『輪るピングドラム』最終話感想 幻想が作り上げた戦略を葬り去れ

ピングドラム』は地に足のついた幸福を探す物語だったと思う。
一歩間違えれば、「運命」の名の下に「こどもブロイラー」に行くことや、歪んだ大人になることを強いられる「氷の世界」。その根本的原因である「呪い」は、完全に振り払う事はできない。過去にあった事や、現在たしかにそこに「ある」ものを、無かった事にはできないのだから。
しかし最終話を観た後、「呪い」の存在が皆の不幸を確定させてしまうとは限らないのではないか、運命の果実を分かち合う相手さえいれば、「呪い」による「罰」さえも、笑って乗り越えていけるものではないかと思えた。
ピングドラム』は3月の震災を受けて、作品内容の方針転換があったらしい。元々計画されていたのは「もっとエッジの効いた見せ方」だったとか。正直そちらも気になるけど、結果的にこの形に落ち着いた事は、この作品に大きな独自性を与えたと思う。エッジの効いた見せ方から、優しい見せ方へ。優しくなりすぎて、現実の辛さや醜さから目を逸らすための、見せかけのハッピーエンドになる事だけが怖かったけど、それもなかった。
最終話で行われた「運命の乗り換え」は、世界の仕組みを変えてしまうようなものではなく、あくまで高倉三兄妹と、その周囲の人々の運命を乗り換えたものだったと思う。世界にはびこる「呪い」がなくなったわけではないけど、主要な登場人物達は運命の果実を分かち合う相手を見つけ、「ピングドラム」を見つける事ができた。世界の理不尽さを覆い隠し、無責任に希望を謳ってしまう事はしなかった、この上なく真摯なハッピーエンドだと思う。
しかし、登場人物全てが幸福を見つけられたかというと必ずしもそうではなく、非リアのサネトシ先生は最後まであちら側に残ってしまった・・・。
 
23話の最後にこんな台詞がある。



 
僕は何者にもなれなかった。
いや、僕はついに力を手に入れたんだ。
僕を必要としなかった世界に復讐するんだ。
やっと僕は透明じゃなくなるんだ。
 
人間ていうのは不自由な生き物だね。なぜって?
だって自分という箱から一生出られないからね。
その箱はね、僕達を守ってくれるわけじゃない。
僕達から大切なものを奪っているんだ。
例え隣に誰かいても、壁を超えて繋がることもできない。
僕らは皆一人ぼっちなのさ。
その箱の中で、僕達が何かを得ることは絶対にないだろう。
出口なんてどこにもないんだ。
誰も救えやしない。
だからさ、壊すしかないんだ。
箱を。人を。世界を…!

この場面で恐ろしくシビレるのが、「例え隣に誰かいても、壁を超えて繋がることもできない」ことを、地下鉄車内の乗客(シラセ、ソウヤ、サネトシを含む)が隣り合いながらも他人と視線を交わそうとしない場面を淡々と描く事によって表現している事。物凄く説得力がある。
サネトシと桃果が相打ちになる場面で、サネトシが二羽の兎に分裂している事や、23話の最後付近でサネトシの影の中に二羽の兎が飛び込んでいる場面から、「サネトシ≒黒兎」という事が推察できる。同じくペンギン帽子に分裂しているらしい桃果だけど、彼女の場合プリクリ様状態では傍若無人な性格になっていた。分裂状態の人格は元人格の特定の側面を抜き出したものであると考えると、

僕は何者にもなれなかった。
いや、僕はついに力を手に入れたんだ。
僕を必要としなかった世界に復讐するんだ。
やっと僕は透明じゃなくなるんだ。

というシラセとソウヤの台詞は、サネトシ自身の声とも取れる。また、サネトシは自身を「呪い」の象徴と位置づけている事から、過去に透明になり、何者にもなれず忘れさられていった者たちの声を代弁していると考えることもできる。「僕を必要としなかった世界に復讐するんだ」「やっと僕は透明じゃなくなるんだ」
いずれにせよ、本作ではこれまで「氷の世界」の残酷さを克明に描く過程があったからこそ、彼の抱える憤りには一定の正当性が与えられている。
ちなみに、先日の「こそピン」イベントでサネトシ役の小泉さんと、小説版『ピングドラム』作者の高橋さんの間で次のようなやりとりがあった。 

