某GRIDMAN抱き枕をスケープゴートにぶっ叩いてる暴論記事について思うこと

暴論すぎて笑ってしまう記事が400ブクマ以上集めていた。

“GRIDMANは深夜アニメなので子どもが観ない。そのためゾーニングできているという言い分もありうるのですが、ヒロインのセミヌードグッズを売るなら最初から作品を18禁にしておけよ!と僕はいいたい”
“GRIDMAN製作委員会も大きなお友達に金を使わせたいんだったらオリエント工業とコラボでヒロインのラブドールを作ったらいい”

“抱き枕と本編の水着のデザインがまったく同じだったため、GRIDMANの制作スタッフはアニメ本編を抱き枕のプロモーションに利用したんじゃないか?という印象を持っている”

arrow1953.hatenablog.com

 

同じトリガー作品を見渡してみても、過去に抱き枕が発売されたのは『キルラキル』『異能バトルあ日常系のなかで』『キズナイーバー 』と少なくとも3作品(『ダリフラ』の抱き枕が無いっぽいのが意外すぎた)。さらに前身となったガイナックス時代にも『天元突破グレンラガン』『パンティ&ストッキングwithガーターベルト』で発売されているわけだけど、これらの製作委員会全てがアニメをナメていたと考えているのだろうか。

  

「ヒロインのセミヌードグッズを売るなら最初から作品を18禁にしておけよ!と僕はいいたい」

そう思うのは個人の自由だが、それを全ての作品・人に押し付けようとする傲慢さのほうがよほどアニメをナメているように思える。

 

とはいえ僕自身もアニメ誌などでシチュエーションや肌色のバランス感覚が狂った版権イラストを見ると、どちらかというと違和感を持つほうだったりする。不自然に半裸な抱き枕に違和感を覚える感覚も理解できる。

最近だと「プリキュア」の抱き枕カバーは進歩的なテーマを扱う本編とのあわせ技でなかなか倫理観を揺さぶられた。

でもこれがねこ娘抱き枕カバーになると、なんとなくセーフな気がしてくる不思議。水木先生も「妖怪がお金を運んできてくれるならOK(大意)」って言ってたしな……。

あと「プリティーオールフレンズ」の抱き枕は発売中止になったりしましたね。

togetter.com

 

最近もう一つ興味深かったのは、放送中のアニメ『イングレス』に関する以下の“自主規制”。

櫻木:
指摘されたのは女性の露出が多いシーンですね。キャラクターデザインの段階で、ヒロインのサラにネグリジェっぽいものを着せた絵を出したら「これはダメだ」と言われました。

石井:
「セクシー」ならいいんですけど、いわゆる「ちょっと年齢が低く見える女の子」という日本のアニメ特有の表現は、海外においては非常にセンシティブなところという感じがします。アダルトなものに対する制限というよりは、そういった社会的・常識的な部分でした。

gigazine.net

同作は海外企業Nianticのゲームが原作で、テレビに先行してNetflixで全話配信されている。海外市場をある程度意識した作品での性的表現の扱いについて少々考えさせられた。

www.youtube.com

 

ちなみに一概に「海外基準」と言っても、Netflixオリジナルアニメ「DEVILMAN crybaby」のエログロバイオレンスっぷり一つを見ても作品や語り口によっていろいろなのだと分かるかと思う。

www.youtube.com

 

表現のセーフorアウトはケース・バイ・ケースというかグラデーションのように白黒付けられないことが多い。最近国内でも急速にポリコレ意識が高まってきたのか、いろいろと線引きについて議論が活発化している。それ自体は良いのだが、今回のような極端な暴論も簡単にバズるような下地が出来上がっているのはどうも居心地が悪い。

線引きをどのようにしていくかは冷静に議論すべきことで、気に食わないアニメ・グッズに消えてほしいという自己中心的な発想でしてほしくない。

『フリクリ プログレ』感想 幾原邦彦はボテ腹ハル子の夢を見るか?

 1話アバンでもたらされる「もしかして楽しいアニメが始まってしまったか?」という錯覚は、残念ながら粉々に打ち砕かれる。
 仮題で『フリクリ2』を冠していただけあり、『フリクリ プログレ(以下、プログレ)』はハル子のその後を描いた作品だ。前日譚の番外編的位置付けだった『フリクリ オルタナ(以下、オルタナ)』に比べ、直接的続編としての側面が強いのである。
 原作の『フリクリ』を半端にトレースできている分、全体がピンぼけ気味だった『オルタナ』より褒める点がいくらか見つけやすいのは間違いない。しかしだからこそプログレ』は『オルタナ』以上に罪深い作品になっている。以下ネタバレなので本編鑑賞後に読むことをおすすめする。もう一方の続編『オルタナ』の感想はこちら。

切って落とされた宗教戦争の火蓋

 まだ気付いていない人もいるかもしれないが、事は作品の良し悪しを超えて宗教戦争的緊張を有している。確かに1話ラストでハル子(ラハル)*1が「ようやく本命登場だぜ」と姿を現し、エンディング映像*2に突入するシーンは盛り上がる。伍柏諭がコンテ・演出・作監を務めた映像はすばらしい*3
 だが、初めてこの映像を見たとき、嫌な汗が走り、一旦思考が止まった。なぜか? ……まずは『フリクリ』1話のラスト付近のこちらのカットを思い出していただきたい。マミ美にジュースを渡される、「酸っぱいのは嫌いなんだけど」の場面だ。

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フリクリ』1話の印象的な場面。

 で、『プログレ』のエンディングである。

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カメラに写っているのは、マミ美が立っていたあの場所。

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口にはタバコ。髪を短く切ったマミ美の成長した姿。

 果たしてこれを許容できるか? という話なのだ(ちなみにEDには成長したナオ太やニナモリと思しき姿も映っている)*4
 確かに『プログレ』は『オルタナ』に比べ口当たりが良い。それはピロウズの楽曲の使い方が少なくとも『オルタナ』よりはキマっていて(後述するが「大丈夫?」と素朴に訪ねたくなるほど雑な選曲も見受けられる)、画面の派手さとしても優れたシーンがわりとあるからである(後述するが話数によって画面の充実度に大きな差があり、こちらにも無視できない欠点がある)
 しかし、だ。今作で描かれるのは「歳を重ね変貌したハル子」の姿である。マミ美の例は画的に象徴的なため最初に紹介しているが、この問題は『プログレ』でのハル子の描写において本質的に不可分だ。
 『プログレ』でのハル子は、オルタナ』で上村泰監督が試みた「自分なりのハル子像を描く」アプローチとは似て非なるものでもある。『オルタナ』のハル子は新谷真弓の監修を持ってしても一挙手一投足が精神を逆なでする全く別の何者かになってしまっていた。だが、それは上村監督から見たハル子像であり、それがいかに誤読に基づいたものであっても、ハル子の本質を侵犯する行為ではなかった。一方の『プログレ』は、神聖不可侵に思える領域に驚くほど無配慮にずかずかと踏み込んでくる。

