なんてことだ、俺はディスグラフィアだったのか(『猿の惑星』のラストっぽく)

私的チラ裏です。
大学でノートをキーボードで取るようになってから色々捗るようになった・・・といった話は以前もしたように思うけど、それに関連して最近個人的な発見があった。このあいだ久々に鉛筆と消しゴムで文章書こうとしてびっくり、漢字が以前にも増して書けなくなっていた。僕は元々漢字がとても苦手で、読む分には問題ないのだが、「書く」となると中学で習うレベルのものが精一杯で、小学校レベルのものもたまに怪しかったりした。
いま試しに中学の漢字書き取り問題をググって確認してみたが、上から二十問程見てみて、正答できたのは半分くらいだ(どれも読むことはできるのだが)。

書き取り問題→http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/kakitoripeji1.htm

ただ、漢字が書けないのは今に始まったことではないし、そのときはまあ良いかと(我ながら楽天的な性格だ)そのことは放っておいたのだ。が、最近それ以上に衝撃的な出来事が起こり、流石に少し動揺した。
普段からしょっちゅう目にしていて、かつ、直筆で書くことも多い自宅住所と自分の名前の漢字が咄嗟に書けなかった。
いや、いやいやいや。流石にねえ?
かれこれ十年以上は住んでる町ですよ。名前にいたっては二十年以上付き合っているわけです。これは極端な例で、流石に普段は書けるし、現在も当たり前に書けるけど。しかしそのときは字のつくりが頭からスポーンと抜けた感じだったのね。
で、流石にこれは何なのだと気になって、少し検索してみたんだけど。目からうろこですよ。
これ、ディスグラフィア(書字障害)じゃね?
ディスグラフィアというのは学習障害の一種らしい。例えばトム・クルーズなんかが読字障害を持っているというのは知っていたので、ディスレクシアなんて言葉も聞いたことはあったんだけど、まさか書きを苦手とする障害があったとは。他の方の症状に比べて自分は比較的軽度なようだけど。
この気持ちはにわかには理解してもらえないかもしれないけれど、この症状に関する情報を見つけたときめちゃくちゃ嬉しかったですよ。
漢字に関しては小学校の頃から努力が足りないと両親、親戚、友人知人、教師…周囲のあらゆる人達に言われ続けてきてるからね。「・・・少なくとも平均以下の努力ということは無くね?」と恐る恐る思ってみても、周囲からは容赦なく怠けているせいだと言われ続けてきたので。おかげでいまだに「漢字が苦手なのは努力をしてこなかったせい」と思ってましたからね。しかし何度書き取り練習をしても二、三日すると忘れてしまうんだなこれが。
なんだ、やっぱり努力が足りないせいじゃなかったのか。現在の漢字力が数年前に比べてさらに低下してるのは間違いなく手書き離れが進行したせいだけど。
 
今思うと教師に努力が足りないと言われるときが一番理不尽だったなー。僕の練習方法に誤解させる余地があったのは事実だけど…。
「漢字が書けない→まっさらな状態から書けなければならない」
という脅迫観念から、書き取り練習をする際には紙にビッシリ書き込んでいくのではなく、数問を1セットと考えて、二〜三回ずつ書いては消しゴムで消し、二〜三回ずつ書いては消しゴムで消し・・・というのを覚えるまで繰り返してたんだなー。なので漢字テストで悪い点を取って「練習しなかったのだろう」と言われたときに、「何百回も書き取り練習をした」と言ってみても証拠が残ってないんだよね(笑)。
 
それにしてもこれほど僕に都合の良い障害があって良いのだろうか。というくらい、救われた気分だ。現時点では病院で検査してもらったわけでもないので自分がコレだという確信は実はまだ持てていないのだが。今度神経内科に行って話聞いてこようかな。
もし僕が本当にディスグラフィアなのであれば、本当、もっと早くに知っておきたかった。そうすればノートを取るときなんかに「くっ、また俺のディスグラフィアが騒ぎ出しやがった!」ごっこができたのに。「ディスグラフィア」って響きが中二病っぽいよね!

大学受験なんかこれでわりと苦労したからねー。作文があると漢字が書けないので殆ど詰み。古文漢文が漢字だらけで大嫌いだったので、国語は現代文だけで勝負せざるを得ない博打みたいなものだったから。頼みの綱のセンター入試では古文漢文は一切やらず、現代文だけじっくり読んで解いたっけ。読解問題は得意だったけど、いかんせん読むのが遅いんですよ。体感で普通の人の0.75倍くらい。読むスピード上げようとすると文章が頭に入ってこないのよね。注意力が落ちてくると行の移り変わりを目で追うのがしんどかったりするし。ディスレクシアについて調べてたらそういった症状も紹介されていたので、そっちも若干入ってるのかも・・・。ちなみにセンター試験では四字熟語かなんかを1問と、漢字問題を2〜3問落としただけで文章題は全問正解だった。過去問では文章題も必ず1問以上落としていたのに、あの時はついてたねイェイッ。
調べていて知ったが、センター試験では2011年度から、ディスレクシアのひとに対する試験時間の延長等の対応をするようになったようだ。ふむ、つい昨年からってところに相当なアレさを感じるな。症状からして僕の場合はどのみちこの対応は受けられなかっただろうけど。
 