小泉:ピングドラムは愛の話。その「愛」と対極にいる存在がサネトシだと思うのだが、どう思うか。
高橋:自分の考えとしては、「対極にいる」というのとはまた少し違う。本当は一番愛が必要なキャラクターなのに、そこに素直になれないのがサネトシなのではないか。

うろ覚えだが、だいたいこのような内容の会話だったはず。個人的には高橋さんの意見に近い。今回の感想の一番最初に「運命の果実を分かち合う相手がいれば、「呪い」による「罰」さえも、笑って乗り越えていけるものではないか」と書いたが、これを明快な形で言葉にしてくれているのが、最終回の多蕗とゆりだと思う。

ゆり、やっと分かったよ。
どうして僕達がこの世界に残されたのかが。
 
教えて。
 
君と僕はあらかじめ失われた子どもだった。
でも世界中の殆どの子ども達は、僕らと一緒だよ。
だからたった一度でも良い、誰かの「愛してる」って言葉が必要だった。
 
例え運命が全てを奪ったとしても、愛された子どもは、きっと幸せを見つけられる。
私たちはそれをするために、世界に残されたのね。
 
愛してるよ。
愛してるわ。


ピングドラム』はサネトシという、たった一度の「愛してる」を言ってもらえなかった人を強く否定することはせず、かなり同情的描いたと思う。
「果実が得られないのなら、表面的なキスを凍りつくまで繰り返したほうが楽しい」というサネトシの言葉からは、諦めに近い、ぼっち論を突き詰めた破滅的な感情が垣間見える。それは結果的に「僕らは皆一人ぼっちなのだから、世界を壊すしかない」という、破滅的な計画に繋がる。
初見時は、サネトシがカルト集団を操って世界の破壊を企んでいるという分かりやすい悪役ポジションも兼ねているおかげで、なんとなく「サネトシサイド VS 桃果サイド」という印象が強かった。ところが最終回まで見終えた後に、13話のサネトシの台詞を聞き返してみて、「サネトシVS桃果」の構図の理由について気付かされた。

その女の子はね、突然僕の前に現れたんだ。
驚いたことに彼女はね、僕と同じ種類の人間だったよ。
僕と同じ瞳。
出会った瞬間、僕はこの世界で一人ぼっちじゃなかった事を知ったよ。
嬉しかったなぁ。
そうなんだよ。彼女に出会うまで、僕はこの世界に一人だったからね。
僕に見える風景は僕以外の誰にも見えない。
僕が聞こえる音は僕以外の誰にも聞こえない。
でも、世界中の人の声が聞こえていたんだ。
世界中の「助けて」って声が聞こえていたんだ。
本当だよ。
だから、世界の進むべき方向も、僕には見えていたんだ。
嘘じゃないって。
でも、だから悲しかったよ。
だって彼女と出会った瞬間、僕達は絶対に交わらないって分かったから。
ん・・・。彼女は僕の味方になってくれなかった。
彼女は、僕を否定したんだ。
 
同じ風景が見える、唯一の存在である、僕を否定した。

ここでサネトシは桃果についてはっきりと、自分と「同じ風景が見えている」と言っているんですよね。ここでいう「風景」とは、「世界(≒氷の世界)中の人の助けてという声が聞こえている事」だと思うのですが。自らを「呪い」と称し、「氷の世界」で苦しむ人々の正統な代弁者を自負するサネトシに気をとられるあまり、桃果もまた、世界の現状を俯瞰的に見渡せるポジションにいた事を見落としてました。
上の説明であえて「世界≒氷の世界」と、ニアリーイコールを用いたのは、桃果はサネトシと違って、世の中の理不尽さを知ってもなお、それを「氷の世界」とは思わずに、美しいものとして捉えているのだろうと考えたからです。桃果による幼少時の多蕗やゆりさん救済のエピソードには、桃果が世界の理不尽さを見つけ出す能力を持っていた事を説明する側面もあったのではないでしょうか。
サネトシと桃果は「氷の世界」と形容してしまいたくなるような世の中の現状をお互い認識していた。ところが、それに対するアプローチの仕方がまるで違ったので、最終的な対立構造に行き着いたのでしょう。
 