幾原邦彦が提案した「綾波の妊娠」

 象徴的なのはハル子(ラハル)がジンユを取り込み、腹を膨らませる5話目だ。
 『プログレ』でのハル子は身の丈に合わぬ欲望が暴走した結果、元の人格を色濃く残した「ハルハ・ラハル」と、彼女の理性的な側面が前衛化した「ジュリア・ジンユ」という2人のキャラクターに分裂している。
 子供の特権である「幼児的万能感」を下手に持ち続けると「宇宙怪獣」と同種の化物になってしまうのではないかと問題提起したのが『トップをねらえ2!』であったが、ハル子もまた、大人になっても欲望のままアトムスクを置い続ける怪物じみたキャラクターだ。
 怪物すれすれなのにちょっと憧れてしまう謎のお姉さんという余白が本来ハル子の魅力だった(と僕は思う)のだが、『プログレ』では徹底的にハル子というキャラクターを現実に結びつけ、正論による殴打を繰り返す。彼女のキャラクターの実在不可能性を強調するための一線を超えた描写が、分裂していたジンユを「食った」後の姿だ*5

 お腹が膨れたハル子を見て、かつて幾原邦彦庵野秀明に「(『新世紀エヴァンゲリオン』の最終回で)綾波レイを妊娠させてはどうか」と提案した事案を思い出したアニメファンは自分だけではないはずだ。

 

庵野 その辺が作り事だっていう事は、みんな、分かってるんだけど、逆にそれだからこそピュアな感じがして、よりのめりこみ度数が高くなるんですけどね。アニメのキャラクターは基本的には裏切らないと思い込んでいるんですよ。幾ちゃんが言ってたけど。「最終回で、綾波レイが妊娠して、腹がデカくなっているのをやってくださいよ」って。
小黒 テレビの放送中に?
庵野 だったかな? 「とにかく綾波ファンを裏切ってくれ」ってね。「君達が考えている綾波レイというのは、本物じゃないんだ。本当の綾波は妊娠して腹が」。
小黒 (笑)。あ、ホントに綾波がいたら。
庵野 「ホントだったら、妊娠して腹がデカくなって子供生んだりして、年を取ったりするんだっていうのを思い知らせてやってくれ」みたいな事を言われて。俺は「そこまでせんでも……」と思ったんですけど(笑)。
小黒 (笑)。幾ちゃんの方が悪人ですね。
庵野 うん。俺自身がそれを観たくなかったからね。でも、妊娠はさせなかったけど、大きくはしちゃったなぁ。
アニメスタイル第1号」pp.93-94 *6

 

 『プログレ』で行われるハル子の描写は、「少年の日の心の中にいる青春の幻影」のような強固なキャラクターとしての積み重ねなどではなく、ただ彼女の人間性を値踏みする行為に見えた。そのため、アトムスクの見た目も超常的なものではなく人形になってしまうのだ。
 『フリクリ』ではハル子の動機を安い恋愛感情と思わせないためにも、アトムスクはあえて異形の姿で描かれた*7。だが『プログレ』だとアトムスクは最後に人型になってしまうし、あまつさえ中学生に「変な鳥が好きなんでしょ? バカみたい。ただの恋する乙女じゃん」と言われ、ハル子はろくに言い返せもしない。
 庵野すら尻込みする領域に踏み込んだことを挑戦的だと評価するか、あるいは蛮勇と捉えるかは意見が分かれるところかもしれない。ただジンユの言葉を借りるなら、個人的には「不釣り合い」なテーマだったように思えた。

同じキメ曲を2話連続で使う蛮行

 冒頭でピロウズの楽曲の使い方が比較的良かったと書いたが、問題も大アリである。一体どんな判断があれば、5話と6話で「LAST DINOSAUR」と「I think I can」を連続で使うことになるのだろうか*8。おまけに6話では明らかに作画が息切れを起こしていて、画的な魅力が4話Bパートや5話に遠く及ばない。
 問題はひとえにリソース配分を不可能にした今回の制作体制にあるのではないかと思う。全体を俯瞰する総監督の不在により、適切な楽曲の割り振れなかった点。そして話数ごとに監督やスタジオが異なることで適材適所を徹底できなかった点は、作品として大きな欠点になったと言わざるを得ない。
 『フリクリ』も話数によって平松禎史の艶っぽい線を活かした絵から、今石洋之のとんがった表現まで振り幅の大きい作風だったが、決して『プログレ』のように質的な意味で振り幅が大きかったわけではなかった。
 特に笑ってしまったのは4話Bパートのハル子(ラハル)とジンユの空中戦だ。ここは見ごたえ抜群なシークエンスで、素直にとても良い。だがこんなにすごい空中戦(と板野サーカス)をやると分かっていたら、なぜ2話であんなにしょぼい空中戦(と板野サーカス)をやる必要があったのか。リソース配分もだが、アクション内容まで被っているのでは首もかしげたくなる。

海外で先行公開されファンを絶望の底に叩き落とした動画。とはいえこの動画では一部シーンが削られてるので、本編だとここまで酷い印象は受けなかった。

良いところもあった

 繰り返すが、決して光るものが無かったわけではない。冒頭でも触れた通りアバンは西尾鉄也と篠田知宏による師弟コンビが手がけた*9映像でわくわくするし、各所で話題の5話は全編意欲的な制作手法で『フリクリ』の名に恥じないものを作ろうという意気込みを感じた*10

5話のメイキング。なぜか別話数の映像が混じっているので要注意(編集した人は何を考えていたのだろうか)。

 また、新しいキャラクターたちもそれなりに魅力的だった。特にヒドミについては自分の身体への嫌悪感や、それに起因する捻れたマゾヒスティックな性癖は面白かった。2話アバンの意味もなく無駄にグロいスプラッターな夢も笑った。ただ、いかんせん井出との恋愛がベタすぎてつまらないのと、母親との確執がサラっと解消されるのが肩透かしだった。

 ちなみに同じ「ヒドミ」という名の登場人物が、脚本・岩井秀人の過去作『霊感少女ヒドミ』という舞台作品にも登場する。こちらのインタビューによると舞台版の登場人物名「ヒドミ」は岩井の妻「ヒロミ」にちなんでつけられたものであるとのこと。この辺とからめて、『プログレ』に込められた思いなどについてはいずれインタビューなどで語ってもらいたい。

 新キャラの中ではアイコが飛び抜けて勿体無く、設定の使い捨て感は『オルタナ』のペッツ以上。嫌悪の対象だった日常空間(レンタル彼女活動)をヒドミのそれ(喫茶店や身体的嫌悪感)とうまくシンクロさせていれば上手く描けたのではないかと残念でならない。

  Twitterで見かけて、これはなるほどなと思った。

【追記】とても悪いところもあった

 書き忘れていたので1点だけ追記する。初見時最も頭にきたのはこのシーンだった。

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ハル子の歯が折れるシーン。

 『プログレ』最終話での一幕である。いうまでもないが、鶴巻監督の代表作『トップをねらえ!2』最終話においてラルクの歯が折れるのは作品のテーマ的にも重要な演出だった。ところが『プログレ』ではギャグの一環としてハル子の歯が折られる。パロディでもオマージュでも作劇上の必然性もなく、ただ考えなしに挿入された描写のように見える。鶴巻監督作品の続編最終話でよくこうも無配慮な演出が入れられるものだと驚かされた。

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「それが努力と根性だ!」

 こんな雑な演出をするのであれば、ジンユが皿を割ってしまいがちという『トップ2』パロをファンへの目配せとして入れないでほしかった。

 本来こうした憤りの矛先は総監督に向けられるべきだと思うが、本広克行は名義貸しとしか思えないので、この不満を誰にぶつければよいのかも分からない。全体を見渡す監督不在の『フリクリ』の続編という状況そのものが悲しい。

