p:plain

 

 「スター・ウォーズ」シリーズはこれまでスカイウォーカー家の血を引く「選ばれた」者が主導する物語でした。しかし『最後のジェダイ』でその前提が大きく覆されます。象徴的なのはルークの退場と、主人公のレイが「何者でもない」こと。それでも本作は、フィンやポー、新キャラクターのローズなど、「何者でもない」一般の人々が等しく英雄足りえると示し続けることで、前提の転換が神話の終焉を意味しないことを宣言します。この福音にまだ気づいていない様子のカイロ・レンの行く末と、今後のシリーズ展開がますます楽しみです。

 余談になりますが、『最後のジェダイ』を見るまで、なぜ若きハン・ソロを主人公にしたスピンオフ映画をやるのか疑問でした。しかし本作を見て、だいぶ腑に落ちました。ハン・ソロももともとは単なる荒くれ者で、「何者でもなかった」。そちらのスピンオフも、『ローグ・ワン』と『最後のジェダイ』の流れを組んだ作品になりそうな予感がしています。