『シン・エヴァンゲリオン劇場版』ネタバレ感想 「○○に○○」から「○○を○○○」へ

 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を初日朝7時の回で鑑賞。そのすぐ後に『シン・エヴァ』を絶賛するオタクや、『シン・エヴァ』は0点だとこき下ろすオタクたちと4時間ほど話をしました。その中であらためて思ったのが、「エヴァンゲリオン」という映像作品に向けられる私(私たち)の愛情が、実に様々だということ。

エヴァンゲリオン」という映像作品は、様々な願いで作られています。

自分の正直な気分というものをフィルムに定着させたいという願い。

アニメーションが持っているイメージの具現化、表現の多様さ、原始的な感情に触れる、本来の面白さを一人でも多くの人に伝えたいという願い。

疲弊しつつある日本のアニメーションを、未来へとつなげたいという願い。

蔓延する閉塞感を打破したいという願い。

現実世界で生きていく心の強さを持ち続けたいという願い。

今一度、これらの願いを具現化したいという願い。

Yahoo! JAPAN - エヴァンゲリオン特集

 


 上記は親の顔よりも見た庵野監督の所信表明文ですが。作り手が様々な願いを込めているのと同様に、受け手側が抱く作品への愛憎も一枚岩ではありません。僕にとっての『シン・エヴァ』は、痛恨の一撃と三振が乱打されるこれまでのどの「エヴァ」とも違うものでした。

 

※以下、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の具体的なネタバレを含みます

 

 

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グランドシネマサンシャイン(2021年3月8日6時30分ごろ)


「『Q』は何故ああなったか」の完璧な回答

 前半、冒頭からアイキャッチが出るまでのシンジの描写にまずは圧倒されました。これまで「エヴァ」が徹底して避けてきた市井の暮らしをジブリ映画と見紛うレベルで丹念に描きつつ、一方では旧劇場版以上に行動不能となったシンジを執拗に描く。僕にはこれが、『Q』がなぜああなったかを如実に物語っているように見えました。
 庵野さんは、監督であると同時に多くの従業員を抱える会社の社長でもあります。その彼が『Q』を作り終えた2013年、ただの一度もスタジオに近づくことができなかったと『シン・ゴジラ』の製作発表時に振り返っています。

2012年12月。エヴァ:Qの公開後、僕は壊れました。
所謂、鬱状態となりました。
6年間、自分の魂を削って再びエヴァを作っていた事への、当然の報いでした。

明けた2013年。その一年間は精神的な負の波が何度も揺れ戻してくる年でした。自分が代表を務め、自分が作品を背負っているスタジオにただの1度も近づく事が出来ませんでした。

映画『シン・ゴジラ』公式サイト

 

  『シン・エヴァ』の冒頭を見ていて、誇張ではなく、本当に一年間スタジオに寄りつけなかったのだなと、あの異常なシンジの描写で実感できました。そんな状態にまで追い込まれながら作り上げたのだから、『Q』があの混沌とした様相を呈したのも納得です。

samepa.hatenablog.com

 

 周囲にトウジやケンスケのように親身になってくれる人が居て、社長としての模範的な振る舞いが頭では分かっていても、鬱でどうにもならない。社会的に求められる「規範」と、コントロールが効かなくなった「逸脱」が同居する庵野監督の内面を覗いているようで、作中前半はそれがとにかく強烈でした。

 アヤナミ(※便宜上、初号機に取り込まれている綾波を「綾波」、“そっくりさん”の方を「アヤナミ」と表記する)のポカポカ農作業と鬱状態のシンジとのコントラストや、シンジのことを無礼だと叱る洞木・父のシーンなどはその最たる例でしょう。こんな共感しづらい主人公像を逃げずに描ききる誠実さに、まずは引き込まれました。

 

アヤナミレイと、コピーの価値

 前半でもう一つ特筆すべきなのはアヤナミの大活躍でしょう。

 アヤナミは『破』で綾波が獲得した感情を、さながらRTAのように自発的にどんどん獲得していきます。彼女を構成する肉体がそうであるように、彼女が手に入れる言葉や感情も綾波のコピーのようです。しかし、彼女が自らの経験を通じて得たもの、そしてその姿を見た我々が抱く感情は価値のないものだったでしょうか? 断じて否です。
 「綾波綾波しかいない」のと同じように、「アヤナミアヤナミしかいない」。庵野監督はことあるごとに自らを「コピー世代」であると言っていましたが、コピーに宿る真実もあるのだと、アヤナミにあらためて教えられた気がします。『Q』であまりピンと来ていなかった「3人目の綾波を描き直す」試みが、『シン・エヴァ』でついに結実して本当によかった。*1