(追記ここまで/8月30日)

 『プログレ』『オルタナ』を観終えて

 『オルタナ』の感想でキャッチコピーへの文句を散々書いたが、『プログレ』を観てずっこけた。まさかハル子先生の「立てよ青少年。どうでもいいから好きにしろ! 可能な限りテキトーに。ざっくり雑にボーン・トゥ・ビー・ワイルド!」というセリフから取ってきていたとは。

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オルタナ』の感想でさんざん文句を書いたキャッチコピー。

 このシーン自体はハル子が青少年たちに活き活きと悪影響を与えていて好きだ。これがキャッチコピーというのは、あの宣伝自体がハル子の催眠術的なものだったと解釈できなくもない……。が、本編未見では伝わらない上、であればなおさら『プログレ』を先に公開しなければ、『オルタナ』単体では意味不明なコピーである。

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オルタナ』単体では破綻しているのでは。

 ところで、ここまで意図的に声優陣に触れてこなかったのだが、プログレ』最大の功労者は林原めぐみと、林原にハル子役のバトンを渡した新谷真弓だった。分裂したハル子とは、いわばバグを抱えた、元のハル子からは変質してしまった存在であり、それをそのまま新谷が演じていたらとてもグロテスクなものになっていただろう。

 林原の教壇での早口やスロー演技は後から効果などを足したものではなく、林原自らによるものだったと、初日舞台挨拶で証言があった。4話でジンユに飛びかかる怪物じみた叫び声も、時折新谷が憑依しているのではと錯覚するのほどのハル子っぷりも、さすが林原めぐみだと舌を巻いた。
 声優の交代が誰のどのような演出意図に基づくものなのかは分からないが、発案者に感謝したい*11

 

 『プログレ』『オルタナ』両作鑑賞後に『フリクリ』をあらためて観てみた。あっけないほどに最高に面白かった。何があっても、どのみち『フリクリ』は『フリクリ』のまま、最高に面白いのである。これは幸福な発見だった。

 ついに目下最大のストレス源だった「『フリクリ』の続編が公開される」が終わった。「エヴァンゲリオン」が完結する2020年までは心穏やかに過ごしたい。

*1:【9月30日追記】Twitterでハル子、ラハル、ジンユの書き分けについてつっこまれたので、表記を修正。分裂した状態のラハルの表記を「ハル子(ラハル)」に統一した。

*2:海外のテレビ放映版ではエンディング映像として使われたが、国内の劇場公開版だとクレジット上は「オープニングアニメーション」とされている。

*3:「Spiky Seeds」はとても好きだし映像にマッチしていると思うのだが、星空を見上げるノスタルジックな内容を見る限り、歌詞的には『オルタナ』の「Star overhead」の方が合ってるように感じた。“遠い日の散らばった夢は 星になって頭上にあった”“写真には残せない場面 僕ら生きている 今を生きてるのさ”等。もともと「Star overhead」のほうが『プログレ』の曲としてアテ書きされていたという話だし、曲の変更がこの不思議なシンクロに影響しているのだろうか。

*4:キルラキル』の最終話でエピローグの絵コンテを任された鶴巻和哉は独断で(無論、最終的には監督なども承知の下)髪を切った皐月様を描いた。『フリクリ』の創造主たる鶴巻自信が(熟慮の末)独自解釈を作品に加えるタイプのクリエイターであるため、『プログレ』の扱いをより宗教性の高いものにしている気がする。気がするだけかもしれない。

*5:蜂の怪異のような姿にしたアイデアは秀逸だった。

*6:このインタビューは『この人に話を聞きたい 2001-2002』に再録されている。ちなみに『この人に話を聞きたい 1998-2001』には『フリクリ』6話のアフレコを終えた直後の鶴巻監督インタビューが収録されていて、こちらも必読。

*7:4話にて人形のイメージが流れるが、あれはアマラオが想像であり実際の姿とは異なる。

*8:パンフレットのインタビューで5話の末澤監督が「当初は違う曲にするつもりだったのを他のエピソードとの兼ね合いで変えた経緯があって」と説明していた。いや、どう考えても他のエピソードとの兼ね合いで5話か6話の「LAST DINOSAUR」を別曲に変えるべきだった。5話の方はハマっていたので、6話のほうをどうにかしたほうが良かったと思う。6話はヒドミの謎の変身曲の直後に「LAST DINOSAUR」をかけるセンスが驚くほど良くない。

*9:両名が担当したという情報はパンフインタビューの荒井和人の証言より。

*10:5話の技術面に関しては「CG WORLD」のインタビューが決定版。

*11:林原はブログで、ハル子役を打診された際の心境について「%&*@#£¢℃¥$???????????」と綴っている。また新谷からも会社を通してお気遣い含め、メッセージ的な、依託的なお手紙を受け取ったそうである。

『フリクリ オルタナ』感想 まずいラーメン

 伝説のOVAが帰ってきた。ファン待望の続編。「ダイナミックでソリッドでポップにスクラップしつつビルディングする本作で、再び世界を驚愕させるー...はず!」。じゃないのである。

 言いたいことが大きく分けて3つある。まず最大の違和感だった『オルタナ』におけるハル子の造形の不可解さについて。次にざっくり手短にオルタナ』全体の感想を。最後に公開前から感じていた『プログレ』『オルタナ』という企画そのものに対する不満点の列挙。なおネタバレ全開なので本編鑑賞後に読むことをおすすめする。
※以下、2000年から2001年にかけてリリースされたOVA作品を『フリクリ』、それ以外を『プログレ』『オルタナ』と表記する(追記:『プログレ』の感想はこちら

フリクリ『オルタナ』『プログレ』の宣伝テキスト

何言ってんだこいつ(公式サイトより)

ハル子の皮を被ったなにか

 パンフレットで鶴巻和哉も問いかけている通り、「フリクリってなんだ?」とは難問だ。『フリクリ』のハル子の台詞に「私はタッくんの少年の日の心の中にいる青春の幻影」というものがあるが、100人いれば100通りのフリクリ像があり得る。
 新谷真弓はTOHOシネマズ上野で行われた『オルタナ』の公開初日舞台挨拶で次のように述べた(手書きメモを元にしているので不正確。他のレポートなども参照のこと)。

 

制作時、上村監督にまず“ハル子という人は、前のハル子と同じ人なんですか?”と訪ねました。『フリクリ』はこう言っちゃあれですけど、鶴巻監督のプライベートフィルムのような作品ですよね。別の人には同じハル子は作れない。上村さんがプライベートフィルムとしてそれに合うハル子を作れば良いんじゃない? と伝えました。

 

 全くその通りだし、これは続編を制作する手つきとして正しい思う。新谷は登壇直前、パンフレットの鶴巻のコメント「もしもフリクリに続きがあるとするのなら、それはフリクリとは何かを探し確かめようとするような物語になる」を目にして、涙が溢れそうになったという。しかし、それだけに『オルタナ』の内容が伴っていないのが残念でならない。
 自分流のハル子を描こうとするのは結構だが、それは全く違うハル子を捏造しても良いということにはならない。『フリクリ』におけるハル子の絶対の目的は「アトムスク」を手に入れることだ。人工衛星が降ってきても地球の安全などは二の次で、「場合によっては皆さんさようなら」が基本スタンスであり、正義のヒーローなどとは一線を画する存在だ。
 『フリクリ』脚本(『プログレ』『オルタナ』にはノータッチ)の榎戸洋司は、小説版3巻のあとがきで次のようにつづっている。