サネトシも手遅れになる前の段階で、桃果、もしくは『セーラームーン』の月野うさぎのような存在に出会う事ができていれば、救われていたかもしれないのに・・・と、思ってしまう。いや、確かにうさぎなら『劇場版セーラームーンR』におけるフィオレのように、サネトシの事も救ってくれたかもしれない。しかし桃果はどうやら「敵」と定めた者にまで愛の範囲を伸ばそうとするタイプの人間ではなかったようだ。(うさぎとフィオレの話に関しては、幾原監督の『劇場版セーラームーンR』インタビューを取り上げた過去記事を参考にしてもらえれば→http://d.hatena.ne.jp/samepa/20111129/1322525659
桃果は「みにくいアヒルの子なんていないんじゃないか」と言ってるけど、「世の中に醜いものは無い」と言ってるわけではない。プリクリ様状態では「やれやれ、ヒトというのはほとほと学習能力に乏しい生き物だな」みたいな事も言っている。「理不尽さをはらんでいるとしても世界は美しい。しかし、自分が考える美しさに害を及ぼすような存在は、有無を言わさずに排除する」、というスタンス。ゆりの父親の存在を無かったことにした事も、サネトシに対し「この世界から追放するわ。あなたを永遠の闇に吹き飛ばす」と言った事も、それを物語っている。
潜在的に「果実」を欲しているサネトシは、同じ風景が見える桃果に惹かれていたようだけど、

桃果:私はもう行くわ。
眞悧:そう・・・。

と、最後でもきっぱり振られてしまう。最終話を観たとき、ここの物悲しそうなサネトシを見て胸が締め付けられた。
以前『輝きのタクト』の感想でヘッドに対する同情的な感想を漏らした覚えがあるけど、基本的に僕はダメなやつに感情移入してしまう傾向がある。ヘッドはなんだか救いようのある馬鹿という感じだったが、サネトシというキャラクターに関しては救いようのなさというか、救わせてくれる隙を見せようとしない潔癖さを感じて、なんとも切ない気持ちにさせられた。
 
・・・しかし、例えサネトシが誰かからの愛によって奇跡的に救われたとしても、「個人」としての眞悧が救われる事はあっても、「呪い」としてのサネトシが消滅することはありえない。いくら健全な社会が構築された所で、全ての人が凍えずにすむ世界はありえない。少なくともこの作品にはそんな魔法のような提案は無かった。・・・というか、たぶんそうした潔癖性を突き詰めると、「ヒト」という種そのものを変えてしまおうとする『エヴァ』の「補完計画」や、サネトシの「世界の破壊」のような極端な方向に進むことになる。
極論を放棄すると、結局は今の世界で生きるしかなくなる。そこでは「選ばれる」事でしか、凍えずにすむ方法はない。しかし『ピングドラム』では、選ばれなかったからといってサネトシのようにひがんでしまう事を良しとしたわけではなかった。「与える側」になってみる勇気を持てば、それだけ愛が帰ってくるチャンスや、幸福になる機会も増える。最初は他人同士だった晶馬、冠葉、陽毬、苹果が、最終的に相互に果実を与え合える存在となったあの循環こそが、それを象徴しているように感じた。
 
 
ピングドラム』は観た人の数だけ違った見方ができるのではないかというくらい、本当に魅力に溢れた作品でした。
個人的には幾原監督の前作『少女革命ウテナ』を初めて観たのがたまたま昨年だったこともあり、その衝撃が抜け切らない中での新作発表だったため、本作への期待は放送前から並々ならぬものでした。放送が始まるまでに幾原さんが関わった作品になるべく触れておこうと、『セーラームーン(TV版を「R」の途中まで)』、『劇場版セーラームーンR』、『青い花』、『トップ2』、『ソウルイーター』、『ノケモノと花嫁』と、時間の許す限り見まくりました。こんな「変」な作品を作るんだから、本人も面白い人物に違いないと思い、監督のインタビューが載った90年代のアニメージュを買いあさったりもしました。放送が始まってもテンションは下がるどころか上がり続け、1話の先行上映回や「こそピン」イベント、最終話のオールナイト上映会にも参加できました。
今年は例年にも増して、暗いニュースや悲しい出来事の多い年でしたが、そんな中、これだけ楽しい時間を提供してもらえたのは大きな救いでした。『ピングドラム』に触発されて、今まで見る機会のなかった本や映画に触れ、新しい発見があったりもしました。この作品は逃避先ではなく、次の行動のためのモチベーションをたくさんくれたような気がします。個人的に今年はピングドラム漬けの、本当に楽しい事の多い、実り多い一年でした。
そんな『ピングドラム』に関わった全ての人にお礼が言いたいです。とりあえず放送は終わってしまいましたが、これから何回も見返す事があると思います。素敵な作品を本当にありがとうございました。