この手の「発見」でびっくり&安堵したのは実はこれが初めてじゃない。
僕は「写真」ってのがどうも苦手で。それも証明写真。あれはなぜか本当にダメ。生涯の敵と定めてる。昔はそんなことなかったんだけど、初めて体験したのは中学2年生のとき。生徒手帳用の証明写真を学内で撮影したときだったかな。ひとに話すと笑われる(から言わない)んだけど、頭が震えるんですよ。初めてあの現象に襲われたときは自分自身不思議でしたけどね。「撮りますよ。3、2、1…」とカウントダウンされるとどうしても頭(首?)が震えてしまうんです。多分一種の視線恐怖症。調べてみたら「社交不安障害」ってのに当てはまるっぽい。写真館のようなカメラマンと一対一になる空間なんて最悪だね。受験時に写真館で証明写真撮ったけど、そのとき嫌な思いをしてからというもの、証明写真にはもっぱら三分写真を利用してます。三分写真のような対人でない場合でも震えるんだけどね。他のところでは発動しないのに、なんなんだろうね。
これも、ググって同一の症状を持ってるひとが案外いるんだと知ってなんだか安心した例。酷いと日常生活の中で他人の視線を感じただけでも同様の症状に陥るひともいるらしく、大変そうだなーと同情してしまう。現在はなくなったけど、以前映画館なんかで後ろの人の視線を感じて頭が震えたことはあったので、気持ちは分かる気がする。
 
しかしこういった体験をするとつくづく感じるのが、未知や不思議が解消されると、ひとってこうも安心できるんだなーということですよ。「わからない」ことを説明付けてくれるものに猛烈な引力を感じる。ビバ「ディスグラフィア」!ありがとう「社交不安障害」!ってなもんです。自分の症状の有無が変わるわけではないんだけど、「得体の知れないもの」だったのが「既知のもの」になったというだけでとても安心することができた。
 
微妙に話が変わるんだけども、こないだ海外ドラマ『Xファイル』を何話か観ていて思ったんだけど、90年代までオカルトブームが脈々と生き延びてたのって、社会が急速に近代化し、隅々まで見渡せる(ような気がしてくる)状況の中で、それでも未知の部分があって欲しいという欲求が人々の中にあったからなんじゃないかなと。今更感漂う感想だけど。
冨樫義博なんかは絶対『Xファイル』好きだったと思う。僕は当初『レベルE』→『ハンターハンター』の流れって全く連続性を見いだせなかったんだけど、両作共に「未知」というものにアプローチしていると考えると、何だか納得できそう。
“「未知」が「既知」に変わることでの安心感が〜”って話の直後に、未知そのものを求める心理の話を持ち出すなんて矛盾してるじゃないかとツッコまれそうだけど。でも、未知なものに存在していて欲しい、未知なものを暴きたい、未知なものを説明してほしい。そうしたアンビバレントな感覚がヒトにはあるんじゃないかなーとか、今回いくつかのタイミングが重なって思った。
 
ついでに思い出したのが、中学だか高校で読まされた評論文。確か日本社会と妖怪の関係性に関する論考だったはずだけど。まさしく、「昔は分からないことは全部妖怪の仕業になっていたけれど、現代では科学的な理由付けがされるようになって云々かんぬん、それによって現代人は云々かんぬん」って内容だった記憶が。ちょっと調べてみたけど、この小松和彦ってひとの文章だったかなあ。
asahi.com(朝日新聞社):妖怪と現代人:1(小松教授) - 紙上特別講義 - 教育
記憶が曖昧なのでちゃんと思い出せないんだけど、無性に読み返したくなったのでとりあえずこの本ポチってみた。

 
 
最後脱線気味になったけど、個人的に今回のことは実に嬉しい発見だった。同時に、同じような症状を抱えた小学生もどこかにいるんだろうなーと思うと、こうした学習障害の知識がせめて教育現場にくらいは行き届いていてほしいなと願わざるを得ない。別段怒りは湧いてこないが、自分が自分や周囲の無理解以前の無知で苦しめられていたんだと思うと、どうにもやり場のない気持ちは残るので。
でも冷静になって考えてみると、教師や学校の方から「お前学習障害じゃね?」と言い出しにくいところもあるだろうな。そもそも知識が有ったからといって、そうした障害を教師がパッと見抜けるかと言ったら難しいだろうし。漢字テストの点が悪かったのは「勉強しなかったから」と考えるのは自然な思考ではあるし。であれば生徒やその家族が自ら気づけるようにするしかないのかな。そうした気づきを促す仕組みも、学校に備わってるのが理想だけど。やはり正しい知識を学校で共有できるようにしていく必要はあるんじゃないかな。そうした障害に気づけた後の学習支援の仕組みが整ってるのも必要だね。
そもそも読むことはできるのに漢字だけ極端に書けないケースってのはどのくらいレアなのかな。この歳になってあれこれ気づくというのも鈍かったのかもしれないな。ただ僕の場合後になって気づいたのは逆にラッキーな部分もあるかも。具体的なデメリットが前もって見えている分、改まって「障害」と言われてもショックは無に等しかったし。でもなー。適切な処置で改善したりもするらしいからなー。これからの子に関してはなるべく早めに気づくに越したことはないだろうなー。
 
まあとりあえず、パソコンとキーボードがあるので。
おちこんだりもしたけれど、僕はげんきです!アニメ観ます!