 

 大人になって“子供であること”を失い、それでもまだ“限定された存在”である僕たち。
 でもだからこそ限定された存在であることに胸を張りたいとも思います。
 限定された存在であることはけして本当の豊かさを手にすることの障害ではない。
 貪欲な意思と何者にも支配されないあの自由なハル子の目が示してくれたのは、逆にそのことのような気がするのです。だって彼女ですら、やはり限定された存在でしかないのにそれでも暴走人生を送っているのですから。
「ときにはまずいラーメン食ってみたりするのも人生の豊かさってやつ」
 そう言って笑うことができるのは、なんだかカッコイイ大人のように見えるのです。

 心豊かな新世紀となりますように――。

 2000年12月14日

榎戸洋司

 

 これを読むと涙が溢れて仕方がない。もう2018年だというのに、まずいラーメンに激高して深夜29時にキーを叩いている。

 学校や周囲の環境に束縛される子供と違い、大人とは永遠の自由時間を手に入れた存在である(かのように、ナオ太には見えていた)。その象徴がハル子なのだ。マミ美もハル子の第一印象は「自由って感じ」だった。そんな果てしなく自由に見える彼女を束縛するのが、アトムスクへの執着である。
 アトムスクの位置を指し示すあの鎖が、むしろハル子をハル子たらしめていた。しかし『オルタナ』ではそれが欠落している。彼女はただ悩める女子高生を善意で導く説教お姉さんでしかなく、なんなら積極的に地球を守る正義の味方ですらある。彼女が地球を救おうとする理由は最後まで説明されない。

 性格の違いを設定的に説明することは可能なのかもしれない。そもそも『オルタナ』で彼女は鎖の腕輪をしていない。『オルタナ』の最後で地球外に飛ばされるハル子は、『フリクリ』での記憶を幻視する。もしかしたら『オルタナ』は“オルタナティブ”という言葉の通り、パラレルワールドを舞台にした世界なのかもしれない。あるいはアトムスクに出会う『フリクリ』以前の物語。はたまた『フリクリ』を経た後にアトムスクへの関心を失ってしまった後のハル子なのかもしれない。
 だが、そんな彼女の姿を見たかったか? と問われれば、閉口するほかない。やはり僕にとっては「あの」ハル子こそ唯一無二の存在であり、『オルタナ』のハル子は冒涜的ですらある。
 『オルタナ』はハル子さえ登場しなければよくある退屈な凡作と片付けられたかもしれない。しかし彼女の登場が、それすらも不可能にしてしまっている。絶対的な新谷真弓の声を宿してさえこんな感想を抱くことになるとは、悲しくて仕方がない。

オルタナ』全体の感想 「縦軸」の欠如

 本作は見どころが全くないわけではない。女子高生の頭から車が飛び出てきてカーチェイスになり、ロボットに変形した車とそのまま戦う……といったガジェット的な捻りは部分的に楽しむことができた。しかしそれだけだ。3話のランウェイのシーンも、ハル子がモデルのように歩くというシチュエーションとしての瞬間的な面白さはあっても、コンテストの真の優勝者を蔑ろにしているようで、シーン単位では単に不快だった。
 クライマックスとなるアイロンを時空の彼方へと葬り去るシークエンスも、画的な強度とは裏腹に頭にきた。なぜ仮にも「フリクリ」の名を冠した作品で直球な青春台詞を見せられなければならないのか。

 思えば『フリクリ』の魅力には、鶴巻監督の言葉を借りるなら「縦軸」を意識した多層構造があった。一見野球やサバゲーをしているだけなのに、ハル子の行動は実はメディカルメカニカや地球当局への牽制になっていたりしつつ、ナオ太は勝手に思春期的な悩みをマミ美やニナモと繰り広げていたりする。さらに作品の上層に目を向ければ単にピロウズのMVとしても気持ちよく見られる*1。これこそが100人いれば100通りのフリクリ像が生まれた所以でもある。

 ところが『オルタナ』では判で押したような「女子高生の悩み」と、それを導こうとするヤンチャだけどたまに良いことも言ったりする説教臭いお姉さんしかいないのである。

 それに5話でいきなりスポットが当たるペッツに対する思い入れが、こちらとしては皆無なのだ*2。おまけに最後はカナがエキゾチックマニューバを発生させ、髪をオレンジに染めた『トップ2!』を思わせる演出で目配せしてくる。あの「やってやった感」がハッキリと拷問だった*3

 上村監督は『オルタナ』の「毎日が毎日毎日ずーっと続くとか思ってるー?」というセリフがじわじわ自分の中で膨らんだという話をしていた。舞台挨拶で古巣のガイナックス時代を振り返りつつ、当時はひたすら楽しかったが、もう戻らないものだという話をしていた。そこだけ切り取るとなかなかエモいのだが、残念ながら3話でモッさんが言っていた通り、結果が全てなのである。しかし上村監督は打席に立ちバットを振った。そんな彼を責める気持ちは特にない。ただ、無茶な企画を立てたプロデューサー陣に対して思うところは少なからずある。
 またこれはそもそも論すぎて言ってもせんなきことだが、OVAフォーマットで制作されたアニメ6話をそのままくっつけて劇場公開すること自体が無茶だ。だいたい米国ではテレビ放送された作品なのだ。各話にエンディングを挟まないのも、逃げ場のない窮屈さに拍車をかけていた(というかもっとエンディングでピロウズの曲を聴きたかった)。 

公開前の不信感

 『フリクリ』は僕にとって唯一無二のオール・タイム・ベストだ。はっきり言って、そもそも続編は望んでいなかった。とはいえ当の鶴巻監督も、多くの人にとってのオール・タイム・ベストである『トップをねらえ!』の続編を手がけている。そしてそれは傑作だった。だから、続編が発表されたとき「正気か?」とは思ったが、一拍置いて、ありかもなとも思った*4
 『フリクリ』の精神性を、『トップ!』→『トップ2!』のように引き継げる人物が作った『フリクリ2』ならば見ても良いと思っていた。現在のガイナックスやIGに適任者がいないのであれば、カラーやトリガーから募ってでもやりたい人間が作れば良い。
 しかしそんなこともなく、否応なく襲い来る本広克行である。なぜ? 現時点で関係者のインタビューなどを見ても、なぜ本広が総監督なのか、納得のいく説明を目にしたことがない。これでは単なる名義貸しと思われても仕方がないだろう*5


 脚本の岩井秀人への不信感もある。まず普段政治的なツイートが多いので本編の総理大臣による寒い政治ギャグは笑えなかった。だがそれ以上に印象最悪なのは『プログレ』『オルタナ』の製作発表があったときのツイートと、『オルタナ』の公開1ヶ月前に投稿された“ぼやき”ツイートだ。

  フリクリ』を「愛と破壊の物語」と捉えている人が脚本を手がける続編を見なければならない。その事実と向き合わなければならないことを強いられたこの1年は、はっきり言って苦痛だった。また劇場公開を間近に控え新PVが公開された際の岩井のツイートも目を疑うものだった。

 

 

岩井「書いたはずだが、すでに知らないセリフ山ほど言っとる…涙 やられたか…」

 

  文意が取りづらい日本語だが、「脚本を手掛けたはずだが、自分のあずかり知らぬ場所でセリフが書き換えられていたようだ」と驚いているように見える。このツイートに対して新谷が応戦した。


