永遠ってなんですか? 『キャプテンアース』10話が描いた“ふたつの永遠”


ウテナ「隣に棺が並んでるでしょ。お父さんとお母さん、今日死んじゃったの。
でね、棺が一個余ってたの。これって、きっとあたしの分なの。
生きてるのって、なんか気持ち悪いよね」
冬芽「そう」
ウテナ「うん。気持ち悪いよ。どうせ死んじゃうのに、どうして皆生きてるんだろう。
なんで今日までそのことに気付かなかったんだろう。
永遠のものなんて、あるわけないのにね」

永遠のものに対する憧れや、有限であることに対する嫌悪感、有限だからこその輝きといったモチーフは、過去の榎戸作品において何度も反復されてきた。これらのモチーフは初期の榎戸作品にも見られるが(榎戸さんがアニメ脚本デビューを飾った「セーラームーン」シリーズの『SuperS』において、既に「こどもにはこどもの、大人には大人の夢がある」ことがメインテーマとして扱われている。)一番わかりやすく整理されているのは『トップ2』ではないかと思う。
『トップ2』では「トップレス能力」は思春期にのみ許される無限の力として描かれ、トップレス能力を永遠に持ち続けようとすることは否定的に描かれる。近作の『スタドラ』において、悪役のヘッドがタイムトラベラーとなり、輝かしい過去を永遠に繰り返そうとしたことも、明らかに『トップ2』などを受けての流れだ。
一方、『スタドラ』でケイトがスガタにキスを迫った際の「永遠をください」という台詞や、『ウテナ』において、幼かったウテナが両親を失った絶望を「永遠」に準ずる何かを目の当たりにしたことで乗り越えられたという例もある。
榎戸作品において「永遠」という言葉は、停滞した忌むべき状態を象徴するものとして扱われることもあれば、有限な時間に立ち現れる一瞬の輝きとして描かれることもあり、極めて両義的に扱われてきたように感じる。
『キャプテンアース』の10話は、一連の榎戸作品の精神性を顕著に引き継いでいる。
 

今回初登場のリンは、「速さ」を絶対のものと捉えている。彼女がバイクに乗るのは、それが人間(アバター)形態で最も速さを感じられるからである。
しかしそれも「本当の自分」の代替品に過ぎない。キルトガングの身体に戻れば、リンはバイクよりずっと早く飛ぶことができる。有限な命を生きるのろまなヒトに比べ、キルトガングの圧倒的な速さと自由。キルトガングは、まさに「永遠」を体現しているかのようだ。
 

ダイチと接触したリンは、人間に対するキルトガングの優位性を説き、ヒトの不完全さを強調する。
「死」から逃れられない人間の惨めさについてどう思うかと問われたダイチは、亡くなった父の「笑って死ぬ」という言葉を引用する。「笑って死ぬ」ことを、人間の命の儚さをごまかすためと解釈したのか、嘲笑の態度を崩さないリンに対して、「たぶんそういう意味じゃない」と答えるダイチ。
父の言葉を前向きに捉えている様子のダイチに、リンは激昂する。人間に、キルトガングが至高であること揺るがすような可能性を、彼女はすんなり認めるわけにはいかない。だが、彼女の頑なな態度も、10話クライマックスのテッペイとの戦いを経て、変化を迎える。
 

テッペイは元来キルトガングでありながら、キルトガングとしての「永遠」の肉体を捨て、人間の生を選んだ。10話が視聴者にリンとダイチの因縁を印象づけた後、テッペイにリンとの決着を付けさせる構成を取っているのは、テッペイがリンの思想と対立する選択をしてきているからだ。リンとテッペイの戦いには必然性がある。
リンはテッペイのライブラスターの光を浴びて敗れ去る。その際、彼女はバイクに乗る自分が光線のようなものに圧倒的な早さで追い抜かれる情景を脳裏に浮かべる。あの光線はテッペイを表しているのと同時に、リンが人間に感じた可能性を表すものでもあるはずだ。
 
この話数の最後に、リンがテッペイとの戦闘を「気持ちの良い風みたいだった」と漏らした際、モコがはっとした表情を浮かべたのに対して、アマラにはピンと来ていない様子だった。雑誌「ニュータイプ」で連載されている、榎戸さんが構成担当の漫画版『キャプテンアース』において、モコが人間の姿を存外エンジョイしていたのを思い出される。いまのところ結束の固そうな遊星歯車装置だが、今後は案外一枚岩でなくなっていくのかもしれない。……あと、単純にアマラのポンコツさは毎回見ていて面白い。

 
 
それから、今回登場した毬村先生がとっても良いキャラだった。と、これを書いてる間に11話が放送されてしまって、僕自身はそちらも視聴済みなのだが。本当に良いキャラだけに……。

 
追記:自明のこと過ぎてすっかり言及し忘れてましたが、リンはめちゃくちゃ『セーラームーンR』のはるかさんを連想させますね。今回の話数を踏まえてあちらを観返すのも面白いかも。