『エヴァ』テレビ版感想:16話 「袋小路感」の正体

みんな大好き電車回。
今回シンジくんがエントリープラグに閉じ込められるわけだが、感想の中盤以降では、そうしたところから読み取れるシンジとエヴァとの関係性の話を軸に、シリーズ全体を覆う「袋小路感」について改めて考えてみた。その取っ掛かりとして、当ブログでは以前からちょくちょく参照させて頂いている「ミクロKOSモス」さんの「潜水艦映画としての『エヴァンゲリオン』」というユニークな論考を参考にさせてもらった。
 
第16話、「死に至る病、そして」
 
・ハセシン回のアスカはやかましくて可愛い。

 
・加持との復縁があっという間に皆に知れ渡るミサト。


日向マコトミサトさん、なんだか疲れてません?」
ミサト「色々とね、プライベートで」
リツコ「加持くん?」
ミサト「うるさいわね!」

この会話も、あとから考えると日向くんが不憫だw 何気にマヤが会話を聞いているが、この辺、プライベートが筒抜けな村社会っぷりが素敵。

・シンクロテストでシンジに負けた悔しさをロッカーにぶつけるアスカ。ロッカーが被害に遭うのは7話のジェットアローン回でのミサトキックに続き二回目。監督の人生経験が作品に活かされていて素晴らs(ry

 
・バス内で「手」をグーパーするシンジ君。


「手」は特に序盤で重要なモチーフとして頻出したが、ここにきて反復される。シンジにとって「手」というのは現実との接点を実感するのに大きく作用しているように見える。ゲンドウとなんとなく上手く行っている上、シンクロテストも上々。「やりたいこととやるべきことが一致」したかのような気分が、手を嬉しそうにグーパーしている動作に現れている気がする。しかし『エヴァ』においてはこうしたシンジの気分は「増長」として、即座に叩き伏せられてしまう。実際この後には、前方に座っている小学生達がシンジのことあざ笑うシーンが続く。

ここまで絶妙に「死にたくなる」演出を他に見たことがない。『エヴァ』の中でも屈指の名シーンだと思ってる。
 
・増長した勢いで「戦いは男の仕事!」とか言いつつ、懲りずにグーパーするシンジ。

 
・使徒レリエルが作り出した虚数空間に閉じ込められ、精神世界を行ったり来たりするシンジ。


インナースペースでは非常に「エヴァっぽい」自問自答が行われる。「これまで体験してきた嫌なことから目を背けて、楽しいことにばかりにかまけるのは欺瞞的ではないか」と、シンジの別人格(?)が語りかけてくる。
 
・このエピソードではシンジの自問自答と並行して、エントリープラグ内の酸素残量が減っていく様子が描かれており、タイムサスペンスのような側面もある。

「エントリープラグに閉じ込められる」シチュエーションはシリーズを通して何度か出てくる(マグマダイバー、ダミーシステム起動時、EOE等)が、これについては以前読んだKOS氏による「潜水艦映画としての『エヴァンゲリオン』」という批評文が面白かった。この評論は「幻視球」のbono氏が編集した同人誌に収録されており、現在も通販で入手可能な模様。
ORBITAL I - 幻視球 | 同人誌通販のアリスブックス
 
KOS氏曰く、潜水艦の特徴は「狭い、暗い、怖い」という三語に集約されており、「潜水艦映画」には

1…独得の圧迫感による悲愴感
2…深海の圧力による浸水
3…神経を病むほどの葛藤
4…酸素・燃料の残量からくるタイムリミット

といった要素が当てはまる。庵野作品はしばしばこうした要素を有しており、特に『エヴァ』は「潜水艦映画」的であるというのだ(他にも『トップをねらえ!』などが例として挙げられていた)。
KOS氏は『エヴァ』が「潜水艦映画」的となった理由を、パイロットとロボット(シンジとエヴァ)の関係に着目し、次のように論じている(以下は僕による要約。本文はもう少し後ろの方でまとめて引用させて頂いた)。