新谷「私たち現場の人間がそれなりの覚悟を持って新しいものを産み出そうとしていたときにすでにあなたはいなかったでしょ、私は最後まであがいたよ。貴方にそれを言う資格はないし、言うタイミングでもない。アニメだろうと演劇だろうと脚本家の持つ責任は変わらないと思う。なんてがっかりな奴だ」

 

  もうなんか、ひえ~〜っという感じだ。

 舞台挨拶やパンフレットのインタビューでも明かされている通り、ハル子のセリフはギリギリまで修正が加えられていた。脚本、コンテ前、アフレコ直前と3回、新谷による微調整が行われたとのことだ。ちなみに自由奔放なつくりに見えるフリクリ』では、アドリブはほぼ無かったことはファンの間では有名だ。作中の会話劇などはもちろん、予告編の小ネタに至るまで練りに練られた脚本が事前に用意されていたのだ。

 

 なお、本広総監督と岩井は公開後、まだ本作の告知ツイートを1度もしていない(別の作品の告知はしている)

【9月17日追記その1】

 本広総監督がTwitterで、なぜ「プログレ」「オルタナ」の宣伝をしないのかとリプライでたずねられ、「これでもしてるつもりなんですけどw フリクリも応援お願いします!!」と9月16日に回答していた。本広がTwitterで「プログレ」「オルタナ」に言及したのは8月29日以来のことである。

(追記その1ここまで)

【9月28日追記その2】

 岩井秀人Twitterで「明日からヒドミが本番どす!」と、『プログレ』の告知ツイートを(間接的に)行った。

 「ヒドミ」とは『プログレ』の主人公の名前。ちなみに岩井の過去作に2005年初演の『霊感少女ヒドミ』という舞台作品が存在する。なおこちらのインタビューによると舞台での登場人物名「ヒドミ」は岩井の妻「ヒロミ」にちなんでつけられたものであるとのこと。

 岩井がTwitter上で『プログレ』『オルタナ』関連の情報に(間接的であれ)触れるのは上記7月12日のツイート以来、約2ヶ月半ぶりのことである。

(追記その2ここまで)

 

 宣伝まわりについても疑問が多い。冒頭で貼った「……はず!」もフリクリ的なものとして受け止めがたいのだが、なによりもキツイのはキャッチコピーの「走れ、出来るだけテキトーに。」「世界は、テキトーに出来てんじゃん。」だ(追記:『プログレ』感想でキャッチコピーについてあらためて触れています)。

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残念なキャッチコピーその1

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残念なキャッチコピーその2

 ビジネスとして成功させるためには、元祖『フリクリ』のような煙に巻いた宣伝が難しい、というのは理解できる*6。『フリクリ』が2010年に初BD化した際、駄菓子のようなパッケージにしたらファンから非難が上がったなんてこともあった(開封したら二度と元に戻らない喪失感が実にフリクリ的で個人的には好きだったのだが)。『フリクリ』は良くも悪くもエヴァブーム直後だからこそ実現・成功した作品だった。だが、今回のこのキャッチコピーがフリクリをどう因数分解して出てきた言葉なのか分からない。いや、分かるのだが、それは残念ながら誤答である。
 奇しくも榎戸は今年、自身のキャッチコピー論について次のように語っている。

 

 ひとつの作風として、“キャッチコピーは真逆のものをぶつけた方がいい”と僕は思っていて。『文豪ストレイドッグス』という作品はスタイリッシュで、キャラクターみんながかっこいいんですよ。タイトルの“ストレイドッグス”も迷い犬のことなんですけど、迷っているのにかっこいい言葉なんですよね。“まよい、あがき、さけぶ だって僕は生きたかった”は敦の台詞として聞いたときに一番納得できると思うのですが、スタイリッシュな『文豪ストレイドッグス』の、本来の泥臭い部分に立ち返って、“そこまでの泥臭さやかっこ悪さを見せるというかっこ良さ”を提示できたらいいなと思っていました
「Spoon 2Di vol.37」p.5

 

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榎戸洋司が手掛けた印象的なキャッチコピー

「まよい、あがき、さけぶ だって僕は生きたかった」(文豪ストレイドッグス DEAD APPLE

 

 真逆の何かをぶつけてくれるのならまだ良かった。しかし『プログレ』『オルタナ』のコピーはカウンターにすらなっていない。ただ表層的にフリクリっぽさを出そうとして、滑っているだけだ。全くフリクリ的ではないし、こんなことをいちいち指摘しなければならない状況が悲しい。

 腑に落ちない点はまだある。ナンバリングの問題である。ご存知の通り、今回の新作『プログレオルタナ』は当初『フリクリ2/フリクリ3(仮題)』というタイトルで発表されていた。仮題の時点で一部のメインスタッフも発表されていたため、『2』が『プログレ』、『3』が『オルタナ』に該当することが判明している。日本での劇場公開に先行して米国で放送された順番も『プログレ(2)』→『オルタナ(3)』だった。ところが日本での公開順は『オルタナ(3)』→『プログレ(2)』なのである。
 なぜ『3』の後に『2』を上映することになったのか? 創作的な意図があるのか? ナンバリングは便宜上のもので意味はなく、なにか宣伝的な理由で『3』から上映することにしたのか? 特に公式見解は出されていない。これはあまりに納得がいかなかったので、iTunesで課金して、先に北米版の『プログレ』を観てしまった(感想は日本での公開に合わせて追って記事にする)。

 また米国ではハル子役を一貫してKari Wahlgrenが演じるのに対し、『プログレ』ではハル子役を林原めぐみが演じているのも、ファンとしては納得し難い。ハル子が「ハルハ・ラハル」と「ジンユ」という2人のキャラに分裂するからであるという一応の理由付けは可能だし、そのように喧伝もされているが、「ハルハ・ラハル」は実質的にハル子のことであり*7実際米国版では『プログレ』『オルタナ』両方を一貫してWahlgrenが演じている。なぜなのか、今後インタビューなどで明らかになることを望む。

 『プログレ』ももちろん見届ける

 前述の通り既に『プログレ』は鑑賞済みだが、英語音声だったのでセリフのニュアンスは拾いきれていない部分がある。ふせったーで一旦感想をアウトプットしているが、ブログでの記事化は28日の劇場公開を待ってからにしたい。ちなみに、世間的な評価は逆になるかもしれないが、初見での感想としては『オルタナ』の方が好みだった。理由は次回。……しかし仮にも『フリクリ』と冠する作品であれば、優劣を付けられるものではなく、絶対的な作品に続編として現れてほしかった。つくづく残念だ。

 唯一、ピロウズの主題歌だけは続編の強度を十二分に持っていたし、手放しで褒められるものだった。あと、「Thank you, my twilight」の使い方も良かった。「Spiky Seeds」と「Star overhead」をヘビーローテーションで聴きまくっている。これから『フリクリ』の小説版を読み返し、OVAを見返したあとで、劇場で買ってきた『オルタナ』BDを見る。『プログレ』までにもう2回見たい。

ふせったーでの『プログレ』感想(※ネタバレ注意)

