『SSSS.GRIDMAN』に影響を与えたアニメは『エヴァ』だけではない 思い出してくれ

 『SSSS.GRIDMAN』が最終回を迎え、1カ月以上が過ぎた。今なお各所で感想や考察が活発に投稿されているのを見かける。ところが話題になった記事を読んでみても、『SSSS.GRIDMAN』に多大な影響を及ぼした“あの作品”への言及が皆無だ。

 言うまでもなく『SSSS.GRIDMAN』は数えきれないオマージュが詰め込まれた作品であり、それら関連作品に触れなかったからといって語れないことはない。しかし『新世紀エヴァンゲリオン』へのオマージュの度合いが作品の根幹に影響しており無視できないのと同様に、“あの作品”――即ち『キャプテン・アース』から受けた影響について触れないのは片手落ちも甚だしい。

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 『キャプテン・アース』とは2014年に放送され、1話での地球外へのメカ発射シーンが話題になったものの、その後やや込み入った内容になっていくにつれて一部熱狂的なファンを除き世間的には盛り上がりきらなかったあのロボットアニメである。

 私が『キャプテン・アース』のファンだから、無理にグリッドマンと話を絡めようとしようとしているわけではない。『キャプテン・アース』に触れることが『SSSS.GRIDMAN』の理解の一助となるのは厳然たる事実だ。

 その証拠に、雨宮監督作品『インフェルノコップ』の精神的公式Twitterアカウントの過去の投稿を紐解けば、『キャプテン・アース』が雨宮監督に与えた影響の“痕跡”が見て取れる。以下は2016~2017年、即ち『SSSS.GRIDMAN』の準備期間に投稿されたツイートである。

【追記】「@infernocop」のアカウントが削除されてしまったようです。この記事が何らかの形で中の人を傷つけてしまったのであれば、それはひとえに筆者の力量不足ゆえであり、無念でなりません。また同アカウントを愛していた大勢のファンに対しても申し訳なく思います。資料的価値を考慮し引用部分は残します(2月7日0時45分)

 

 『SSSS.GRIDMAN』と『キャプテン・アース』には多数の共通点がある。1話時点で自らのルーツにまつわる記憶を失った主人公。「やるべきこと」が「見えた」ときに、ロボットへの搭乗あるいは変身のためのアイテムが自然と“手”に顕現する描写。自己と世界の関係性のメタファーとしての“ラムネ”。少年少女のひと夏の物語。最終話目前に精神攻撃を受け、悪夢的な別世界線の空間に捕らわれるものの自力脱出する展開――。

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OPから最終話まで繰り返し登場するラムネやビー玉のモチーフ

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キャプテン・アース』6話より

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9話でアカネとの決別を選ぶ裕太

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キャプテン・アース』23話より。「やらなきゃいけないこと」を思い出すダイチ

主人公一行が悪夢的精神世界に囚われ、そこからの脱出までを描く『キャプテン・アース』23話。『SSSS.GRIDMAN』第9話を強く連想させる。*1

 

  『キャプテン・アース』からの影響は如実だが、それら全てが『SSSS.GRIDMAN』で昇華されていたかというと、一部疑問が残る。特に作中、大きなノイズとなってしまったと感じたのが、アレクシス・ケリヴの設定だ。

 

キャプテン・アース』へのオマージュは機能したか?

 アレクシスには、『キャプテン・アース』に登場する“キルトガング”(あるいはパック)からの影響が見て取れる。

アレクシス 私の命には限りがない。それは私に虚無感をもたらした。ゆえにアカネくんのような人間の情動だけが私の心を満たしてくれた

グリッドマン そのために新庄アカネに取り付いたのか

アレクシス いいや、彼女が私を求めたのだよ。もとよりこの世界には何もなかった。だが、怪獣を与えられたアカネくんの理想の街は育ち、また破壊もした。(中略)その繰り返しを続け、私は心を満たしたかった

『SSSS.GRIDMAN』13話より

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『SSSS.GRIDMAN』11話にアレクシスが言う「どうでもいい話の最中に失礼するよ」というセリフは、『宇宙パトロールルル子』2話の「どうでもいい話の最中にすみません」の極悪再演版。なお『ルル子』の2話は雨宮脚本回である

 キルトガングとは地球侵略を目論む不老不死の宇宙人たちのことで、彼らは永遠の命を持つ代わりに定期的に有限な命を持つ生命のリビドーを惑星単位で吸い尽くす必要がある。彼らが地球人に擬態した姿から本来の身体へと戻る際に行う「アブリアクション」などは、まさにアレクシスが怪獣を生み出す際に発する言葉インスタンス・アブリアクション」の元ネタだろう。

 

 ところがアレクシスを通して描かれた「永遠」と「有限」の対比には、2つ致命的な欠落があるように思う。1つは単純に、このテーマに十分な尺が取られていなかったという点。「これが命ある者の力だー!」「これが、限りある命の力か…!」というあっさりとした決着はショートアニメの『宇宙パトロールルル子』でならいざしらず、丹念にアカネの心情を描いてきた『SSSS.GRIDMAN』のそれまでのトーンとはあまりに乖離していた。

 2つ目は、「永遠」と「有限」の対立図式そのものが『SSSS.GRIDMAN』の設定にあまりそぐわないように思える点だ。そもそもアレクシスの主張を否定する際に、ハイパーエージェントであるグリッドマンが「有限な命」の代表者となっていることが直感的に納得しづらい。また六花たちが実は電子生命体であるという設定な以上、あの世界の住人の有限性がどうしても肉体的な寿命と同一視しづらい。

 