・一般的なロボットアニメでは「ロボットは、パイロットの身体機能を拡張するものである」のに対し、『エヴァンゲリオン』という作品は「人間の心の底を描こうとした」ため、「ロボットの外皮をパイロットの側に縮小」するものとして描いている。
・『エヴァ』という作品は「極大化と極小化の二つのベクトルの交点」に存在するものである。

 
個人的にこれはなかなか納得の行く解釈で、以前マグマダイバー回の感想で引用した「BSアニメ夜話」での藤津亮太氏による、『エヴァ』がシンジを「成長させようがない構造」を抱えているとする捉え方(≒僕の言う「袋小路感」)とも繋がってくるように思えた。再度藤津氏の発言を引用させて頂く。

藤津 『エヴァ』って成長してもどこに行くか、よく分からないんですよね、あの世界だと。アムロって、戦場があって、社会があって、頑張ってる大人がいるんで、そこの一員になるっていう、成員になるっていうことで、大人のイメージがあるわけですけど。

 
奇しくも、KOS氏も『ガンダム』を『エヴァ』の対の例として挙げられていた。先立って内容の一部を要約させて頂いたが、ここで改めてまとめて引用させて頂く。
 

巨大ロボットは、パイロットの身体機能を拡張するものである。パイロットはそれにより、容易に超人願望をかなえることができる。このため、ロボットアニメは、少年が主人公であることが多い割にビルドゥングスロマンになりにくい。ロボットがある限り、主人公自身は成長しない(しなくてもすむ)からだ。ドラえもんのび太の関係と同じである。ロボットアニメがビルドゥングスロマンたりうるためには、ロボットに頼らずに生きていけるようになる必要がある。だから、『機動戦士ガンダム』のラストシーンで、アムロガンダムを捨てて仲間のもとへ帰るのである。
ところがエヴァにはこれとは逆のベクトルがある。身体機能をロボットの外郭に合わせて拡張するのではなく、ロボットの外皮をパイロットの側に縮小しているのである。おそらくこの現象は、『エヴァンゲリオン』という作品が人間の心の奥底を描こうとしたことに伴って生じたものだろう。極大化と極小化の二つのベクトルの交点。『エヴァンゲリオン』という作品はそこに存在する。
KOS(2010)「潜水艦映画としての『エヴァンゲリオン』」 bono/三浦大輔編 『ORBITAL The Animation Magazine 1』 pp.12-13

 
ここでの指摘で面白いと感じるのは、『エヴァ』が通常のロボットアニメと異なる部分にも、ビルドゥングスロマンとなりにくい理由を含んでいることを燻り出している点だ。
通常ロボットとは「身体機能を拡張」し、「容易に超人願望をかなえる」ものだ。ところが『エヴァ』ではロボットが「外皮をパイロットの側に縮小」しているようにも感じられ、容易には超人願望をかなえてくれない。よって、『エヴァ』では「ロボットを捨てることが必ずしもビルドゥングスロマンに繋がらない」かのような雰囲気がもたらされるのである。「成長物語」に仕立て上げるには、ひとつハードルが増えてしまっているというわけだ。
こうしてみると、KOS氏が『エヴァ』を「潜水艦映画」的たらしめているとする理由は、これまで僕が「袋小路」的と感じていたものの主要因な気がしてくる。また、作中では「逃げちゃダメだ」という言葉がシンジにとってある種の呪いとなっていたが、それは「潜水艦映画」的な息苦しさと負の連鎖を起こしていたとが考えられる……的なことを書こうとしたら既にKOS氏が自身のブログで同じことを書かれていた。ぐぬぬ…。

これは、夏コミで同人誌『ORBITAL』(絶賛委託販売中)に寄稿した「潜水艦映画としてのエヴァンゲリオン」の補足である。
 
私はその原稿を、「シンジたちが陽光の下で物語の結末を迎えられるよう願う」と締めくくった。繰り返しになるが説明しておくと、「陽光の下で」というのは、潜水艦映画になぞらえたハッピーエンドの比喩である。
 
では、旧『エヴァ』ではなぜそうならなかったのか?
答えは簡単で、旧『エヴァ』は「脱出する」という選択肢を、「逃げちゃダメだ」と封印することを出発点にしていたからである。その縛りに誠実すぎるほど忠実に従った結果、ああいう結末を迎えるしかなかった。