1話

2、3話

4、5話

6話

*1:便宜上ピロウズの曲を「上層」としたが、本来何が上層に当たる(最初の取っ掛かりになる)かは視聴者の主観的な問題であり、見る人によって異なる。

*2:ペッツはキャラクターとしては面白かったが、やはり掘り下げが不十分だったと思う。あと唐突な物々交換癖を使った伏線も露骨に感じていまひとつだった。

*3:余談だが上村監督は過去作『パンチライン』でも能力を発動すると髪がオレンジになるヒーロー/ヒロインを描いている。

*4:それにしても『オルタナ』公開初日に『トップをねらえ3(仮称)』の製作発表があったのはあまりにできすぎている

*5:オルタナ』の上村監督はガイナックス出身なので、正統性という意味では筋は通っている。パンフレットの上村監督インタビューでも、『トップ2!』で設定制作補助として約3年間鶴巻監督の補佐役を務めていたエピソードが明かされていた。上村はその後ガイナックスで『ダンタリアンの書架』(2011)を監督し、2015年にはドタバタ感がフリクリっぽいと言えなくもなくもない『パンチライン』を監督した後、2017年に新設スタジオ「NUT」(『オルタナ』の制作もここだ)にて『幼女戦記』を監督している。

*6:とはいえVHS版の裏面の文面(例:第1話の副題は「カノジョハ宇宙(ソラ)カラフッテキタ!?」である。本編のカタカナ4文字で表現する美学から大きく外れている)などは今読み返すとちょっと辛いものがある。

*7:キャラの同一性が怪しいという話を上の『オルタナ』感想でしたばかりにもかかわらず大雑把な物言いになってしまい申し訳ない。

「ニンジャバットマン」ネタバレ感想 良い意味で期待通り

ブログを放置せずもっとカジュアルに更新していきたいのでニンジャバットマンの感想。

神風動画の名前を初めて意識したのはドラクエのOP。その後数年が経って『ジョジョ』と『ガッチャマンクラウズ』『ガッチャマンクラウズ インサイト』のOPでこれはすごいと思ったんですよね。そんなスタジオの初長編作で、しかも中島かずき脚本だったので期待して見に行きました。

DSで2009年に発売された『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』のOP
神風動画は最近でこそアニメのOPや『ポプテピピック』で知名度が上がってきたけど、普段はMVなどの短編を作る映像集団のイメージで、長編を手がけた際にきちんと形になるのかが読めなかった。

ニンジャバットマン」は予告編がとても良かったけど、それもこれまでのショートアニメの蓄積によるものかもしれず、予告は優れていても、映画としては微妙という可能性は十分にあると覚悟していました。……でも、楽しくあっというまの90分で拍子抜けでしたね。全編ビジュアルはもちろん、設定のおかしさと中島脚本の台詞回しを堪能できました。

『ニンジャバットマン』の最高な予告編

 

とはいえ手放しで100点満点の作品でもないです。ジョーカー&ハーレイ以外に5人もヴィランがいるせいで、毎度5人分紹介が入ったり、5回分見せ場を用意したりするのは段取り臭くみえたりもする。ただしそんなマイナス点を補って余りある、展開の良い意味でのばかばかしさや言葉遊びの妙があった。そして神風動画の絵作りが劇場作品一本分「持った」のがエライ。

グラフィニカの『楽園追放』が大好きなんですが、やはり量産品ではなく一点ものとして心血注いで作ってるのが伝わってくる作品は良いものです。

止め絵とスライドによる省力パートかと油断していたら始まった、ジョーカーとハーレイクインが“ファーマー”になる「牧歌パート」はさすがに笑いました。そして絶対大平晋也さんが参加してると思ったら、エンドクレジットに大平さんのお名前がなく「!?」っとなるという(後で確認したら原田慎之介名義で参加されてました)。

物語的にはバットマンジョーカーの最終決戦も良かったです。今作ではバットマンジョーカーのコインの裏表ともいうべき相思相愛的な関係性ではなく、むしろ両者の非対称性が際立っていたように感じます。
バットマンを殺そうとするジョーカーに対し、絶対に殺さないバットマンジョーカーの明らかな殺気が込められた刃を、バットマンは(刀は使うものの)基本的にはいなしつつ、打撃や投げ技でダメージを取っていました。ジョーカー役の高木さんの演技も相まって、「自分は殺せるが、バットマンは殺さない」といった趣旨のセリフは、ジョーカーがどこか儚げに見えました。
上記の言葉と、画的な刀&拳のやりとりがあったからこそ、最後にバートン版やノーラン版のパロディのごとく落下するジョーカーの笑い声も単なるパロディに見えませんでした。殺/不殺の非対称性が崩れ、バッツが同じ土俵に降りてきてくれた歓喜と、やっぱり殺せないのかとがっかりするジョーカーがかわいいかわいい。

まあこれは事前に持っていたキャラ愛を元にした解釈であって、映画単体で見るとどんな爆発に巻き込まれてもキャラは全然死なず、人が死なないのでは「殺/不殺」の対立構造も生まれ得ないので上記構図の強度も弱まる気がしますが。……でもキャラ愛を持って作られてるのが明らかなので、キャラ愛前提に解釈したくなる作品なんだよなー。

 

最後に話変わりますが、そろそろ中島脚本でもっと人がずばずば死ぬアニメが見たいんですよねーーー。やりすぎるとテレビ版『グレンラガン』の大グレン団の特攻っぽくなってしまうので、諸刃の剣だとは思うのですが。『キルラキル』は学園モノだったからそこはなかなかやれない部分でしたしねー。

今石監督との『プロメア』はかなり楽しみにしてます。そういえば中島さんの劇団☆新感線の舞台は全く見たことがないので、そろそろ見ておきたいなあ。

『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』ネタバレ感想

映画公開初日、無事ネタバレを踏むことなく鑑賞することに成功しました。当日はネタバレが怖すぎて、Twitterの「アベンジャーズ」「ルッソ兄弟」「IW」といったワードを片っ端からミュートした上、作品に言及してそうなアカウントもことごとくミュートして、なんとかまっさらな気持ちで見ることができました。そこまでするなら半日ネット断ちしろという話ですが。

本作は世界初、全編IMAX撮影の作品。というわけで、日曜には大阪エキスポシティで2回目の鑑賞もキメてきました。でもこれ、ダンケルクみたいに「1.43:1」の縦横比ではなく、「1.9:1」のIMAXデジタルシアター用の規格(全国のIMAXデジタルシアターで上映可能な形式)での撮影だったんですね。エキスポIMAXは確かに最高でしたが、先に気づいていれば十中八九品川のIMAXで妥協してました。

www.youtube.com

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通常のスクリーンサイズ

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アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』で採用された「1.9:1」のスクリーンサイズ

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ダンケルク』だとさらに縦にデカイ「1.43:1」で撮影されている。これが上映できるのは日本だと大阪のエキスポIMAXだけ。2019年には池袋にも対応館ができる予定(早く完成してくれ)

 

閑話休題ここからふせったーの投稿内容も盛り込みつつネタバレです。

 

特報ではトニーのピンチに、満を持して駆けつけるスティーブたち……といった趣の編集になってましたが、これが完全なミスリードで、クライマックスが全く別の惑星で同時展開だったのはやられました。

てっきりスタークがハルクバスターに乗ってサノスと戦うものと思っていましたが、まさかバナーがハルクバスターに乗る展開とは。特報で走っていたハルクがブラフとは、思いもよりませんでした。

