ダンガンロンパ:ゲームのテンポと岸誠二監督

アニメ『ダンガンロンパ』の1話、やっと観れました。原作ゲームは1作目だけプレイ済み。今回アニメ版を観て、岸誠二監督について改めて考えるのに勉強になりました。
Angel Beats!』ではじめて岸監督の作品を観たときは、(何か物足りなさは感じたものの)爆発力があるなと思い、しかし、『ペルソナ4』を観たときに、あまりのテンポの軽さ(こういう表現を用いると「軽さ」とは何か?とか、そもそも「テンポ」をどう定義づけるのか?とか面倒な絡み方をしてくる人がいそうですが、フィーリングで適当に流してくれると色々円滑化できるので、ここはひとつよろしくお願いします)に気味の悪さを覚えてしまい、どうしても観続けることができませんでした。
ペルソナ4』のテンポは明らかに原作ゲームの尺から逆算されたものに見えるわけですが、それがアニメという枠組みを蔑ろにしてしまっているように思えてしまったのです。
そして今回は『ダンガンロンパ』という、これまたゲーム原作の作品です。岸監督の前作『デビルサバイバー』をちらりと見て感じていた雰囲気から、おそらく今回もそこまで好みの作品にはならないだろうとは思ってました。しかし、原作をプレイ済みのタイトルだったということもあり、ストーリーを頑張って追わなくてもいい分、他に注意を払いながら観ることができたのが功を奏しました。具体的にいうと、岸監督作品が、原作の追体験を狙っているのだということに気づけたのが良かったです。
つまり、これまで僕は、「尺の関係上」ああいったテンポにしていたのだと理解していたのですが、「原作のテンポを再現するため」軽いテンポで演出しているのかと、気づいた(という気がしてる笑)ということです。
 
原作のテンポとはすなわち、ノベルゲームのテンポのことです。僕はギャルゲーやエロゲーをほぼやったことがなく、ノベルゲームといえばせいぜい『かまいたちの夜』や『428』、『シュタインズゲート』といったどメジャーなタイトルを数本遊んだだけの超初心者です。しかしそれでもなんとなく分かるのが、ノベルゲームでは、日常の比較的どうでもいい会話文と、事件が起こったりした場合の重要なシーンでの文では、無意識に読むスピードや、文字を送るボタンを押すスピードが変わってくるということです。
プレイヤーはストーリー上重要な部分を早く読みたいがために、その他の部分は早めに読み進めようとする傾向がある。見せ場をより重点的に魅せるため、そうした感覚を映像で表現しようとすると、岸監督作品のテンポになるのかな、というわけです。
 
また、上記にてストーリー上重要となる部分と対比されるものとして、「どうでもいい会話文」というものを挙げました。「どうでもいい」という表現は便宜上のもので、もちろん、ノベルゲームでは一見どうでもよく思える部分が積み重なり、作品に厚みを与えていることは理解しています(本当にどうでもいい場合もあるかもしれないけど)。
ただ、ここで気になるのが、アニメでテンポをむやみに加速させてしまった場合、どうでもいい会話文にあたる部分のシーンが、ノベルゲームよりも作品の「厚み」に繋がりにくくなるのではないかということです。
その際突破口になるのが、おそらくキャラの魅力なのでしょう。はじめからキャラとして出来上がっている者達を作品の主役に据えることで、人物の掘り下げ作業をある程度端折ったとしても、ドラマが成り立っているように見せれるのかなと。これは岸監督の過去作においてヒットした『Angel Beats!』や『ペルソナ4』に言えるのではないかと思います。そういう意味では、特徴的なキャラを、多くの魅力的な声優陣が演じる『ダンガンロンパ』は、岸監督向きな作品としての土台が固まっているといえるのではないかと思います。