『フリクリ オルタナ』感想 まずいラーメン

 伝説のOVAが帰ってきた。ファン待望の続編。「ダイナミックでソリッドでポップにスクラップしつつビルディングする本作で、再び世界を驚愕させるー...はず!」。じゃないのである。

 言いたいことが大きく分けて3つある。まず最大の違和感だった『オルタナ』におけるハル子の造形の不可解さについて。次にざっくり手短にオルタナ』全体の感想を。最後に公開前から感じていた『プログレ』『オルタナ』という企画そのものに対する不満点の列挙。なおネタバレ全開なので本編鑑賞後に読むことをおすすめする。
※以下、2000年から2001年にかけてリリースされたOVA作品を『フリクリ』、それ以外を『プログレ』『オルタナ』と表記する(追記:『プログレ』の感想はこちら

フリクリ『オルタナ』『プログレ』の宣伝テキスト

何言ってんだこいつ(公式サイトより)

ハル子の皮を被ったなにか

 パンフレットで鶴巻和哉も問いかけている通り、「フリクリってなんだ?」とは難問だ。『フリクリ』のハル子の台詞に「私はタッくんの少年の日の心の中にいる青春の幻影」というものがあるが、100人いれば100通りのフリクリ像があり得る。
 新谷真弓はTOHOシネマズ上野で行われた『オルタナ』の公開初日舞台挨拶で次のように述べた(手書きメモを元にしているので不正確。他のレポートなども参照のこと)。

 

制作時、上村監督にまず“ハル子という人は、前のハル子と同じ人なんですか?”と訪ねました。『フリクリ』はこう言っちゃあれですけど、鶴巻監督のプライベートフィルムのような作品ですよね。別の人には同じハル子は作れない。上村さんがプライベートフィルムとしてそれに合うハル子を作れば良いんじゃない? と伝えました。

 

 全くその通りだし、これは続編を制作する手つきとして正しい思う。新谷は登壇直前、パンフレットの鶴巻のコメント「もしもフリクリに続きがあるとするのなら、それはフリクリとは何かを探し確かめようとするような物語になる」を目にして、涙が溢れそうになったという。しかし、それだけに『オルタナ』の内容が伴っていないのが残念でならない。
 自分流のハル子を描こうとするのは結構だが、それは全く違うハル子を捏造しても良いということにはならない。『フリクリ』におけるハル子の絶対の目的は「アトムスク」を手に入れることだ。人工衛星が降ってきても地球の安全などは二の次で、「場合によっては皆さんさようなら」が基本スタンスであり、正義のヒーローなどとは一線を画する存在だ。
 『フリクリ』脚本(『プログレ』『オルタナ』にはノータッチ)の榎戸洋司は、小説版3巻のあとがきで次のようにつづっている。

 

 大人になって“子供であること”を失い、それでもまだ“限定された存在”である僕たち。
 でもだからこそ限定された存在であることに胸を張りたいとも思います。
 限定された存在であることはけして本当の豊かさを手にすることの障害ではない。
 貪欲な意思と何者にも支配されないあの自由なハル子の目が示してくれたのは、逆にそのことのような気がするのです。だって彼女ですら、やはり限定された存在でしかないのにそれでも暴走人生を送っているのですから。
「ときにはまずいラーメン食ってみたりするのも人生の豊かさってやつ」
 そう言って笑うことができるのは、なんだかカッコイイ大人のように見えるのです。

 心豊かな新世紀となりますように――。

 2000年12月14日

榎戸洋司

 

 これを読むと涙が溢れて仕方がない。もう2018年だというのに、まずいラーメンに激高して深夜29時にキーを叩いている。

 学校や周囲の環境に束縛される子供と違い、大人とは永遠の自由時間を手に入れた存在である(かのように、ナオ太には見えていた)。その象徴がハル子なのだ。マミ美もハル子の第一印象は「自由って感じ」だった。そんな果てしなく自由に見える彼女を束縛するのが、アトムスクへの執着である。
 アトムスクの位置を指し示すあの鎖が、むしろハル子をハル子たらしめていた。しかし『オルタナ』ではそれが欠落している。彼女はただ悩める女子高生を善意で導く説教お姉さんでしかなく、なんなら積極的に地球を守る正義の味方ですらある。彼女が地球を救おうとする理由は最後まで説明されない。