さようなら全てのLAS

 ここまで良かった点を並べてきましたが、それらが霞むほどに本作で評価しているのがアスカの描写です。アスカ……というかLAS*2を考える上での大きな障壁として、アスカがシンジとくっついた場合に2人がどうやっても幸せになれない、ということがあります。これについては無数の脳内シミュレーションを行ってきたのでガチ*3
 2人の破滅的関係性、ひいてはATフィールドのある世界を突き詰めて描いた結果が旧劇場版であり、必然的に概念としてのアスカはずっとあの赤い海の砂浜に囚われたままでした。そのため、新劇場版に対しては「もしアスカをあの砂浜から開放することができたら凄いことだ(だがどうせ無理だろう)」と、常にどこか冷めた気持ちで見ている部分がありました。ところが庵野はそれをやりやがった。
 『シン・エヴァ』には後述する乗り切れなかった点がいくつかありますが、「エヴァ」の物語がアスカ、そしてシンジの幸福を優先し、明確にLASの重力から抜け出したことはとんでもなく凄いことです。旧劇場版が人間関係の極地を描いたオールタイム・ベストであることは揺るぎませんが、本作でアスカとシンジの新しい幸福の形を実現したことは望外の収穫でした。
 なお、LASの古傷を持つ者としては“ケンケン”との関係性については「恋人未満、頭をナデナデしてもらう以上」程度と受け止めました。鑑賞後に意見を交わした心無いオタクから「絶対肉体関係にある」と言われましたが、その言説はATフィールドで裏宇宙まではじき飛ばしました。残念だったなケンケン。

【追記】↑とかアスカの主体性を無視した押し付けがましいことを言っていること自体がLAS的思考の不可能性を象徴していて、その自己矛盾に気付くべきなんですよね。旧劇場版にすら「あんた私のこと分かってるつもりなの? 救ってやれると思ってるの? それこそ傲慢な思い上がりよ」という言葉があるんだぞ(3月9日0時38分)

【追記2】↑この書き込みをした人はまだ生きているかな……。 (3月9日0時54分)

 

乗り切れなかった部分

 これまで自分に刺さった部分ばかり挙げてきましたが、今作の乗り切れなかった点についても触れねばなりません。今回は、どうにもアクションシーンで乗り切れないことが多かった。
 今作ではコンテからレイアウトを決め込む従来の手法ではなく、バーチャルカメラを用いたフレーミングを多々試みているそうです。

そのあたりはこちらの氷川さんの解説文でも触れられています↓

www.evangelion.co.jp

 

 ところが、これが正直必ずしも上手く行っていないように感じてしまった(※【追記3】参照。2度目の鑑賞で感想が変わりました)。特に終盤の大きな見せ場である、ヴンダーの突撃があまりピンと来なかったのが痛かったです。『宇宙戦艦ヤマト』や『さよならジュピター』に思い入れがあったりするとその辺が違ったりするのでしょうか……。
 ヤシマ作戦陽電子砲ににじり寄る作画で描かれた初号機、落下使徒戦で作画と3Dを組み合わせた白熱の市街疾走シーンなどなど、『序』『破』のアクションシーンに匹敵する手に汗握るバトルが見られず、個人的には物足りなさが残りました。
 もちろん冒頭のパリ・カチコミ作戦でのクネクネ歩く44Bのキモカワぶりや、『ウルトラセブン』のメトロン星人回を思わせるゲンドウとのシュールかつ熱い決闘など、良かった点もありました。しかしやたらグリグリと回り込む、微妙に自分の好みから外れた戦闘描写を目にするたび、自分がテレビ版、旧劇場版、『序』、『破』に抱いていた愛情の大部分に「単純にカッコイイと感じる戦闘シーン」があったのだなと再認識させられました。

 44Bとか4444Cとかの名前がいまだに覚えられない


 見慣れないものが初見で受け入れがたい、というのもあるかもしれないので、この辺りは今後見返す内に感想が変わってくることもあるのかもしれません。また、今作で得たノウハウが次作以降に受け継がれてブラッシュアップされていくのは間違いないので、こうしたチャレンジする姿勢は今後も応援していきたいところです。

【追記3】アクションの快楽性についてですが、これは単純に初見で目が追いついていない部分も多かった……! 公開2日目に2回目を観てきたのですが、2号機と8号機がダイブしイケイケな劇伴と共に物凄い勢いでネルフ本部まで敵をなぎ倒して行くシーンが圧巻でした。初見で動きが速すぎて脳の処理が追いつかず、2度目の鑑賞で脳汁が吹き出たシーンとしては『Q』のUS作戦が近いかも。ヒトの目で知覚できる限界の情報量で、これは今だからこそ作れた映像だと思います。

