パッチワーク上等!キルラキル最終話感想

5話などでは面白さのためだけに感涙したりもしたが、シリーズを通してみると必ずしもテンションマックスで観続けられたわけではない。様々な魅力に溢れた作品であったことは決して否定しないものの、これが本当に過去のどの今石×中島作品よりも好きか!?と問われると、ちょっと即答し辛いところはある。
と、保険地味た前置きはさておいて……最終回は本当に素晴らしかった。何より作り手の美学が一貫してるのが素晴らしい。

 

アンチスパイラル「何故だ……!お前たちのどこにこんな力が……!!」
シモン「俺たちは、一分前の俺たちよりも進化する!一回転すれば、ほんの少しだが前に進む……それがドリルなんだよ……!!」
アンチスパイラル「それこそが滅びへの道!螺旋族の限界に何故気づかぬ!」
シモン「それは貴様の限界だ!この閉ざされた宇宙で、王様気分で他の生命を封じ込めた、貴様自信の限界に過ぎない!!!」
(中略)
シモン「覚えておけ。このドリルは、この宇宙に風穴を開ける。その穴は後から続く者の道となる。倒れていった者の願いと、後へと続く者の希望。二つの思いを、二重螺旋に織り込んで、明日へと続く道を掘る!それが天元突破!それがグレンラガン!!俺のドリルは、天を創るドリルだ!!!!!」

 
ここぞという決め台詞を書かせたら中島かずきは天才だ。中島さんは、『グレンラガン』ラストの「ドリル」と「二重螺旋」を絡めたくだりは最初から決め込んでいたものではなく、最終話の直前でひらめき、勝利を確信した、というエピソードをどこかのインタビューで披露していた。確かに超絶格好良い台詞なので、アンチスパイラルさんはぐうの音も出ずぶっ飛ばされる。しかし、どこかもやもやが残った。勢いに乗せられ、とりあえずアンスパさんをやっつけたけど、長期的に見て、螺旋族のインフレ気質が破滅へと向かわない保証はどこにあるのか?
独立し、トリガーを設立してからの今石組の歴史は、上記の問いにいかにして答えるかの苦闘の歴史と言い換えられる。
 
これまでのようなオーバークオリティな作品作りが、結果的にアニメを取り巻く環境全体の首を絞めているのではないか。そんな疑問が、近年の今石監督達にはあったようだ。
そんな現状への今石流の打開策が、省力化できる部分の作画リソースをなるべく省き、テクニックやアイディアで乗り切るというもの。カートゥーンやAプロ系の作品が好きな今石さんらしい。
この哲学は『パンスト』の頃から顕著になり、『インフェルノコップ』において一つの頂点を極めた*1
そんな省力化の哲学を徹底して引き継いだ上で、これまでの超作画インフレ脳をミックスさせたのが、『キルラキル』だった。省力化と超作画(加えてサンジゲンのはちゃめちゃCG)。ばらばらで雑多なところに新しい面白さが込められていた。それを象徴するのが、クライマックスでの口上だ。
 

鮮血神羅纐纈との戦いの中で気づいたよ。私が生命繊維を吸収し続けてきたのも、この力を育てるためだった。私は進化する。自分の意思を持ち、この言葉を人間に伝えることが可能になる!」
流子「確かに私たちは人でもなければ服でもない!」
鮮血「だが私たちは人であり!服であり!全てであり!!」
流子「人は服にはなれねえ!人は人!服は服だ!」
羅暁「何をわけのわからないことをいっている!!!」
流子「それが私たちってことだよ!!!!聞け!全ての生命繊維よ!人は人!服は服だ!全ての人間を、人間に戻せ!!!」

 
周りのものを吸収するからこそ、次の一歩に繋がる。吸収するといっても、作品内で綺麗なグラデーションになるわけではない。省力化パートのガチャガチャした面白さと同じように、コントラストきつめ。しかし、新旧諸々ごちゃ混ぜだからこその面白さ。
既存のものと全く同じものは作れないし、純粋に新しいものを作るわけでもない。過去のものと新しいものそれぞれを尊重すべしとする態度。『グレン』での単純な進化観から抜けだして、新旧ないまぜの混沌とした状態を肯定していることに、これまでにない説得力と、スタッフの貪欲に理想に近づこうとする意思を感じた。かつて庵野さんは自らを「コピー世代」と自嘲気味に語ったが、あの態度への前向きな返歌としても、これ以上ないものだと思う。
スタジオがたどってきている歴史、作品のテーマ、面白さ。全てが一つの方向を向いていて、本当に気持ちの良い最終回だった。

*1:ロフトプラスワンのトリガーイベントにて、吉成曜が『インフェルノコップ』にこそアニメの未来が感じられる、と語っていたのは印象的であった。昨年の「マチ★アソビ」にて電撃発表された『インフェルノコップ2』の本格始動が待ち遠しい。