 性格の違いを設定的に説明することは可能なのかもしれない。そもそも『オルタナ』で彼女は鎖の腕輪をしていない。『オルタナ』の最後で地球外に飛ばされるハル子は、『フリクリ』での記憶を幻視する。もしかしたら『オルタナ』は“オルタナティブ”という言葉の通り、パラレルワールドを舞台にした世界なのかもしれない。あるいはアトムスクに出会う『フリクリ』以前の物語。はたまた『フリクリ』を経た後にアトムスクへの関心を失ってしまった後のハル子なのかもしれない。
 だが、そんな彼女の姿を見たかったか? と問われれば、閉口するほかない。やはり僕にとっては「あの」ハル子こそ唯一無二の存在であり、『オルタナ』のハル子は冒涜的ですらある。
 『オルタナ』はハル子さえ登場しなければよくある退屈な凡作と片付けられたかもしれない。しかし彼女の登場が、それすらも不可能にしてしまっている。絶対的な新谷真弓の声を宿してさえこんな感想を抱くことになるとは、悲しくて仕方がない。

オルタナ』全体の感想 「縦軸」の欠如

 本作は見どころが全くないわけではない。女子高生の頭から車が飛び出てきてカーチェイスになり、ロボットに変形した車とそのまま戦う……といったガジェット的な捻りは部分的に楽しむことができた。しかしそれだけだ。3話のランウェイのシーンも、ハル子がモデルのように歩くというシチュエーションとしての瞬間的な面白さはあっても、コンテストの真の優勝者を蔑ろにしているようで、シーン単位では単に不快だった。
 クライマックスとなるアイロンを時空の彼方へと葬り去るシークエンスも、画的な強度とは裏腹に頭にきた。なぜ仮にも「フリクリ」の名を冠した作品で直球な青春台詞を見せられなければならないのか。

 思えば『フリクリ』の魅力には、鶴巻監督の言葉を借りるなら「縦軸」を意識した多層構造があった。一見野球やサバゲーをしているだけなのに、ハル子の行動は実はメディカルメカニカや地球当局への牽制になっていたりしつつ、ナオ太は勝手に思春期的な悩みをマミ美やニナモと繰り広げていたりする。さらに作品の上層に目を向ければ単にピロウズのMVとしても気持ちよく見られる*1。これこそが100人いれば100通りのフリクリ像が生まれた所以でもある。

 ところが『オルタナ』では判で押したような「女子高生の悩み」と、それを導こうとするヤンチャだけどたまに良いことも言ったりする説教臭いお姉さんしかいないのである。

 それに5話でいきなりスポットが当たるペッツに対する思い入れが、こちらとしては皆無なのだ*2。おまけに最後はカナがエキゾチックマニューバを発生させ、髪をオレンジに染めた『トップ2!』を思わせる演出で目配せしてくる。あの「やってやった感」がハッキリと拷問だった*3

 上村監督は『オルタナ』の「毎日が毎日毎日ずーっと続くとか思ってるー?」というセリフがじわじわ自分の中で膨らんだという話をしていた。舞台挨拶で古巣のガイナックス時代を振り返りつつ、当時はひたすら楽しかったが、もう戻らないものだという話をしていた。そこだけ切り取るとなかなかエモいのだが、残念ながら3話でモッさんが言っていた通り、結果が全てなのである。しかし上村監督は打席に立ちバットを振った。そんな彼を責める気持ちは特にない。ただ、無茶な企画を立てたプロデューサー陣に対して思うところは少なからずある。
 またこれはそもそも論すぎて言ってもせんなきことだが、OVAフォーマットで制作されたアニメ6話をそのままくっつけて劇場公開すること自体が無茶だ。だいたい米国ではテレビ放送された作品なのだ。各話にエンディングを挟まないのも、逃げ場のない窮屈さに拍車をかけていた(というかもっとエンディングでピロウズの曲を聴きたかった)。 

公開前の不信感

 『フリクリ』は僕にとって唯一無二のオール・タイム・ベストだ。はっきり言って、そもそも続編は望んでいなかった。とはいえ当の鶴巻監督も、多くの人にとってのオール・タイム・ベストである『トップをねらえ!』の続編を手がけている。そしてそれは傑作だった。だから、続編が発表されたとき「正気か?」とは思ったが、一拍置いて、ありかもなとも思った*4
 『フリクリ』の精神性を、『トップ!』→『トップ2!』のように引き継げる人物が作った『フリクリ2』ならば見ても良いと思っていた。現在のガイナックスやIGに適任者がいないのであれば、カラーやトリガーから募ってでもやりたい人間が作れば良い。
 しかしそんなこともなく、否応なく襲い来る本広克行である。なぜ? 現時点で関係者のインタビューなどを見ても、なぜ本広が総監督なのか、納得のいく説明を目にしたことがない。これでは単なる名義貸しと思われても仕方がないだろう*5


 脚本の岩井秀人への不信感もある。まず普段政治的なツイートが多いので本編の総理大臣による寒い政治ギャグは笑えなかった。だがそれ以上に印象最悪なのは『プログレ』『オルタナ』の製作発表があったときのツイートと、『オルタナ』の公開1ヶ月前に投稿された“ぼやき”ツイートだ。