 『キャプテン・アース』ではキルトガングは人類にとって生存競争的な意味での敵として描かれたが、その生態自体は善悪関係なく扱われていた。他方で、同じく永遠の命を持ちながら真のラスボスとして立ちはだかった人工生命体・パックは、『トップをねらえ!2』の宇宙怪獣的なエゴが肥大した悪役として描かれた。

 さらに主役男女4人の内2人にキルトガング側にルーツを持つキャラクターを配置することで、想いを通して「永遠」と「有限」を超越する瞬間を描いていた。これら微細な描き分けを省略し、唐突に「永遠」と「有限」の対立軸を持ち出した『SSSS.GRIDMAN』はどうしても短絡的に見えた。

 

「安易なオマージュ」への批判

 『SSSS.GRIDMAN』の評価をめぐっては、作中頻出する他作品へのオマージュの在り方がしばしば論点となる。

 例えば、グリッドマンと怪獣によるアクションパートは基本的にグラフィニカ(『楽園追放』などを制作したスタジオ)が担当する3Dで描かれるが、要所でのキメのカットでは“ヒロイック作画”と呼ばれる、「勇者シリーズ」やアニメーター・大張正己へのリスペクト溢れるデフォルメされた作画カットが挿入される。

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かっこいい(2話より)

  私的にはバリエーションに富んだ絵柄を毎回新鮮に楽しむことができたが、一部で指摘された「(ヒロイック)作画は完全に封印し、最終話で特撮版グリッドマンに変身する場面で初めて手描きになった方が演出として強度が増したのではないか?」といった批判も一理あるように思えた。*2

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『SSSS.GRIDMAN』3話より

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キャプテン・アース』最終話より

 

 また、オマージュ元となった大張本人が、放送期間中に自身のTwitterやWeibo上で『SSSS.GRIDMAN』でのオマージュが安易だとの批判を繰り広げたことも無視できない。*3

 

 こうしたオマージュに対する批判意見は、『新世紀エヴァンゲリオン』が放送時に受けたという批判にも重なって見える。庵野監督が先行作品へのオマージュを貪欲に盛り込むスタイルであることは周知の事実だが、『エヴァ』放送当時も一部のオタク層はオマージュの露骨さに拒絶反応を示したと聞く(伝聞)。

 とはいえ庵野監督がそうであるように、雨宮監督もまたオマージュが内包する問題に無自覚であるはずがない。

隙あらばオマージュをねじ込んでくる雨宮監督

フレームに書かれた「Take care of yourself.」の字は、言うまでもなく『新世紀エヴァンゲリオン』最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」から

 

鶏と卵

 では、なぜ『SSSS.GRIDMAN』にはこれほどたくさんのオマージュが盛り込まれたのだろうか。

 雨宮監督は「アニメージュ 2019年2月号」で、『SSSS.GRIDMAN』のキャラクターデザインにオモチャ(おそらくトランスフォーマー?)のモチーフが散りばめられている点について聞かれ、次のように答えている。 

雨宮 オモチャが好きっていうのが自分と坂本くんの2人に共通した部分で。要はオモチャと自分の関係を考えると、人間と神様みたいなところがあるんです。「作る側」と「作られる側」の関係だったり。オモチャは自分より一個次元が下のものだという感覚があって、自由に操れる「人形」的なものとして扱ったり。だからって、あまり下に見ないで、相手側の視点で考えてあげるのが大事かなと。

「アニメージュ 2019年2月号」p.39

 

 同インタビュー内で雨宮監督は、六花がアカネを自分よりも上位の存在(神様)であると知った上で、友達として受け入れる関係性にも触れている。このアカネと六花の関係性はまさしく、オマージュ元である作品群(神)と、一つ下の階層からアプローチを試みる雨宮監督の姿に重なる。

 『キャプテン・アース』から取り込まれたモチーフは強烈なフックとして機能した部分もある反面、異物として物語から浮いていると感じた部分もあった。『エヴァ』のオマージュについてもそうだ。それでも、画面からは「これこそが自分の“友達”なんだ」という、オマージュ元への溢れんばかりの思いが伝わってきた。

 怪獣の魅力がいびつさに宿るのと同様に、『SSSS.GRIDMAN』のいびつさもまた、どうしても嫌いになれない。間違いなく2018年を代表する作品であり、このスタッフ陣が手掛ける次の作品も楽しみだ。そして、もしかするとそれを観られるのが『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の公開後になるかもしれないことに、今から不安と期待を禁じ得ない。

 

*1:余談だが、脚本の榎戸洋司は『天元突破グレンラガン』のファンブックで、同作で脚本を手掛けた中島かずきと対談を行っている。『キャプテン・アース』23話は『天元突破グレンラガン』26話「行くぜダチ公」の再解釈のようでもある。また『キャプテン・アース』のヒロイン・ハナの境遇(敵側が生み出した人工生命体という設定や、最終決戦で一時的に洗脳状態に陥る展開とその後の選択)は『グレン』のヒロイン・ニアを思わせる(「花」はニアにとっても重要なモチーフだ)。それが巡り巡って『グレン』にスタッフとして参加していた雨宮の監督作に影響を与えたのだとしたら、なかなか面白い相乗効果だ

*2:といえ、グラフィニカの3D班が少人数で構成されていたため、物量的に3Dだけで処理しきるのが現実的ではなかったと思われる点には一応触れておく。

*3:Weiboの投稿は既に削除されたもよう。批判的な投稿も見られたが、放送終了直前には雨宮監督と直接顔を合わせる機会もあったようなので、確執などは残っていないと信じたい。