アニメ『文豪ストレイドッグス』1、2話感想 あたりまえのように朝を迎えるということ

 アニメ『文豪ストレイドッグス』が面白いです。主に原作との差異に着目して感想を書いてみます。
 まず1話目。いきなり川辺で体育座りをしている主人公の敦。終盤でも同様に、自らの殻に閉じこもるようにうずくまる姿が見られました。


  孤児院を回想するシーンも含め、社会から阻害されている敦の様子が伺えます。こうした孤独を強調した演出を見て、自然と『ウテナ』や『ピングドラム』を連想しました。孤児院の回想シーンでは背景に教会にあるようなステンドグラスも描かれるので、余計に『ウテナ』を思わせます。


 このように、アニメ版の『文豪』はかなりシリアスなトーンで始まりますが、そこですかさず登場するのが太宰です。太宰の声優は宮野真守。宮野さんは過去の五十嵐・榎戸作品において『桜蘭高校ホスト部』の環役や、『スタードライバー輝きのタクト』のタクト役で無くてはならない存在でした。個人的には特にタクトの印象が強いのですが。そのタクトの声で「起きろ少年!」と、孤独に沈む敦を叩き起こすまでが第1話です。
 「起きろ少年!」とはアニメオリジナルの台詞です。原作では白虎の正体が敦であることが分かり、太宰が敦を探偵社に引き入れようとするまでは同じですが、敦は気絶したままで、そのことをまだ知りません。第1話とは往々にして作品のテーマ性が打ち出される大切な話数です。僕はアニメ『文豪』で扱われる主なテーマは敦の持つ孤独、そしてそこからの救済であると受け取りました。
 
 つづいて第2話です。いきなり「見知らぬ天井」から始まるので笑ってしまいました。

 しかし問題なのは天井ではなく、むしろこちら↓


 手。
 敦は1話ラストの出来事を回想し、自分の右手が虎の手になっていたことを思い出して、慌てて飛び起きます。そして手が人間に戻っていることを確かめ、ひとまずは安堵する。右手を見つめることで自分と世界との距離感を見つめる、という行為は極めてエヴァ的です。ついでに言うと、『新世紀エヴァンゲリオン』の第2話(上のキャプで言うと最初の3枚あたり。キャプは『序』からとってきてますが)は庵野さんと榎戸さんの共同脚本です。
 説明不要かもしれませんが、エヴァにおいて手というモチーフは本当に重要で、シンジが大きな決断を下す際などにも必ずと言って良いほどクローズアップされます(というと少し大げさですが)。

 『文豪』は主人公が内向的な性質を持つ少年である点ではシンジと共通しますが、大きな違いが先ほども指摘した太宰の存在です。2話で福沢に敦を一任すると言われた太宰は、「お任せ下さい」と返事をします。これも原作には無かった台詞で、主人公を導く役目を担う覚悟がより鮮明に見えます。
 
 2話を観ていて、最重要だと思った台詞が2つありました。まず、太宰が敦と話していたときに思わずこぼした次の台詞。直後の物憂げな敦の表情が意味深です。また、この台詞はその後Bパートでも谷崎が繰り返すことになります(おそらく太宰による台本)。


太宰 まったく、異能力者って連中は皆、どこか心が歪(いびつ)だ


谷崎 ほんっと、異能力者って奴らはどこか心が歪(いびつ)だ……*1

 そして、太宰と福沢が敦について話し合っているときの台詞。


太宰 社長。社長はもしここに世界一強い異能力者が現れたら雇いますか
福沢 そのことが探偵社員たる根拠とは成り得ない
太宰 だから私は彼を推すんです

 これらの台詞から、本作は「強さ」「異能力」「探偵社」といった言葉・要素に注意を払いつつ視聴した方が良いなと感じました。そもそも「探偵社」とは、社会から阻害されていた敦を受け入れてくれた場所です。そこで評価されるのは世間一般で歓迎される強さではない何かということになります。
 