  フリクリ』を「愛と破壊の物語」と捉えている人が脚本を手がける続編を見なければならない。その事実と向き合わなければならないことを強いられたこの1年は、はっきり言って苦痛だった。また劇場公開を間近に控え新PVが公開された際の岩井のツイートも目を疑うものだった。

 

 

岩井「書いたはずだが、すでに知らないセリフ山ほど言っとる…涙 やられたか…」

 

  文意が取りづらい日本語だが、「脚本を手掛けたはずだが、自分のあずかり知らぬ場所でセリフが書き換えられていたようだ」と驚いているように見える。このツイートに対して新谷が応戦した。


新谷「私たち現場の人間がそれなりの覚悟を持って新しいものを産み出そうとしていたときにすでにあなたはいなかったでしょ、私は最後まであがいたよ。貴方にそれを言う資格はないし、言うタイミングでもない。アニメだろうと演劇だろうと脚本家の持つ責任は変わらないと思う。なんてがっかりな奴だ」

 

  もうなんか、ひえ~〜っという感じだ。

 舞台挨拶やパンフレットのインタビューでも明かされている通り、ハル子のセリフはギリギリまで修正が加えられていた。脚本、コンテ前、アフレコ直前と3回、新谷による微調整が行われたとのことだ。ちなみに自由奔放なつくりに見えるフリクリ』では、アドリブはほぼ無かったことはファンの間では有名だ。作中の会話劇などはもちろん、予告編の小ネタに至るまで練りに練られた脚本が事前に用意されていたのだ。

 

 なお、本広総監督と岩井は公開後、まだ本作の告知ツイートを1度もしていない(別の作品の告知はしている)

【9月17日追記その1】

 本広総監督がTwitterで、なぜ「プログレ」「オルタナ」の宣伝をしないのかとリプライでたずねられ、「これでもしてるつもりなんですけどw フリクリも応援お願いします!!」と9月16日に回答していた。本広がTwitterで「プログレ」「オルタナ」に言及したのは8月29日以来のことである。

(追記その1ここまで)

【9月28日追記その2】

 岩井秀人Twitterで「明日からヒドミが本番どす!」と、『プログレ』の告知ツイートを(間接的に)行った。

 「ヒドミ」とは『プログレ』の主人公の名前。ちなみに岩井の過去作に2005年初演の『霊感少女ヒドミ』という舞台作品が存在する。なおこちらのインタビューによると舞台での登場人物名「ヒドミ」は岩井の妻「ヒロミ」にちなんでつけられたものであるとのこと。

 岩井がTwitter上で『プログレ』『オルタナ』関連の情報に(間接的であれ)触れるのは上記7月12日のツイート以来、約2ヶ月半ぶりのことである。

(追記その2ここまで)

 

 宣伝まわりについても疑問が多い。冒頭で貼った「……はず!」もフリクリ的なものとして受け止めがたいのだが、なによりもキツイのはキャッチコピーの「走れ、出来るだけテキトーに。」「世界は、テキトーに出来てんじゃん。」だ(追記:『プログレ』感想でキャッチコピーについてあらためて触れています)。

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残念なキャッチコピーその1

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残念なキャッチコピーその2

 ビジネスとして成功させるためには、元祖『フリクリ』のような煙に巻いた宣伝が難しい、というのは理解できる*6。『フリクリ』が2010年に初BD化した際、駄菓子のようなパッケージにしたらファンから非難が上がったなんてこともあった(開封したら二度と元に戻らない喪失感が実にフリクリ的で個人的には好きだったのだが)。『フリクリ』は良くも悪くもエヴァブーム直後だからこそ実現・成功した作品だった。だが、今回のこのキャッチコピーがフリクリをどう因数分解して出てきた言葉なのか分からない。いや、分かるのだが、それは残念ながら誤答である。
 奇しくも榎戸は今年、自身のキャッチコピー論について次のように語っている。

 

 ひとつの作風として、“キャッチコピーは真逆のものをぶつけた方がいい”と僕は思っていて。『文豪ストレイドッグス』という作品はスタイリッシュで、キャラクターみんながかっこいいんですよ。タイトルの“ストレイドッグス”も迷い犬のことなんですけど、迷っているのにかっこいい言葉なんですよね。“まよい、あがき、さけぶ だって僕は生きたかった”は敦の台詞として聞いたときに一番納得できると思うのですが、スタイリッシュな『文豪ストレイドッグス』の、本来の泥臭い部分に立ち返って、“そこまでの泥臭さやかっこ悪さを見せるというかっこ良さ”を提示できたらいいなと思っていました
「Spoon 2Di vol.37」p.5

 