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スリードを誘うハルク

トニーのピンチに駆けつけるスティーブを期待していただけに、距離的に分断されたまま無情なまでの大敗北を喫するラストは衝撃でした。『シン・ゴジラ』では人の死を直接的に描かないことでかえって死の重さを演出していましたが、本作のラストも大量虐殺を静かに局所的に見せることで、かえって最大限の不気味さを醸し出していて見事でした。

個人的に本作の最萌えシーンはスティーブから受け取った携帯(しかもちゃんと充電してある)を肌身離さず持っているスタークだったんですが、まさかその後2人の絡みが一切見れないとは。

 

初日、劇場の帰りのエスカレーターにて「ルッソ兄弟前後編にはしないって言ってたのに! ふざけんな!!」と、声を震わせブチギレてるオタクを久々に見ました。気持ちは分かる(笑)。でも、サノスくんの受難に満ちたハラハラ世直しムービーとしては綺麗に完結したハッピーエンドなのでな……。エンドロール最後の「サノス・ウィル・リターン」で場内苦笑が上がってて笑いました。

サノスは許されざる大量虐殺者ですが、信念を持って悪事を働いているのが良かったですね。ハゲで娘と確執があって、人口抑制制作を断行って、なんだか『グレンラガン』のロージェノムっぽい。武人としての風格もあるので、ユニークな悪役になってました。テンプレ的な悪役ならば、タイタンでの決戦時にクィルへの精神攻撃とばかりにガモーラを殺した件をひけらかしたりしそうなのに、そんなそぶりも一切ありませんでした。

 

個人的に本作一番の不満は、タイタンでのクィルの暴走。あれはあまりにも非合理的すぎる。ただ、非合理だと思うのと同時に、とても同情的な気持ちも持ってしまうので複雑です。

あと少しでサノスのガントレットが外れるというところで、クィルは我を忘れて殴りかかり、サノスを起こしてしまう。この非合理的行動に対して、率先して止めに入ったトニーはその後一言もクィルを責めないんですよね。なぜなら彼もまた『シビル・ウォー』で感情が先行した不合理を働いているので。

クィルは本来合理的な性格です。ドラッグスが我を忘れてサノスに襲い掛かろうとしたときもすぐ説得側に回ったし、大義のため一度ガモーラを殺す決意までしていた。本来合理的な性格なのに、たった一度の不合理により気が付いたら負けていて、挽回のチャンスもないまま塵になり消えていく無常さ。

あるいは1400万通り以上の未来を見たストレンジならば、クィルの暴走を止められたのかもしれません。それをしなかったということは、あそこは未来の分岐点となるほどの重要な場面ではなかったのかもしれない。であれば、せめて殴らせてあげたのはストレンジなりの優しさだったのでしょうか。

親友たちの死を知ったロケットのことを思うと、つらぽよすぎて思考が止まってしまいます。

  

ワカンダにて、石の破壊を提案するビジョンと反対するワンダ、そしてそれを見つめるスティーブの視線が描かれるシーンも良かった。

ヴィジョンは、スティーブもかつては自己犠牲的行いをしたじゃないかと詰め寄っていました。でも、あのスティーブの視線は、過去の自分とビジョンを重ねているだけでなく、遺される側のワンダにも向けられてるよなあと思うのです。遺される側にも相応の痛みがあることは、『ウィンター・ソルジャー』などのペギーとのエピソードで嫌というほど描かれていました。

最後、ヴィジョンの亡骸に寄り添いながらサラサラと塵になっていくワンダが、ヴィジョンと同じ場所に行ける安堵感からか、どこか安らぎの表情に見えるのもまた辛かったですね。

 

目的を果たしたサノスがガモーラ(少女)と会話をするシーンは「ソウル・ストーンの中かもしれない」という説もあるようです。石絡みで消された生命は、魂が石に格納されるのでしょうか。そのまま石の力によって復活できると良いのですが。

ただ、生命の半数が死んでしまうという大災害なので、安易に蘇ったのでは興ざめしてしまいます。それ相応のドラマが求められることは、きっと作り手側も理解していることと思いますので、こちらの想像を超えるような完結編に期待。最後に登場がほのめかされた『キャプテン・マーベル』ともども、来年の完結編公開が待ちきれません。

「ダーリン・イン・ザ・フランキスが酷い」が酷い

「これがエヴァの呪縛か……」と、鏡で自分の姿を覗き込むような感覚にさせられたので触れておきます。

anond.hatelabo.jp

増田氏は追記で『エヴァ』について「好きじゃねーよ」とわざわざ否定してみせていますが、それこそツンデレっぽいし、終始「エヴァとここが違うからダメ」とレッテルを貼って回っているようにしか見えない。一時期全てのアニメを「『ヱヴァQ』的であるか否か」でしか測れなくなった過去がある身としては、お気持ちとても分かるのですが。

 

 ■そもそも前提がおかしい

増田は『フランキス』の1話を「『逃避的な態度だった主人公ヒロが戦いの決意をして敵を倒すまで』の話」であると要約しています。そして、『エヴァ』におけるシンジの逃避と決意の理由がしっかり描けている点を挙げ、転じて、『フランキス』第1話がそれを描けていないと批判している。

しかし、1話目は厳密には「決意→成功(ヒロが敵を撃破)」という内容ではないわけです。表面的にはヒロが乗り込んだことで、主役機・ストレリチアが覚醒し、敵を倒してはいます。しかし続く2話を見て分かるとおり、主人公が真の意味で乗り込んで*1いたかについては、早くも強い懐疑が向けられる。

増田は、ヒロが何やら葛藤を抱えている点や、それを乗り越えさせるべく叱咤するナオミの台詞が上滑りしており、このような展開は『エヴァ』を見習いもっと話数を重ねてからやるべきだったとしています。この主張は一見もっともらしいのですが、それは『ダリフラ』が『エヴァ』をなぞった話運びになることを前提にした場合の話です。

増田やその他多くの視聴者が指摘している通り、確かに『フランキス』には「『エヴァ』っぽい」部分が多い。個人的にも、錦織監督の過去作を見ていなかったため*2、まさかここまでガイナロボットアニメ直系の内容になるとは思っておらず、驚きました。ですが、だからといって全て『エヴァ』との対比で考えようとするのは、かえって作品理解を妨げます。

要はこれ、『エヴァ』的なものは序盤でとっとと処理して、もっと先の、別のことを描こうとしているからなのではないかと思うのです。

 

■歴史的に明らかな挫折

2話アバンでヒロの「記憶は無いが、自分の力で飛べたと信じている」といった趣旨のモノローグが流れます。

ヒロは何やら自信をつけている様子ですが、こうした無根拠な自信は、『エヴァ』でシンクロ率が高まり調子に乗ったシンジがディラックの海に飲み込まれる第16話。『フリクリ』でカンチを乗りこなしているのは自分だと勘違いし、増長したナオ太が単に部品としての役割しか担っていなかったことが分かる第5話。『トップ2』で「一緒に星になろう」と誤った万能感に飲み込まれる第5話のラルク……

など、過去のガイナ作品で無数に描かれてきた、上げて落とす展開そのものであり、実際2話ラストでヒロは歴史的必然性に導かれて挫折を味わいます。

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調子に乗って、その後突き落とされる16話のシンジ。

ダリフラ』第1話の「成功」は単に「成功」として描かれたわけではなく、「成功の後の挫折」を予感させる前フリであり、「もう次の話題に移りますよ」という宣言でもあるわけです。

 