 太宰のいう「心の歪さ」について考えていて、ふと榎戸さんが過去に書かれた『少女革命ウテナ』の解説文を思い出しました。以下、少し引用します。

鳳学園は、時空間の拘束すら受けない特殊な原理が支配しているようだ。
では、それはなにか? この学園を支配する原理はなにか?
ポイントは弱さである。
(中略)
鳳学園という舞台は、弱さを軸にすべてが展開していく心象風景なのだ。
徳間書店 アニメージュ文庫「少女革命ウテナ脚本集・上 薔薇の花嫁」巻末収録 第22話「根室記念館」の解説

デュエリストって、なんかみんな思い込みが激しかったり、片寄った人ばかりですね、という手紙を書いた君。
その通り。
才能とは、欠落であるという。
彼と彼女らは、生徒会メンバーであるという特権に守られてこそ、その特殊性を損なわずに学園生活をおくれるのだ。だが、崇拝の対象である彼らの才能は、いつでも、逆に疎外の理由にも転化しうるものである。
けれど、環境から疎外されて人が人間になったように、周囲にとけこめない彼らであるからこそ、一般生徒とは異なり、デュエリストになりえたのだ。
 
周囲との共同生活という点で言えば、幹よりは梢の方が、樹璃よりは枝織のほうが、うまくやれているし、実際そうしている。黒薔薇編は、一般の生徒が環境から疎外されて、デュエリストになるまでの過程を描いた物語だ。(それは“世界”と出会うまでの物語だ)
第23話「デュエリストの条件」の解説


 読み返してみたらアニメ『文豪』に当てはまりすぎワロタ感しかなかった。才能とは欠落であり、崇拝の対象であると同時に疎外の理由にも転化しうるというのはまさしく敦の置かれている状況そのものです。そんな危うい状況にあってなお世界と向きあおうとする態度こそ、探偵社で求められるのではないでしょうか。そういう意味では敦は身を挺して爆弾に覆いかぶさるまでもなく、爆弾魔に対して口をついて出た言葉だけで十分探偵社員の資格があったのではと思います。


  生きていればきっと良いことがある
谷崎 良いことって?だから良いことってなに?
  ち、茶漬けが食える!茶漬けが腹いっぱい食える!天井があるところで寝られる。寝て起きたら朝が来る。当たり前のように朝が来る!……でも、爆発したら君にも僕にも朝は来ない。なぜなら死んじゃうから

 しかしそうすると、明るく敦を救い出してくれた太宰の「自殺マニア」という側面がなんとも不気味です。明らかに敦の持つ、負の側面を持ちながら前向きであろうとする態度とは真逆。アニメでこの要素をどう料理していくのか、じっくり見守りたいところです。
 ところで太宰エヴァついでに。1話で太宰が読書をするシーンで、以下のようなアニメオリジナルの台詞があります。


  太宰さん、何を読んでるんですか
太宰 良い本
  こんな暗い中でよく読めますね
太宰 目は良いから。それに、内容はもう全て頭に入ってるし
  じゃあなんで読んでるんですか
太宰 何度読んでも良い本は良い

 この繰り返し何かを行うというところが、『Q』のカヲルの言葉と重なって見えました。


シンジ どうしたらもっと上手く弾けるのかな?
カヲル 上手く弾く必要はないよ。ただ、気持ちのいい音を出せばいい
シンジ じゃあ、もっといい音を出したいんだけど、どうすればいい?
カヲル 反復練習さ。同じこ事を何度も繰り返す。自分がいいなって感じられるまでね。それしかない

 思えば『Q』ではカヲルがシンジを導く役でした(行き着いた先は散々でしたが)。アニメ『文豪』の太宰には是非、敦くんを幸せにしてもらいたいですね……。

*1:追記(20160414) 本エントリ公開当初、谷崎の台詞しか取り上げておりませんでした(恥ずかしながら、単純に太宰の台詞を聞き逃していたため)。twitterで「あの台詞は2ヶ所出てきており、谷崎の台詞は太宰の台本によるものなのでは?」と指摘をいただき気づくことができました。教えてくれたななまるさんありがとうございます。それに伴い、前後の文章に修正を加えました。