ヤマカンvs會川昇 motto☆派手に3回パン!

今朝起きてみるとヤマカンが會川昇とガチバトルしてて笑いました。

参考:http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-8415.html
やらおん様によるありがたいまとめ。やらおんもピックアップしてるけど「id:Vg3qNud6」は激熱。

ヤマカンは少しヘンな人として有名になりすぎた感があるため、頭ごなしに笑い飛ばしてしまう人も多いですが、今回の場合彼が怒る理由にはある程度納得が行きます。(お笑いな部分としては、当人同士のなじり合いよりも、仲裁に入ったノイタミナPにまで矛先を向けたあたりのほうが面白かったです。バーサーカーっぷり炸裂w
出崎統の世界』僕も買いましたが*1、會川さんは「寄稿」と「一問一答」コーナーが“意図不明”であるとして、イラっとされたようですが、たしかに「一問一答」のコーナーはわりと謎です。激濃なインタビューが並ぶ中、ポツンと二つだけ、「一問一答」のコーナーがあるんです。
「一問一答」コーナーには杉野昭夫寺沢武一がそれぞれ答えているのですが、杉野監督はロングインタビューの後ろのページで答えているのに、寺沢さんへのインタビューは存在せず、唐突に一問一答にだけ答える形となっているのです。しかも寺沢さんの答えている内容というのが、「『コブラ』の劇場版が知らない間に進められていた」というようなエピソードだったりするため、出崎監督にそこまで好意的という印象を受けない。
これに対してヤマカンの寄稿はというと、「いつものように上から目線で批評めいた駄文を連ねるのは、さしもの私だって躊躇います。最低限の礼節を持って、できるだけ粗相のないように、かの偉大なる監督を語っておきたいと思います」と前置きしている通り、批評というよりは個人的な感想のような文章を寄せています。以下にちょっと引用してみます。

 目が痛いくらいのハイコンに入射光、陰影をさらに強調する濃いパラがけ、唐突に入るイメージショットに分割画面、大胆なトラッキング、そして連発するハーモニー。繰り返し繰り返し飛び出てくる「出崎節」。濃厚なまでの表現主義。それは『AIR』の作品性から考えるとやりすぎでは……と思う所もありましたが、結局何であろうが、彼は最後までその様式を変えませんでした。
 自分の様式を変えない、やり方を変えない。それはとても頑固で、独善的な振舞いのようにも見えます。しかし私も、この歳になったから思うようになったのでしょうが、「自分の様式」というものが、作家にとってなくてならない生命線なのだという、そんな結論を出崎さんの仕事から読み取ります。
 TV版『AIR』は、可能な限り原作を尊重した作りでした。私も当時は若気の至りで自分のテクニックを作品内で披露することに快感を得ている時期でしたが、この作品はそうは行かない、と身を引き締め技工に走ることを封印して作品と真摯に向き合い、誠意を込めて表現する、それを学んだ基調な経験でした。
 ただ他方で、多少の違和感があろうと『AIR』を自分色に染め上げた出崎さんを、私は批判する気にはなれません。(中略)よほど「この人の演出スタイルがまた観たい!」とならない限り、ベテラン監督には急激に仕事が回ってこなくなるのです。その中で出崎さんも奮闘したのだろうと、今は想像できます。決して老害の頑固さとは思えない、多少あったのかも知れませんがそれだけではない。あれだけの実績を残しながら、現役であり続けようとした演出家、表現者としての、防衛本能だったのだと。私はやはりTV版の方に作り手としての誇りを持っていますし、故に出崎版を手放しに認めるつもりはありません。しかしそのフィルムの向こうに、ひとりの天才演出家の生き様を見るようで、切なくなるのです。
  
出崎統の世界』 <特別寄稿> 山本寛出崎統に寄せる追悼文」 pp.143-144

 
ヤマカンにはそれほど(全く?)面識のない出崎監督を適当に褒めちぎるよりは、ヤマカンらしいこと言ってるとも思いますが…。後年の出崎演出が素で古臭かったのではなく、生き残るためにあえてあの路線で頑張ったんだよ、と、解釈してるという事でしょうか。出崎監督の作家性については、ヤマカンのページの直前に掲載されている新房昭之インタビューが似たポイントを突いてるんですが、表現のしかたが対照的過ぎて面白いです。

