『エヴァ』テレビ版感想:25話 シンジ≒ミサト≒アスカ≒アンノ

これまで旧マスター版のDVDで観てきたが、TSUTAYAに行ったら最終巻だけ借りられていたので、残念ながら最終二話はリマスター版で観ることにする。いずれここだけ旧マスター版で観返したいものだ*1

やはりリマスター版は綺麗だが、なんだかんだ言って旧マスター版のザラザラした質感も好き。


よく見るとクレジットのフォントなども違う。
 
25話、「終わる世界」
 
■シンジの場合

・「使徒であるカヲルを殺したのは仕方のないことだった」と、自己正当化を試みるシンジ。明らかに前回のラストと言っていることが違うので、まずここで戸惑う。今回色々な論点が入り乱れるので、ひとつひとつを順序立てて追っていこうとすると混乱してしまうことがある。
「何が怖いのか。」という問いに、「他人に嫌われること」と答えるシンジ。シンジは嫌われないためには結局エヴァに乗るしかないと思い込む。
ところが「なぜエヴァに乗るのか」と聞かれると、「皆が喜ぶから」と、直前の回答と矛盾することを言う。すかさずツッコミを入れるアスカ。「あんたバカ?結局自分のためじゃないの。そうやって、またすぐ自分に言い訳してる」
行為が他人のためなのか、自分のためなのか、というところで延々悩んでしまうのは、これまで散々出てきた袋小路的な思考の一環に思える。袋小路的な思考から脱却する方法としては、「嫌だから選ばない自覚/嫌でも選ぶ自覚」を持って行動すれば良いと、19話の感想で結論づけた。
『エヴァ』テレビ版感想:19話 『エヴァ』を貫くテーゼ
 
■アスカの場合

「アスカもシンジと同じではないか」綾波からつっこみが入る。「エヴァに乗れない自分は誰も必要としてくれない」という、22話で描かれたシンジやミサトと共通する強迫観念が反復される。
『エヴァ』テレビ版感想:22話 人形になりたかったアスカ

「分離不安」「愛着行動」といった心理学用語が飛び交っていて、露骨な中二病メンヘラアピールが痛々しい。だがそこが良い。
 
■ミサトの場合

・幼少時のミサトは母を助けるために「良い子」にならなければならなかった。父親に好かれたいのと同時に、父親を憎む矛盾した気持ちも抱えていた。そうして「良い子」を演じてきたミサト。認められているのは、認められようと演じている自分で、本当の自分ではない。そうした生き方には疲れてしまったのだと言う。こうした悩みは12話で取り上げた、シンジやアスカと同質のもの。
『エヴァ』テレビ版感想:12話 なぜミサトは苛立っていたのか
 

シンジ「僕を見捨てないで。」
ミサト「私を捨てないで。」
アスカ「私を殺さないで。」


■捕捉:綾波の場合

綾波「お前は『偽物』に過ぎない」と言われても、「私は私。私はこれまでの時間と、他の他人とのつながりによって私になった。他の人達との触れ合いによって、今の私が形作られている。」と、他のキャラに比べて自分をしっかり持っている感じがする。シンジ、ミサト、アスカに比べると圧倒的に話に絡めて無い感がある。
・ここでの綾波は(『EOE』もだけど)「二人目の綾波」から思考をスムーズに受け継ぎ過ぎていて、「三人目の綾波」と設定付されている必然性が感じられない。しばしばメインスタッフが綾波を描ききれなかったと言うのはが問題な気がする。
 
 
■シンクロデバイスとしての『エヴァ

ミサトは自身の内面を覗きこまれ、「こんなところをシンジ君に見せないで」と悲痛な叫びを洩らす。シンジも嫌そうにミサトの内面を見ている。
たしかに他人の内面を覗きこむ行為は気持ちが悪い。見ている方も、見られている方も。内面を覗き込もうとした際、相手からもこちらが覗き込まれる。しかし気持ちが悪さと比例して、共感や快感が生じることもある。
エヴァ』というアニメは庵野という人間の内面をさらけ出したものなので、これを観る事は、作中で描かれる補完計画内でのキャラクター達と相似的な立場に身を置くということとほぼ同義だ。こうした構造が作品としての面白さによりリンクしているのが『EOE』だと思うのだが……それはまたの機会に触れるとする。
結局この見方で行くと、エヴァ』とは庵野と視聴者を繋ぐ、プチ補完計画装置(シンクロデバイス)のようなものであるという総括以外ありえないように思える。
 
 
次回予告。「終局。それは始まりのあとに必ず訪れる。私達の願いは破滅へと連なるのか。私達の希望は死そのものなのか。最終話、「世界の中心でアイを叫んだけもの」。」

予告映像がとうとう映像であることを放棄して台本の静止画になっていて、行くところまで行った感がある。
これまでの予告では主語が「人々」だったのに対し、ここでは「我々」となっている。新劇場版における次回予告でもこれまでは「人々」となっていたので、完結編を控える『Q』でどうなるのか注目したい。
 
まごころを、君に」の次回予告。「ついに、阿鼻叫喚の現実を直視する碇シンジ。その衝撃に耐えかねた彼は、自我を幻想へと委ねる。そこに真実という名の苦痛は無かった。そこに自己という名の虚構は無かった。そこに他者という名の恐怖は無かった。そこに他人という名の希望は無かった。そこに、自分という名の存在も無かった。次回、終局「まごころを、君に」。」

実写カメラが部屋の中をガラガラ走り回っている映像を見ると『カレカノ』のエンディングを連想する。結局『Q』公開までに『カレカノ』は観終えることができなかったな……。

 
テレビ版はラストの「おめでとう」、「ありがとう」がキャッチーなのでそこばかりに目が行きがちだが、実は最終回の一話前の時点でテーマ的な部分は出尽くしていて、あとは物語的な着地点を用意するだけとなっているように見えた。今回出てきたテーマというのも、基本的にはこれまでのキャラクター描写のおさらい的な側面が強い印象。
既にある材料で二話分戦わなければならなかった庵野監督の苦悩を思うと気が遠くなりそう。
 
そんなわけで最終回感想へつづく!
・次回感想→『エヴァ』テレビ版感想:最終話 旧劇場版と同じくらい実直
・全話感想もくじ→『エヴァ』テレビ版〜旧劇場版/『新劇場版:Q』全感想目次

*1:※リマスター版のDVDは持っていたけど、これまでは旧マスター版のDVDで観ていた、ということですね(2021年1月16日追記)