『エヴァンゲリオン』と空からの来訪者

 
「身体機能を拡張」してくれるタイプのロボットアニメは、主人公のロボットからの自律を「成長」のポイントとして設定できる。対して、『エヴァ』のようにロボットが「パイロットの側に縮小」してくるタイプのアニメは、ロボットとの関係性とは別に、主人公の自身の内面との対峙、あるいは、主人公と周囲の人々との関係性に、より重点が置かれる。
ひとまわりして当たり前に聞こえる結論となるが、『エヴァ』ではやはり、シンジがロボットを捨てても大丈夫となるよう、自分の感情や、周囲との人間関係を整理していくことが「成長」へと繋がるのだろう。KOS氏はそれを「潜水艦映画」におけるハッピーエンドになぞらえ、「海面に浮上して太陽を拝むこと」、「ハッチを開けても大丈夫なところまで移動」すること、と表現していた。
『EOE』ではハッチの開け方が少々強引だったためか、うっかり世界が滅亡してしまったが、果たしてシンジくんは新劇場版ではもっと上手く「浮上」することができるのだろうか。
 
・今回のサブタイトルは「Splitting of the Breast」。検索してみたら例によってアニメスタイルのコラムがヒットしたので、そこでの解説を引用させて頂く。

この話の英文サブタイトルは「Splitting of the Breast」。これは精神分析の言葉で「乳房の分裂」を意味し、幼児が母親の乳房に抱いているイメージを「良い乳房」と「悪い乳房」に分けてしまう心理的過程を云う。この話に於ける「良い乳房」と「悪い乳房」とは何か? シンジを飲み込んだEVAが悪い母親で、彼を救ったユイが良い母親か。「帰ってきたら叱ってあげなくちゃ」と云いながら、生還したシンジを見て泣き崩れるミサトも、ベッドで休んでいるシンジに優しく「そお、良かったわね」と云うレイも、この話に関しては、母親的なキャラクターに見える。第拾六話は母親をめぐる話でもあるのだ。

アニメ様の七転八倒 エヴァ雑記「第拾六話 死に至る病、そして」


この「母性」というモチーフも、これまで見てきた「潜水艦映画」的な息苦しさの問題と通底するよなぁ。
母親的な振る舞いをする綾波などに対して、アスカが距離置いた振る舞いなのは一応メモしておこう。
 
・初号機が暴走。ディラックの海から無理矢理出てくる。

ミサト「状況は!?」
日向マコト「わかりません!」
マヤ「全てのメーターは振り切られています!」

全て振り切れてるっていくらなんでもポンコツ過ぎるだろ…。メーターの数値が全部デタラメなのではないか説。あるいはマヤちゃんがメーターの数値をてきとーに読んでいる説。日向くんの「分かりません!」も、単純に数値の意味が分からないだけだよ説。
 
ディラックの海から帰還したシンジを見て泣き崩れるミサト。このシーンでこれまでになく心動かされた。ミサトのシンジへの感情移入度が以前より理解できているおかげか。はたまた自分がミサトさんに必要以上に感情移入ししてしまっているせいか。
 
・次回予告。「アメリカ・ネバタ州にて建造中だったエヴァ4号機が、起動実験中にネルフ第二支部ごと消滅する。予期せぬ事件に対し、沈黙を守る碇司令。自らシナリオを修正するゼーレの老人たち。そして、フォース・チルドレンが選出された。とらえどころのない不安と苛立ちを人々に与えながら。次回、「四人目の適格者」。さーて、この次もサービスサービスぅ」
トウジも久々に登場したと思ったらこの仕打ですもんねー。不憫。正しくは「ネバダ州」が、予告は何度聞いても「ネバタ州」に聞こえる。
 
そろそろまた本編の雰囲気が変わってくる頃合い。次回はペーソス漂いまくりだけど、そこから急転直下。気を引き締めていきたい。
そんなわけで次回に続く!
・次回感想→『エヴァ』テレビ版感想:17話 中二病でもエヴァがしたい
・全話感想もくじ→『エヴァ』テレビ版〜旧劇場版/『新劇場版:Q』全感想目次