 また、ネルフ本部への着地からの冬月エヴァ軍団との戦い→アスカvs13号機もめちゃくちゃ熱かったです。あそこのアスカについてはこの「ふせったー」にも少し書いています( 【リンク】)。

 「ヤマト作戦」での快楽性は上記シーンに比べると今一歩でしたが、それでも初見時よりは「惑星大戦争」の曲に耳が馴染んでいたので、格段に楽しめました。また本文中でバーチャルカメラをディスっていましたが、ヤマト作戦などでも船をナメて映すカットなどのレイアウトはキマっており、そこはちと的外れだったかもしれません。(3月9日18時41分)

 

「現実に帰れ」から「現実を生きろ」へ

 マリがシンジと共にフェードアウトするエンディングには単純に驚きました。マリはこれまで新シリーズの象徴的キャラクターになることを宿命付けられながらも、正直『破』『Q』と存在意義が空転している部分が気になりました。ここに来て一発逆転の意味性を持たせるには……と考えると、確かにこれ以上無い気もしてきます。

 もちろん、前フリが無さすぎるというか、本来あの展開にするのであれば、どう考えても『破』か『Q』の段階でもっと種をまいておくべきだったはず……ですが、そこはライブ感覚で作り上げられたキャラクターであり、結果的に不可避の歪みだったのでしょう。
 そして、シンジがマリと共に実写となった街並みへと消えていくラストについて。これは一見、旧劇場版に込められた「現実に帰れ」のメッセージと通底するようにも見えます。しかしどうも肌触りが違う。何故か? ここであらためて、冒頭で引用した所信表明文の一節を見てもらいたいのですが。

本来アニメーションを支えるファン層であるべき中高生のアニメ離れが加速していく中、彼らに向けた作品が必要だと感じます

Yahoo! JAPAN - エヴァンゲリオン特集

 

 所信表明文が書かれたのは2006年9月。流石に14年が経っているだけあり、2000年代中盤に書かれた所信表明文の気分と、新海作品や『鬼滅』が数百億円を叩き出し、小中学生にまで見られる現状との乖離を感じます。
 アニメ的なもの……というか「エヴァ的なもの」は、もはや「エヴァ」そのものが消えた後も、私達の現実のそこかしこで見つけることができる。「エヴァ」に代わる「コピー」(≠無価値なもの)を、見つけ、新たに作りだすためには、「エヴァ」という作品が終わった後も現実の中で生きていくことが前提となります。つまり、現実を生きることは、必ずしもアニメや「エヴァ」を否定することにはならない。
 庵野さんが「エヴァ」で最後にひねり出したメッセージが「現実に帰れ」ではなく、「現実を生きろ」*4とでもいうべき包容力を持つものであったこと、そしてそんなメッセージを打ち出すことができる人生を近年歩んで来られたことを、素直に祝福したいです。

最後に

 正直浜辺でのアスカがあまりに衝撃だったため、その後、髪が伸びた綾波とのお別れシーンで何を言っていたのかさっぱり覚えていませんし、「渚司令」あたりの設定も全く理解できていません。そのあたりは次回鑑賞時にあらためて注目してみたいと思います。
 今日はチケットを2回分押さえていましたが、初見鑑賞後のあまりの喪失感に、とても2度目を観る気が沸いてこず、数人のエヴァファンと感想を語り合ったり、このブログ記事を書いたりすることで精一杯でした。

 しかし大変残念なことに、ここまで書き進めてきて、気がつけば既に2度、3度と見返したい気持ちになってしまっています。ここまで徹底的に作品との別れを突きつける内容だったにもかかわらず、です。そんな「エヴァンゲリオン」を届けてくれた、これまでの全ての関係者に、つきなみですが心からの感謝を。ありがとうございました。

*1:※「3人目の綾波を描き直す」ことは鶴巻監督が新劇場版に参加するにあたっての強い動機だったことが『全記録全集』などのインタビューで明かされています

*2:※令和では失われた古のエヴァ用語。知らない人はググってくれ

*3:※諸説あり、世の中にはその限界に挑んだ先行研究もあります

*4:【追記】記事タイトルにまでしておいて今更ですが、2度目の鑑賞を終えて「生きろ」ではなく「生きよう」の方が適切かなという気がしています/→ふせったーリンクも参照(3月13日)