出崎さんの演出手法がパロディーに使われていたり、「出崎さんといえば3回パンだよね」みたいな話があまりにも多いから、「そうじゃない」ということを言いたくてずっと発言しています。
 もうひとつ、出崎さんのことを「古い」と言うような声もあったじゃないですか。特に、美少女ものの『劇場版AIR』(05年)や『劇場版CLANNADクラナド〜』(07年)を発表されたときは、(原作の)ファンから批判が多くて、「そうじゃないでしょ」という気持ちになりました。だから、出崎さんについて話すようになったんです。(中略)
そこだけを真似をして、「出崎さんっぽいね」と言われても、たぶんそういうことではないと思うんですよ。1話1話の問題ではなくて、シリーズを通して全体的に出るものですからね。ましてや、そのシーンがどうこうという話ではない。(中略)
出崎さんの場合、作家だから作品が残っていくような気がします。流行り廃りで終わりではない。今の若い人でも観ることができる作品ですよ。そういう名作として残っていくべきであって、“古い”とか“飽きた”だなんて言ってはいけないと思うんです。僕は本当にそれだけです。
 流行りもののアニメで多いのは、ひとつの絵柄が流行るとやたらにその絵が流行っていき、次の世代の人たちに古いと言われて、その人達の作品は全部終わってしまう。出崎さんくらい特徴的だと、真似する人もでてくるわけですが、マネした作品はみんな古いものとして終わってしまう。でも、本人はずっとそれをやってきているわけで、もしも本人にその権利があれば、みんな真似できないわけでしょう。出崎さんなんて、本当、特許取ってもいいような事だと思いますよ。いろいろなものを発明しているんです。3回パンやハーモニーも当然発明ですし、段取り通りに繋がなくてもいいということもアニメにおける出崎さんの発明なんです。
 だって、今、出崎さんの作品を観てもそんなに変じゃないでしょう。それだけ、皆出崎さんの発明に影響を受けているんですよ。
 
新房昭之(アニメーション監督)「出崎さんが作る作品は“大人が作ったアニメ”という気がするんです」 pp.136-140

 
新房監督はこの他にも出崎さんを「詩人」と評していたり、とにかく作家「出崎統」をリスペクトしまくり。表面的な技術を一つ取り出して「出崎っぽい」言ってしまうことにとても批判的で、シリーズを通して浮き出てくるものこそが出崎らしさであると、力説してます。ヤマカンが後年の出崎作品における出崎成分が「老監督の生き残りのための知恵」とでも言いたげなのに対して、あれら全てが詩人・出崎統から滲み出た作家性の賜物なのだと、出崎信者視点で語ってる新房さん。みたいな構図。*2
「古臭く見えるのは老害が意地を張ったからでは(ほとんど)なくて、あれは老監督の生きるための知恵だったんだよ、ちょっと歳を取った今だから分かるわー」
僕がまともに観たことがある出崎作品は『ガンバ』と『宝島』だけ(しかもどちらも視聴途中…。めちゃくちゃ面白いですよ!)で、近年の作品を殆ど目にしたことがないため、ヤマカンの言ってることの妥当性は判断しかねますが。しかしまあ、どうにも言い方にトゲは感じますね。
ただ個人的には、前述の「一問一答」コーナーの不可解さと、ヤマカンの寄稿で感じた引っ掛かりは、やはり別物。両者をひっくるめて、「意図が不明」とするのは、やや乱暴には感じます。しかも「腹立たしい」とまで言われたら、ヤマカンなら噛み付くのも無理はない…のかな?僕が引っ掛かりを感じたポイントが會川さんと同じだったかは分からないですが、會川さんもいっそのこと、ヤマカンのエゴサーチに引っかかったときに素直に理由を言えばモヤモヤが残らなかったかもしれないのに。

僕が考える會川さんの立腹理由
A:ヤマカン&寺沢はもっと出崎監督に好意的な事書けよ、腹が立つ。
 or
B:ヤマカンはもっと監督に好意的な事書けよ。あと、「一問一答」は、コーナーとしてまとまりがなく、浮いてるよな。腹が立つ。

・・・一応無理やり2パターン考えたけど、結局ヤマカンの寄稿への不満の理由はこれしか思いつかない。
ヤマカンと會川さんが最初に揉めた、「意味」か「意図」かというのは、やはりヤマカンが言う通り、焦点じゃないと思うんですよね。「意味じゃなく意図だよ(ニッコリ」というのは、エゴサーチしてやってきたヤマカンに対する相当な煽りだと思うw 「意味が分からない」ならまだ良いけど、「意図が分からない」だと、「掲載する域に達してない」と言ってるようなものですから。
ただ、面と向かって「偉大な監督に対して寄稿の内容が不遜に感じたから」と答えていても、「いやそうした形式主義はアニメ界の悪しき風習で、ああいった個人の異見は尊重されてしかるべき」みたいな形で返されて、結局話がこじれていた気がするので、一方的にファビョらせたように見える今の形は、會川さん的には結果オーライなのかも…。がんばれヤマカン!まけるなヤマカン!

*1:非常に濃い内容なので興味がある方は是非手にとってみてください!

*2:げっ・・・記事書き終えてから気づきましたが、ヤマカン&新房監督発言引用部分が、「【ネット】ヤマカンこと山本寛氏、「出崎統の世界」への寄稿文を「意図不明で腹立たしい」と評した脚本家の會川昇氏とネット上でバトル」←このスレのid:HC22l4eNと丸かぶりw