『エヴァQ』はなぜ「つまらない」のか

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』におけるシンジ像がいかに画期的であるかは初日にアップした感想で書いた通りである。しかしこのおかげで、『Q』はあまりに「つまらない」映画となってしまっている。

参考:『ヱヴァQ』感想 シンジ君は『Q』で底を打ちました - さめたパスタとぬるいコーラ

『Q』が「つまらない」事の根本的な理由は、「シンジをダメなやつとして描こうとした」ためであるという話に尽きる。初日の感想を超圧縮で要約すると

・14年ぶりに目覚めたシンジは右も左も分からない。右も左も分からないのは観客も同じであり、最初はシンジ視点にシンクロしやすい。(先日追記した部分)
・シンジや観客には、シンジがネルフ等の社会から虐げられている「被害者」であるという意識が根強い。
・中盤以降、シンジの「加害者」としての側面が判明する。現実を受け入れようとしないシンジ。

こんな感じ。
問題なのは、今作はとにかく「ダメなシンジ」を描こうとしているため、その構造上「シンジが何かを成し遂げる」といった展開が描けないことである。一応シンジは冒頭でアスカを助けているように見えるが、これも無意識下での出来事である。別にシンジがエライからアスカが救われたわけではない。
 
前回の感想で、シンジは「本当に何も有意義なことをしていない」と書いたが、では本作においてカタルシスを感じられるポイントはどこなのか。個人的には、分かりやすい箇所はカヲルの死ぬシーンしか無いのではないかと考えている。

カヲルはテレビ版共々終始トリックスター的な存在として描かれてきた。しかし『破』の最後で「今度こそ君だけは幸せにしてみせるよ」と、なんだか怒った顔をしている場面があるため、シンジに対する感情は嘘偽り無いものであることがはっきりしている。カヲルは『Q』では自分の幸せを諦め、シンジの身代わりとなって、人類を救うために死んでいく。これは一見テレビ版と同じ行動にも見えるが、「シンジと共に生きる幸せ」を諦めていることが伺えるだけに、悲劇性は強まっており、場面に観客の感情が乗りやすくなっている。
具体的な箇所としては、マリの8号機が飛び降り、13号機からシンジのエントリープラグを射出させ、白黒のカヲルが去ってゆく一連のシークエンスが、一番感情の高ぶるポイントだろうか。
 
では、シンジのダメさを強調すると共に、観客の望むようなカタルシスも提供する選択肢は本当に無かったのだろうか?
ひとつ思いついたのは、アスカとマリをヒーローポジションとして立てておけば良かったのではないかという事だ。彼女らの登場時間を10分ほど増やし、シンジと別行動でフォースインパクトや補完計画を阻止しようとしていた所をもう少し強調しておけば、ラストの戦闘ももっと燃えるものになったのではないか。
ただそうした場合、シンジが槍を引き抜く愚かしさがあまりに自明なものとして見えてしまう副作用も生みそうだ。バランスが難しい……。
 
一応、ラストシーンでシンジ、アスカ、綾波が揃い、それまでの緊張感が解ける場面はカタルシスを生んでいると言えなくもない。実際僕はあのラストがとても好きだ。しかしそれは『破』を観てきている観客の求めるカタルシスとは異るものだったのではないか。完結作では太鼓の音がもっと聴けることを期待している。