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榎戸洋司が手掛けた印象的なキャッチコピー

「まよい、あがき、さけぶ だって僕は生きたかった」(文豪ストレイドッグス DEAD APPLE

 

 真逆の何かをぶつけてくれるのならまだ良かった。しかし『プログレ』『オルタナ』のコピーはカウンターにすらなっていない。ただ表層的にフリクリっぽさを出そうとして、滑っているだけだ。全くフリクリ的ではないし、こんなことをいちいち指摘しなければならない状況が悲しい。

 腑に落ちない点はまだある。ナンバリングの問題である。ご存知の通り、今回の新作『プログレオルタナ』は当初『フリクリ2/フリクリ3(仮題)』というタイトルで発表されていた。仮題の時点で一部のメインスタッフも発表されていたため、『2』が『プログレ』、『3』が『オルタナ』に該当することが判明している。日本での劇場公開に先行して米国で放送された順番も『プログレ(2)』→『オルタナ(3)』だった。ところが日本での公開順は『オルタナ(3)』→『プログレ(2)』なのである。
 なぜ『3』の後に『2』を上映することになったのか? 創作的な意図があるのか? ナンバリングは便宜上のもので意味はなく、なにか宣伝的な理由で『3』から上映することにしたのか? 特に公式見解は出されていない。これはあまりに納得がいかなかったので、iTunesで課金して、先に北米版の『プログレ』を観てしまった(感想は日本での公開に合わせて追って記事にする)。

 また米国ではハル子役を一貫してKari Wahlgrenが演じるのに対し、『プログレ』ではハル子役を林原めぐみが演じているのも、ファンとしては納得し難い。ハル子が「ハルハ・ラハル」と「ジンユ」という2人のキャラに分裂するからであるという一応の理由付けは可能だし、そのように喧伝もされているが、「ハルハ・ラハル」は実質的にハル子のことであり*7実際米国版では『プログレ』『オルタナ』両方を一貫してWahlgrenが演じている。なぜなのか、今後インタビューなどで明らかになることを望む。

 『プログレ』ももちろん見届ける

 前述の通り既に『プログレ』は鑑賞済みだが、英語音声だったのでセリフのニュアンスは拾いきれていない部分がある。ふせったーで一旦感想をアウトプットしているが、ブログでの記事化は28日の劇場公開を待ってからにしたい。ちなみに、世間的な評価は逆になるかもしれないが、初見での感想としては『オルタナ』の方が好みだった。理由は次回。……しかし仮にも『フリクリ』と冠する作品であれば、優劣を付けられるものではなく、絶対的な作品に続編として現れてほしかった。つくづく残念だ。

 唯一、ピロウズの主題歌だけは続編の強度を十二分に持っていたし、手放しで褒められるものだった。あと、「Thank you, my twilight」の使い方も良かった。「Spiky Seeds」と「Star overhead」をヘビーローテーションで聴きまくっている。これから『フリクリ』の小説版を読み返し、OVAを見返したあとで、劇場で買ってきた『オルタナ』BDを見る。『プログレ』までにもう2回見たい。

ふせったーでの『プログレ』感想(※ネタバレ注意)

1話

2、3話

4、5話

6話

*1:便宜上ピロウズの曲を「上層」としたが、本来何が上層に当たる(最初の取っ掛かりになる)かは視聴者の主観的な問題であり、見る人によって異なる。

*2:ペッツはキャラクターとしては面白かったが、やはり掘り下げが不十分だったと思う。あと唐突な物々交換癖を使った伏線も露骨に感じていまひとつだった。

*3:余談だが上村監督は過去作『パンチライン』でも能力を発動すると髪がオレンジになるヒーロー/ヒロインを描いている。

*4:それにしても『オルタナ』公開初日に『トップをねらえ3(仮称)』の製作発表があったのはあまりにできすぎている

*5:オルタナ』の上村監督はガイナックス出身なので、正統性という意味では筋は通っている。パンフレットの上村監督インタビューでも、『トップ2!』で設定制作補助として約3年間鶴巻監督の補佐役を務めていたエピソードが明かされていた。上村はその後ガイナックスで『ダンタリアンの書架』(2011)を監督し、2015年にはドタバタ感がフリクリっぽいと言えなくもなくもない『パンチライン』を監督した後、2017年に新設スタジオ「NUT」(『オルタナ』の制作もここだ)にて『幼女戦記』を監督している。

*6:とはいえVHS版の裏面の文面(例:第1話の副題は「カノジョハ宇宙(ソラ)カラフッテキタ!?」である。本編のカタカナ4文字で表現する美学から大きく外れている)などは今読み返すとちょっと辛いものがある。

*7:キャラの同一性が怪しいという話を上の『オルタナ』感想でしたばかりにもかかわらず大雑把な物言いになってしまい申し訳ない。