■「ヒロ」ではなく、「コドモたち」の物語

エヴァ』は突き詰めていえば、自己と他者のコミュニケーションの問題を、シンジ(≒庵野)個人の内面にフォーカスして描いた作品です。2話で早くも『エヴァ』との差別化を感じるのは、準主役級キャラ=コドモたちの多さです。

エヴァ』でもミサト、アスカのような準主役級のキャラは複数登場します。ただし、シンジを含め、彼らは他者とどのようにかかわるべきか分からないという悩みを抱えていながら、それは群像劇としてではなく、より内面的な自問によって解決が模索されていく。

一方『ダリフラ』では、2話目にしてイチゴがヒロやメインヒロインのゼロツーを食ってしまう勢いで痛々しさを発揮しているし、そんな彼女の影にはまたまた深い闇を抱えていそうなゴローがいて、さらに彼らが所属するプランテーションには他に6人のコドモたちが控えている。

群像劇として『エヴァ』とは違う展開が待ち受ける予感しかしないので、やはり違う尺度で見ていくほうが適切だろうと感じるわけです。

  

■押し付けられた「性」

群像劇の先に何を描くのかについては、3話の放送が終了したばかりの現時点ではそれこそ妄想のような予想しかできません。コドモたちが「性」を抑圧された(あるいは「男性性」「女性性」という形で押し付けられた)状態から、何らかの形で解放されるまでのお話になりそうだというのはなんとなくうかがえます。

そのための設定的なひねりとして、ヒロが男性(ステイメン)ではなく、女性(ピスティル)パイロットとしての資質がありそうなことも早い段階から匂わされています。しかし匂わせるのが早すぎるので、そんな展開すらも中盤あたりで乗り越えられ、終盤の超展開の前座として処理される可能性もあり、油断ならない作品だなあというのが現段階での感触です。

あ、そんな妄想の話はさておいて、増田氏の論調で気になったのがもう一点。増田は今石監督について「トリガーで監督やるようになった今石と錦織は、樋口真嗣と同じで、人の手足となった時に有能なタイプ」と評しているんですが、それはちょっと厳しくないですか?

作画監督向きの人が監督をやる不幸」と切って捨てていますが、今石さんが作画監督を担当すると今石色が前面に出る*3ため、増田の言う「人の手足となった時に有能なタイプ」に当てはまるとはなかなか思えないのですが。でもまあ、それは余談でした。

55点。

 

*1:(これは『スタドラ』用語です。増田さん、スタドラを見てください……あなたの脳内に直接語りかけています……)

*2:恥ずかしながら『THE IDOLM@STER』も4話の鶴巻コンテ回しか見ていない

*3:もちろんそれが魅力だと感じる人もいます。あと、『ダリフラ』へのアクション監修としての参加や、『リトルウィッチアカデミア』へのコンテでの参加など、ロケットパンチ的な飛び道具としての登板には完璧に応えるタイプだとは思います。しかし増田は「作画監督向きの人」と雑で謎な括りで切って捨てようとしてるからなあ。

『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』感想 ピングドラムとグレンラガンの間に

 15日深夜に見てきました。前作『フォースの覚醒』は徹頭徹尾ウェルメイドで、それはそれで良かったけど、今回は一転して歪にとがっている印象。

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深夜1時に満員のTOHOシネマズ新宿

 前作を初期3部作に寄せた空気感で再構築したJ・J・エイブラムスの手腕は素晴らしかったですが、それを2作、3作と続けていくとマンネリになるのではと懸念していたので、それが良い意味で裏切られた形。

 最近「スター・ウォーズ」シリーズまわりでは『ローグ・ワン』で大幅な再撮影が行われたり、『エピソード9』『ハン・ソロ』の監督が降板したりとなんだか不穏なニュースが多かったので、プロジェクトが肥大化して収集がつかなくなっているのではと、ぶっちゃけ信用してなかったのですが。疑ってすみませんでしたという気持ちです。『ローグ・ワン』も不穏な噂をよそに、本編は大変良いものでしたしね。

 

【※以下『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』のネタバレを含みます】

 

 映画の完成度という意味では、フィンたちの作戦がほぼ「無意味」だったりするのが惜しいのですが、最終決戦に挑むルークや、ラストカットで星々を見上げる少年など、画的な素晴らしさが欠点を大幅に上回っているので、総合すると最高な映画でした。

 とにかく意外だったのは、レイとカイロ・レンの内面描写の方向性。「何者か」である証明を欲する2人の姿が見ていて痛ましかった。特にレイに関しては前作で、出自に特別な何かがあるかのようにほのめかされており、彼女自身、自分が特別な存在であってほしいと期待しているようだったので、突き落とされた感が強烈でした。

 今作でレイは、自身の過去を探れば探るほど「何もないらしい」ことが分かってくる。何者でもない者が、それでも自分の存在意義を探すという構図は『ブレードランナー2049』のKのようでもあり、合わせて『輪るピングドラム』の高倉家を想起させられました。また、『輪るピングドラム』で「きっと何者にもなれない」と告げられた子ども達が、愛を分かち合うことで、互いにとっての何者かになったのと同じように、レイとカイロが互いの痛みに共感し心を通わす過程は切実なものに見えました。

 そして、切実に苦しむ2人の姿があるからこそ、後半でルークの描写を通して、「選ばれた」者が主導してきた「スター・ウォーズ」の物語が、大転換を迎える様に大きなカタルシスを感じました。

 

 ルークはレイに修業を付ける際、ジェダイはそう大層なものではなく、フォースとは世界に宿るものであると説きました。達観した仙人のように余生を過ごすルークは、どこか『天元突破グレンラガン』最終話のシモンのようでもあります。『グレン』といえば、作品の代名詞ともいえる「俺を誰だと思っていやがる」という台詞があります。シモンはことあるごとにこのセリフを口にし、自らの存在を絶対のものとして主張していました。

 ところが最終話でシモンは、ドリルの使い方を手ほどきした少年に「俺を誰だと……」と言いかけ、「いや、誰でもないか」と独り言をこぼします。シモンは銀河を守る戦いで勝利を収めた正真正銘の英雄ですが、彼は自身の存在意義を「倒れていった者の願いと、後から続く者の希望」をつなぐ“媒介者”として認識するようになったのでしょう。物語の主柱として絶対の存在感を誇った主人公が、中心の座を後進に譲ることで、物語に永遠の広がりを持たせる。この図は、いつ見ても切なく美しいものです。

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 「スター・ウォーズ」シリーズはこれまでスカイウォーカー家の血を引く「選ばれた」者が主導する物語でした。しかし『最後のジェダイ』でその前提が大きく覆されます。象徴的なのはルークの退場と、主人公のレイが「何者でもない」こと。それでも本作は、フィンやポー、新キャラクターのローズなど、「何者でもない」一般の人々が等しく英雄足りえると示し続けることで、前提の転換が神話の終焉を意味しないことを宣言します。この福音にまだ気づいていない様子のカイロ・レンの行く末と、今後のシリーズ展開がますます楽しみです。

 余談になりますが、『最後のジェダイ』を見るまで、なぜ若きハン・ソロを主人公にしたスピンオフ映画をやるのか疑問でした。しかし本作を見て、だいぶ腑に落ちました。ハン・ソロももともとは単なる荒くれ者で、「何者でもなかった」。そちらのスピンオフも、『ローグ・ワン』と『最後のジェダイ』の流れを組んだ作品になりそうな予感がしています。